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「で、なんて言うたの」 椅子を極限まで軋らせて、足をまだ片づけられていない平積みの本の上に投げ出す。 『今後一度でも研究室に来たら、君の卒業は保証できないよ』 そうやって日経新聞を広げた才谷は上半身が一面に隠れていた。 「そりゃまた単刀直入にやったもんやな」 朱江は窓際で呆れたような声を出した。 「だってねえ、あいつの低脳、ハンパじゃないから、そうしないと分からねーんだもん」 がさがさ、と新聞の端から三日月の目が見えた。才谷は笑っている。 「…お前、十分悩んだんか?」 「悩むって何? 悩むって。悩みようが無いでせう。 孝子と美香を並べて、美香を採るやつが何処にいるの?」 「おるかもしれんで。大切なんは金やない、言うて美香ちゃん採る男が」 「だったら美香もそういううざい男とくっつく迄さ」 朱江がちょっと目を丸くしたくらい、その東京弁は不快な印象を与えた。まるで自分までも一緒に侮辱されているような感触を覚え、彼は珍しく眉間を曇らす。 「…俺、その『うざい』ゆう言葉ごっつ嫌いやわ。もうちょっとええ言葉ないのん?」 「じゃ、『センチメンタル』ぢゃ?」 高いけれど、冷たい声がスマッシュでも打つように切り返した。 「映画的でいひ響きだろ?」 「……」 「……」 理由もない衝突の危険が掠める。だが、二人の学者は同時にそのことに気がつき、お互い如才なく背骨の力を抜いた。 「……もういいじゃない。朱江」 「…んー…」 「もう選択は済んだ。後はその責任をとる迄さ。大丈夫。午後学長に会いに行くよ。それでこの件は終わり」 「…けどな、才谷、俺が言いたいんは……」 その時、私室の扉の腹が鳴った。とんとん、と二度乾いた音が鳴る。 「はい?」 致し方なく口を噤んで横を向いた朱江を後目に、才谷が扉の方へ向かう。 「どなた?」 「――――あたしです」 扉のこちら側で、男二人は顔を見合わせた。 どうやら彼女は卒業に執着が無いらしい。 「あらいやだ」 才谷はぼそりと呟く。その声にはどうも俺はまたしくじりをやったらしいぞという、自嘲の皮肉があった。 「野村君、悪ひけど今―――――」 言いながら素早く貧弱な錠を回そうとした才谷だが、それよりも一瞬早く美香の足が、問答無用に扉を蹴破った。 「うっわー、信じられない」 才谷は呆れて首を振る。 野生化しちゃったよ、このブタ――――つまり、イノシシ。 入ってきた美香は、図書館から飛び出して自分を追い抜いていった頃の彼女にそっくりだ。目はぎらぎらしてるし、感情がもろに露呈して非文明この上ない。 「…え、何これ?!」 そんな彼女が叫んだのは部屋の中のことである。あちこちが引っかき回されて乱雑な上、隅には紙が一山ずつ束になってうずたかく積まれている。 「引つ越しだよ」 「!!……」 肩を竦める才谷を見上げ、彼女はその返答に表情を痛めた。 「…俺、出とくか?」 二人を横目で眺めつつ、朱江が気を利かせて言ったが、才谷は苦い顔でかぶりを振る。 「…朱江ちやん、いてくれないと困るよ。今この馬鹿女と二人きりになるのはちよつとやばいでせう。島田の部屋はこのすぐ下だしな」 靴の後ろで忌々しく床を蹴った。 「で、野村君のご用件は?」 美香は呼吸を整える暇もなく、分かり切っていることをしゃあしゃあと尋ねる才谷を睨み付けた。 「一体あれは、何なの?」 彼女は悲嘆にくれる前の段階で、まだ怒っているらしかった。 「だから」 才谷が咳払いをする。 「お別れでせう」 「…冗談じゃないわ、あんなやり方ってある?! あたしに一言も言わせないで! しかもそんなことになってるなんてあたしちっとも知らなかったのよ! どうしてもっと早く相談してくれなかったの?!」 「相談つて」 胸から取りだした煙草に火を点ける動作を休んで、彼は眉を八の字にした。 「君を棄てる相談を君にするの? さすがの俺もそこまでは」 「それでもいいわ、こんなやり方をされるくらいなら! あんなひどい電話一本で……!」 「御免なさい」 唐突に、美香の目の前の男は頭を下げた。かつて一度も自分に向かって頭など下げたことのない「大人」の旧式な謝罪に、彼女は一瞬目を眩まされる。 