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Un-natural
=3=





 






「…先生、季語ないんは俳句と違いますよ」
「あれ、そうやの? 風呂って季語?」
 ゼミ歓迎飲み会のざわめきの中で、荻野涼人は困ったような優しい笑みを見せた。
「違うでしょう、…僕かて歳時記には詳しゅうないですけど」
「じゃあこれなんやの」
「川柳でしょう」
「あらー?」
「まあ自由に言いたいことを書くんやったら、川柳の方が楽ちんですよ。
 それにしても先生には色んなお友達いてはるんですね。俳句やってる人なんか、すごい羨ましいなあ」
「ゆうても半アマ半プロみたいな感じやけどな。大学ん時の友達やねん。荻野君やておるやろ、そういう自分とは全然違う分野の友達」
 すると目の前の美少年はさらに困ったような色を深めた。
「うーん、おることはおるんですけどね。ただ…男友達ばっかなんです。大丈夫ですか?」
と、言ったのは、朱江が突然ビールを喉に詰まらせたからである。
「ゲホッ。ごめん、大丈夫。続けて続けて」
手を振る。
「はあ。…僕、高校男子校やったんで、まだちょっと女の子と付き合いにくうて。最初入試んときはマジで思いましたからねえ、なんでこんなに女がおるのん?! とかって。
 で、男同士で固まっとく方が楽ちんなんでついついそおしとるうちに二年になってもうて。一年時はまだ色々イベントもあったんですけど、もう最近は。後、そおゆう場面はゼミくらいですかねー」
 と、自然と視線を、きゃあきゃあとかしましい女の子達の一団へと移す。だがその目は誰かの眼差しとうっかり触れあいはしまいかとおどおどしていたし、頬には一抹の照れが浮かんでいた。
「何も無理に仲良うすることもあらへんけどなー。でもまあゼミのイベントは暇なら参加しといたほうがええかな。この世界にも、色んなコネがあるからな」
「ハイ」
「荻野君、サークルとかはしてへんの?」
「バトミントンなんかやってますけど、サークルなんでもう気が向いた時にって感じです。バイトもしてますけど、総研なんでこき使われてめっちゃ大変で、友達とか作る暇ないですね」
「ふーん」
 頬に肘をついて上機嫌だった朱江に、彼はふいにその整った顔を向けた。
「先生は。…どうかしました?」
「いや」
 あまりに無防備に鼻先が近づいてきたので、撥ね飛ばされそうになった朱江は、後ろにのけ反ったまま手を振る。
「続けて続けて」
「はあ。…先生は彼女とかいはるんですか?」
 こういう質問が一番困る。月子は親友だが彼女ではない。同じ趣味の仲間はそれ以上に「彼女」では有り得ない。
 大体、通常の男の世界で「彼女がいる」って言葉の持つ意味はなんだろう。自分は常にセックスの相手になる女を確保している、という自慢に過ぎないような気が朱江にはする。
 それならば、発散の方法をくれる男友人はいるが、しかし目の前の無垢なボーイが尋ねている意味での「彼女」への妥当な返答ではないだろう。彼には女は遠く、恐らく性行為自体も憧れと恐れの彼岸であるからだ。彼の問いはそうした、ふわふわしたおとぎ話に近い非現実を含んでいた。
 普段は簡単な嘘で済ます質問に、今日ばかりは二進数的な高速で悩んだ末、もっとも便利な答えを、朱江の頭脳は吐き出した。
「うーん、あんまし俺もてへんからなあ…」
「なにゆうてはるんですかー!」
 急に荻野君は大きな声を出して、ビールの瓶を傾けた。「あ、ありがとう」と言いながらグラスを差し出す自分の教官に、笑いながら酒をつぎ足した。
「先生みたいな人がもてんわけないでしょう。もー、いけずやなあ」
「荻野君、酔うてる?」
「違いますよー。もう。先生、いっぺんでも鏡のぞき込んだら、自分がハンサムなことくらいすぐ分かるやないですかー。憎らしいな、そんな逃げ方しはって」
 逃げたのは確かだから、朱江はビールを飲む振りをして黙っていた。胸中はやや複雑であったが。
「とぼけてへんで今度恋愛の話し、聞かせて下さいよー」
「機会があったらな」
本当にね。
 「でも僕、先生が担当に決まってほんま良かったです」
「なんで?」
さすがに三度目となると、無意識な彼が投げる罪な爆弾にも慣れた。心が騒ぐのを後ろへ流しながら尋ねる。
「だってあんまし年齢の離れた人やと、ジェネレーション・ギャップってあるやないですか」
 ああ、澄んだきれいな瞳。
まるで初夏の川に船浮かべて酒飲んでいるみたいな心地だ。
「先生くらいやと僕も色々話しやすいです。これから宜しくお願いします」
 涼しい夜風が俺を取り巻く。
ああ、なんて美しい名前だろう。
若い朱江はぼうとしていた。
…ああ、なんて美しい名前だろうと。



