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Un-natural
=5=





 







 ありのままに生きていけばいいのだと歌謡曲は唆すがその先は誰も語らない。ただむやみやたらと人の希望を刺激して金を絞り取るばかりだ。
 朱江は久しぶりに月子と会って、自分達があたら幸福な恋愛を追求できる身分でないことに改めて気付かされた。
 …もし。もし、この胸に兆した感情をあの涼やかな人にぶつけるというのであれば、そしてその後何らかの結果を欲するのであれば、その前に確認せねばならないことがある。どう思うのか―――いわゆる同性愛について。
 この作業をしてからでないと自分の感情そのものが冗談と受け取られ兼ねない。そしてその結果生じる社会的ダメージは朱江の最も望むところではなかった。
 月子はその精神的負担に耐えかねて今、異性との恋愛に身を慣らそうとしている。朱江は慎重に慎重をつくすことで此岸に残ることを選んだ。
 野獣のような鋭さで、自分の本性を隠しながら生きていくことにはもう慣れていたが、それでもこのような危険に踏み込まねばならない瞬間が、恋の幸福と共に必ず来る。
 「――――すね。で、合宿のスピーチは結局長田先生がお引き受け下さったいうことです。清水さん、話が遅うなってすみません、言うてはり…。
 …先生? 聞いとられますか?」
「聞いてます聞いてます。どうもありがとう」
「いいえ…。頼まれましたんで」
 院生清水からの伝言を言い終えた荻野は、さして気を悪くした様子もなかったが、朱江が普段に比べて覇気がないのを心配しているらしかった。
「先生、どっかお体のお具合でも良うないんですか」
 朱江は、笑みを浮かべると椅子をぎいぎいと左右に振って遊びながら尋ねた。
「なんで?」
「いえ…、なんか元気ないように見えますから。お仕事お忙しいんですか?」
「…まあね。いや、別に仕事のことやないんやけどな」
爪をいじりながら、どうでもいいことのように話を始めた。
「ちょっと昨日久しぶりに友達と会うたら、悩み持ちかけられて。それに引き込まれてちょっと憂鬱になっとんのやろな」
「そうなんですか」
「そうなのよ。…その子女の子やけど同性愛者でなあ」
 心中で歯を食いしばっているのは自分だけだ。目の前の男はちょっと目を丸くしただけだった。
「勿論秘密にしとんのやけど、会社の飲み会なんかで同性愛がどうのって口がさない連中が言うの聞いて辛いんやって。そういう話、ずっとしててなあ」
「そうでしたか。先生はほんま、色んな友達いてはりますね」
「かもな。でも別にフツーのええ子やねんで。そんなつまらんことで悩まされとんの、かわいそうでな」
「…そうですねえ。みんなそういう人、周りにいてへん思うてますからねえ。実は側におっても、知らんで結構ひどいこと言うてまうから。
 向こうからはなかなか言い出せへんのやから、こっちが気い遣ってあげなあかんよなあ思いますよ」
「え…、あれやの?」
緊張した朱江は一瞬言葉に詰まって、無意味な物言いをした。
「…君の周りにもおるのん? そういう人」
 荻野は細い眉をやや寄せて、ごく当然、と言った表情を浮かべた。
「おりますよー。
先生、男子校ご存じないんでしょう。ああいうとこでは学年に一人や二人、必ず女性化するやつがおって、マフラー編んで、男にプレゼントしたりしますのん。
 僕もラブレターもろうたりして、結構そういう人知ってます。だから遠い話やとは思いません。周りに隠しとるけどそういう人もおるかもしれんし、出来るだけ変なこと言わんようにしてますよ」
 頷いて聞いていたが、三回目を越したあたりから自分でもなんで頷いているのか分からなくなってきた。
「うー、そうやな」
しまいに間が保たなくなって朱江は変な声を出す。
「…君みたいな人ばっかやったら、その子もそんなに苦しんだりせえへんのやけどなあ」
荻野はにっこりする。
「そうですかねえ…。僕が言うたんじゃなんにもならへん思いますけど、その人にがんばって下さい、言うとって下さいね」
 彼はぺこりと礼をして出ていった。
朱江は扉が閉まった瞬間に立ち上がり、鍵を掛けた。それから机に突っ伏して、どっとばかり緩む緊張の糸と、一緒に溢れだしてきた心臓の鼓動にようやく息を吸う。
ああ――――――
むちゃくちゃ切ない……
 上気した頬にだんだんと暖まっていく机の木肌に埋もれて、彼はあふれ出しそうになる叫び声を堪えた。
 それから歌にあるように彼の名前を美しく、優しく繰り返し呼びながら、注意深く片手だけを使ってありふれた不道徳な遊びを、ちょっとだけする。





 寄る辺なき せつなさの海に溺れつつ
 TANKAのように君の名を呼ぶ





*






 「なんつったらええのか、…俺、やばいかもしれん」
待ちかねた夜、今日も大学の研究室から電話を掛けながら、朱江は月子にそう漏らした。
「…なんかもう、歯止めきかん感じ。マジかもしれんわ」
はーっとため息をついて、額を押さえる。
 「そう」
月子の声は優しかった。
「でもそのコ、良い子そう。よかったね」
 それから、彼女はまるでそれを告げておくことが自分の責務であるかのように付け加えた。
「…でもね、それでも必ず、最後の確認だけは忘れちゃダメだよ。それを踏み越して大丈夫だろうと思っていたら、本当は全然大丈夫じゃないってこともあるからね…」
「うん…」
 月子の経験を知っているだけに、その言葉は朱江にとって重かった。彼女は最初勤めた郷里、東京で、野獣にあるまじきへまをしたのだ。
 「大丈夫だろうと思って」―――、十分親しかった女友達に恋情を告白した。その次の日から、彼女は会社に居場所がなくなってしまった。
 面と向かって誰かから何を言われたわけでも、仕事に差し支えるなどと言われたわけでもない。ただ、彼女は「まともな」人ではなくなったのだ。それは曰く言い難い、行儀の良い取り扱いだった。だから耐えられなかった。
 月子は会社を辞め、大学時代を過ごし友人も多かった京都へ戻ってきた。そして今はこうして、派遣社員として働いている。同じ目に遭いたくなければ、朱江も注意を怠ってはならない。
「…どうもありがとう。…ええ具合に、冷や水やわ」
「どういたしまして」
くすりと彼女の鼻が鳴る。
「…今週末合宿なんでしょ。帰ってきたらまた話を聞かせてよ」
「せやな…。月子は週末は?」
「うん、堤さんと予定入ってる」
「そっか。…お互いがんばろうな」
「うん」
 明日にぼんやりと明るいものを感じながら、二人はめいめい、軽い受話器を下ろす。






 




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