「もう二度とやりません」 「……」 思わず口を噤んだ彼女が惑っていると、才谷はちら、とその小狡い瞳を見せる。 「……これでいひ?」 「―――――― !!」 美香はあまりのことに四肢の脱力を覚え、泣き出すかと思った。どうしてこんな男に引っかかってしまったのだろう! 「……才谷さん…!」 「気が済んだら帰つて頂戴。朱江クンは、黙つていてね」 動きかけた朱江が、先を制されて渋々と巻き戻る。 「…才谷さん、お願いだから真面目に聞いて。本当にこの先、やっていけると思ってるの?」 美香はしつこかった。怒りが消え失せた代わりに表現は落ち着いて、寧ろ長続きを始めたのかも知れない。 付き合いの限界を感じ、才谷は構わず机へ向かう。角に腰を下ろしながら、ガラスの皿に紙巻きの灰を落とした。 「ねえ、そんな結婚して**になれる*本当に思ってるの? 結婚だけじゃ**、大学も離れなきゃいけなくな***しょう? あなたなん****言って経済学が好きなん***い。…そうで**う?」 ――――やめてくれ。 才谷はうっとおしげに目を閉じる。君の使う、その高くて脆い言葉が聞き取れないんだ、俺には。 だが、そんなことは知らない彼女は諦めず続ける。 「…他のも**取り戻すって言うかも知れな*けど、幸福も取り戻せるの? 本当に? 心から好きな人*側**ないで、好きなこ**やれない**?」 才谷は憐れみを含んだ唇を歪める。 「…そんなことを言ふ君は、君の言ふ選択が導く人生がどんなものか分かつていない」 すると美香は敢然と顎を上げ、抗議を始めた。 「…分かっ*るわよ! 少なくと***たの言う選択より*本当の幸福に近*わ! 言うほ**労ば**じゃな**よ!」 宗教だな。 たまたま耳に入った「本当の幸福」などという言葉に笑っちゃいながら、才谷は振り向いた。抑えきれなくなった怒りと苛立ちに唇が引きつっていた。 「…あのね、あんまり無責任なこと言わないでくれる? 君はものに不足したことがないから、本当のところは何も分かっていないでしょ。 …耐えられるわけ? 君の人生から君の大好きなプラダが消え、WOWOWが消え、君のお気に入りのソファが消え、買ってもらうはずだったたくさんの指輪や洋服や、ラメ入りのマニュキュアが消え、休暇も、車も、余裕もってどんどんものが逃げていっても? それはね、野村君…。君が思ってるよりもずっと悲しく、ずっと惨めな生活だよ」 自由な生活と言ったとき、お前が思い浮かべるのはテレビドラマの画像だろう。現の実はそんな甘いものじゃない。 物に事欠いたことがあるか。眼前の労働に疲弊してうんざりしたことがお前にあるのか。ぶくぶくと膨らむバブルに育った忘れっぽいお前。 「…今柴崎に逆らったら、下手をすれば失職、うまくやって左遷だ。どちらにせよ今までと同じような生活を続けるわけには行かなくなる。 君とは現状で出会って、君は現状の僕しか知らない。どうせどちらを取ってもこの大学からは離れるんだ。 …では、職のない貧乏な僕なんか想像できるというのか? そもそも青山のスーツなんかを着ている俺だったら、君は見向きもしなかっただろう」 「………」 「そうだろう?」 答えられない美香に、才谷は嗤う。 「――――いつだって小賢しく自分のことしか考えていなひくせして…、べらべら偉さうな説教を垂れるんぢゃない!!」 怒鳴りつけられて、彼女は黙る。 仕方なかった。どこか楽天的に考えていたのは確かだ。才谷と自分の未来をひいきしたいあまりに…偏る心で。 だがそれでも。彼言った薄い紅色のマニュキュアが光る爪を、美香はぎゅっと握りしめる。それでも私は、あなたを愛している。 そして涙を噛みしめるようにして、言った。 「…それでも、あなたが消えてしまうよりはずっとましな明日よ」 ――――その言葉は、最初から最後まで変に明瞭に、才谷の脳髄に響いた。 朱江が窓際で瞬きする。 虫でも目に入ったらしく、ちょっと右手を持ち上げた。 「…才谷さん…、きちんと分かってる? 私別にあなたと別れてもいいよ…。…でも、あなたを好きになってあなたに手をつないでもらったのに、最後になってあなたじゃない人に棄てられるのはいや」 首筋からはい上がるように鳥肌が立った。 