 十一時を回ったところで、朱江はまだ笑い声盛んなゼミ室から抜けた。明日は講義があるので程々にしなくてはならない。
 仮眠のベッドにもなるソファにどっと腰を下ろすと、間接や背中が思いがけなく重く、自分が疲労しているのが分かった。
 だがそれは甘い疲労だった。それどころか彼の心臓は今更動きを活溌にして、朱江は額を抑えてじっとそいつが去っていくのを待った。
 今は、駄目だ。家に帰ってからなら、この痺れに身を任せて不道徳に耽ってもいい。だが勤め先、社会的成功の実行の場であるこの大学は危険だ。
なぜなら、



 「――――朱江先生、お疲れですね」
こういった手合いが耐えず彼を監視し、隙あらばこの閉じられた男の秘密を手にしようと目論んでいるからだ。
 朱江は額を覆う手を上げた。まるで遠くでもみはるかすかのような仕草でそこに立つ女を見た。
「やあ…、清水さん」
「飲み過ぎですか?」
 この堂々とした立ち振る舞いの女は、朱江の研究室でも指折りの優秀な院生である。自分にどれほどの魅力と実力があるのか知っているから、人前でたじろいだりしない見ていて気持ちのいい人間だ。
 同期からも年下からも教授連にも人気がある。無理もないと、朱江だって思う。その矛先が自分に向かうのは、迷惑だが。
「今年はどうです? 有望そうなん入ってきました?」
「君のほうがよく分ってるやろ。教えてもらいたいくらいやで」
 ソファと微妙な距離を置いたまま、清水は理性的に笑った。新入生は最初みんな彼女の周りにたかる。世話好きでさっぱりした先輩の側は居心地がいいからだ。
「でも引っ込み思案な男の子はみんな先生の方、行ってしまいますから。そう言えば今日は私、先生とあんまりお話出来へんかったなあ」
「また合宿がある。どうせ飲み会になるやろ」
「そうですね。…先生、ちょっと気になったんで教えて上げますけど、上着のボタン取れてません?」
 手だけを動かして胸を触ると、確かにない。どこで落としたんだろうと思っていたら、何もかも用意周到な彼女が、まるで手品のような滑らかさでスーツのポケットから取りだした。
「床に落ちてました」
 別に女が駄目だという理由だけで、このヒトがこんなに嫌いなわけじゃないと思うんだけどな。朱江はちょっと苦い笑いを浮かべると、手を差しだした。
「ありがとう」
「先生、これご自分で着けられるんですか」
 顎を引いたままちょっとにらむように自分をみる朱江に、彼女は嫣然と笑う。
「あたし、今度先生んちに遊びに行って、お洗濯でもさしてもらおかな」
「……」
 静まり返った研究室のドアの向こうから、まだ騒いでいる宴会の笑い声が聞こえてきた。






 丁重に お断りする その裏で
 大きなお世話と 赤き舌出す






 




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