「……!」 美香の言葉なんかのせいじゃない。才谷は心の中で慌てて頭を振った。なんでこんな時に体が震えたりするんだ。まるでこんな女のこんな安い言葉に感動したみたいに映るじゃないか! 雑音は何処に行ったんだ。 なぜ急に聞こえるようになったんだ。 俺の耳は一体どうしたんだ…! 「…本当に迷いが無いというのだったら、才谷さん、あんなやり方しないで。あなたの言葉で、あたし達のことを、きちんと終わりにして。 あたしあなたが本当にそう思ってるなら…、本当にあなたのためなら、別れても、いいんだよ」 机に両手をついて、才谷は今度は本当に首を振った。 「――――つまらんセンチメンタリズムだ…!」 「才谷さん」 「いい加減にしろよ!」 だが、振り絞るような声にはどことなく力が無かった。怒っているというよりも、頼み込むような響きになる。 「…悪いが決めてしまったんだ。俺には敗者の人生なぞ歩めない。俺を好きだと言うんなら失敗に唆すのはやめてくれ!」 「だから言い過ぎよ、失敗だなんて。ものが無くったって死ぬわけじゃないわ! 二人でがんばれば何とかなるし、楽しくやっていけるよ!」 それがセンチメンタリズムだと言うんだ…! 才谷はぎゅっと目を絞る。 「…甘く見るな。モノが無いくなるだけじゃない。人だって去っていく。どんな友達でもモノが去れば、一緒にどうしようもなく去って行くんだ」 「いいじゃない。それならそれで!」 「お前は人から蔑まれて生きることがどんなに辛いか分かってない! 自分がそうしたいなら好きにしろ。…だが、少なくとも俺は、もう人から見くびられて暮らすのはたくさんなんだ!」 「――――――…もう?」 それは、もう一つの非常口だった。この迷路には実は二つの出口があり、片方に孝子が、もう片方に美香が、立っていたのだ。 「誰が…、あなたを軽蔑しているっていうの?」 その質問は思いがけない間違いの無さで、的の中心をぴたりと指した。ぽかんとした美香の無邪気な問いに、才谷ははっとする。 「…誰が…?!」 才谷の眉が歪み、咽喉の黒から流れ出た時間が飴のように引き延ばされた。 「…誰、が……?」 学長にはきちんと返事 分かつているのか、これがどういうこ 最後のチャンスをふいにす お父さんの言ふとおりに お前は呑気でいやにな これ以上私にこれ以上私にこレ以上私ニ恥ズカシヒ思ヒヲサセ 「…才谷さん、もしかして」 ルナ 美香の困ったような表情が母のそれと重なる。瞳孔に閃く緑が彼を吸い込み、ぴたりと照準が定まった。 「――――センチメンタリズムに執り憑かれているのはあなたの方じゃないの?」 マサヒト―――――――。 「もうええ」 ずっと我慢して横で口を噤んでいた朱江が、どちらのものでもない言葉で動いた。力の入らなくなった冷たい手足と青い顔した才谷と、自分が彼に与えた打撃の大きさに戸惑いつつある美香の間に割って入る。 「…あなたは……!」 関係ないでしょ、と食ってかかろうとした美香を、妙な迫力でにらみつける。 「あんまり大人に…、恥かかせるもんやない」 彼は背中に才谷を庇っていた。 「今はもうええやないか。君はひとまず、帰りなさい」 小さな声で付け加える。 「…心配せんでも、学長のところには行かせやせん」 美香と朱江の間で、幾度か視線が絡み合った。やがて彼女は収まらない様子ながらも、体を引く。黙ったまま靴音も立てずに、部屋から出ていった。 扉が閉まる。 取り敢えず事態を収めた朱江は、机で頭を抱えている才谷をどこか愛おしげに眺めやると、 「君は実はこの世界向きな男やないな」 くつくつと笑った。 「とっくに気付いてたのと違うの? 賢人君。自分は…こっちの住人やないって」 「……」 蟻でも口に入ってしまったかのように、才谷はひどい面をしていた。眼鏡はまた、鼻先までずり落ちて、引きつった十本の指で髪の毛がぐしゃぐしゃになっていた。 机の角にちょっと腰を下ろしながら、ため息と共に朱江は言った。 「…人生ってのはほんま、ややこしいことばかりやなあ」
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