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Un-natural
=6=





 







 新しい面々を加えて、一泊二日の合同ゼミ合宿は賑やかしく続いた。合宿などと言っても言い訳程度に教官がちょっとしたスピーチをやる以外は、ほとんど飲み会と同義である。
 朱江はセッティングした院生達の指示にだらだらと従い、長田助教授の退屈なスピーチを聞き流しながら、押さえつけた胃の底辺で夜が始まるのを心待ちにしていた。
 昼間には、朱江の本性が動き回る余地は用意されてない。きっと太陽の光が強すぎるのだろう。市民権のない朱江の半身はただじっとうずくまり、その容赦ない厳しい明光が去っていくのを待たねばならない。
 人の体力がつきる夜と、精神のたがを外すアルコールの混じり合った混沌の中で、ようやく抑制された一片は目を開くことを許される。朱江は決して酔わない。酔うのは真っ当な人々だけなのだ。
 午後九時、午後十時、十一時、
まだまだだ。
もっと早くもっと、時計の針が進めばいいのに。
その時朱江は、シンデレラの気持ちがわからなかった。
 横を陣取って小うるさい清水と、それにくっついてきた女生徒達の面倒くさい質問とに遮られて、今夜は荻野が遠い。彼は同期の男連中と少し離れたところで平和裡に談笑していた。
 「先生、結婚はなさらないんですかー?」
無遠慮な生徒達の質問に、相手はまだたったの二十歳なのだと我慢して、朱江は答える。
「忙しゅうて、そんな暇ないよ」
「えーでも。今、家のこと全部自分でやってはるんですよねえ」 
「まあね」
「炊事とか掃除とかァ、アイロンも…」
「繕い物もよ」
 思わずにらんだ先で、清水が澄ました顔をしていた。一種のお返しのつもりだろうか。
「えーっっ! ボタンつけとか?! でもそうかあ、そうやねんなあ!」
と、女の子達は総崩れになる。
「うっわー、想像できへん! 先生が針に糸通してるところー」
「いやー、かわいいわー!! かわいー!!」
 今更迷惑そうな顔をしても始まらない。朱江は黙ってビールを飲んだ。空になったコップに、すぐに清水が続きを足す。
 …女であるという理由だけで、自分には男の世話を焼く資格があると思いこんでいるこの清水を見ていると、彼には月子の気持ちが、「だいっ嫌い」だという言葉の出所が、解るような気がする。




 午後十二時半を回った頃、女の子の集団と数人の新入生が部屋に引っ込んで大分静かになった。これから先は教官同士や、馴染みの院生達が穏やかに長い間話をする落ち着いた流れになる。
 ようやく一息ついた朱江の隣に、にこにこしながら荻野がやって来て座った。
「えろうつつかれてましたねえ」
「見てるだけで誰も助けてくれへんしな」
「まあまあ、たまにはええやないですか。こんな機会でもないと先生とはお話できへんいうて、女の子達が言うてましたよ」
「なんでや」
「先生、あんましええ男なんでみんな近寄りがたいんと違いますか。酒の勢いかりた、精一杯の冒険なんですよ。許したって下さい」
「……」
 さて、俺の「冒険」はこれからだ。
荻野の継ぎ足した温いけれどうまいビールに口をつける。
 君はどう思う――――――。
…実は俺は君のことが、たまらなく好きなんだと言ったら……。
 嘘つけ。こんな聞き方出来るわけない。
想像を暴走させさえすればいいあの小手先の遊びとはわけが違うんだ。もっと現実的になれ。もっと遠回しな―――――。
 その時、上目に伺うようにして彼の横顔を見ていた荻野が、思いがけなくこう切り出した。
「…ねえ、先生。こないだ同性愛のお友達の話なさってたやないですか」
「…!?……」
 テレパシーかよ、これは。
瞬間、朱江はずいぶん学者らしくないことを考えた。それ程そんなタイミングにびっくりしたのだ。
「…あ、ああ…」
 「あの…、まあ余計なお世話かも知れませんけど、僕、結構気になってますのん。あれからお友達、どないな具合ですか?」
「え? あー。最近はまあ結構、落ち着いてるみたいやけど…」
「そうですか。よかった…」
それから彼は顔を上げ、次のように続けた。
「…あの、ほんま大きなお世話や思いますけど、…もし良かったら僕、ええところ知ってますよ」
 朱江には彼が言っていることの意味が分からなかった。
「…は? ええところって?」
問い返すと、荻野はあくまでも優しい笑みを浮かべながら言葉を濁した。
「うーんと…、だから相談機関ですよねえ。
 ウチの附属病院なんですけど、精神科の方に最近、性同一性障害の専門医が来たんですて」
 荻野の目元は出会ったときと同じように涼やかだった。
「先生とこの間お話しした後、ばったり高校時代の友達に会いましてん。あの、ちょっとお話しした思うんですけど、マフラー編んでた例の子です。その子から聞いたんですよ」
 彼の声はとても優しかった。人間として実に優等な、真っ当な人間として実に思いやりに溢れた――――
「今その子、そこに通ってて、結構ええんやそうなんです。まだまだ始めたばかりなんで結果はそう出てへんけど、先生は後々、男性に対する慕情なんて何かの勘違いだったみたいに思えるくらいになる言うてはるんですて――――――」
 息継ぎのために一旦言葉を切った荻野は、朱江が瞬き一つしないでこちらをじっと眺めているのに気がついた。その表情はどこか強張っていて、よく分からなかったけれど唇から血の気が失せているように見えた。
「先生…?」
「……なんやな」
「え?」
「つまり彼女は、…病気なんやな」
 静まり返った世界の中で、彼はちょっと肩を動かす。
「……やっぱ、それはそうでしょう? 先生はそう思われへんのですか?
 だってやっぱり不自然やないですか。基本的に人間には生殖の使命があるのやから、そのために必要な相手に欲望を覚えるように出来てるはずですよ。もともと。
 別に悪いことやなんて思いませんけど、やっぱりアレは、一種の病気と違いますか」
「…じゃあ…」
 黄色いコップの内側から細かくて死にそうな泡がひょろひょろと立ち上り、消えた。
「こないだ君が気を遣うって言うたのは、つまり病気の人間の前でその病気の話したらあかんいう、つまりそういうことやったんやな」
 当然、そういうことだったんじゃないのか?
荻野は寧ろ不思議そうだった。
「…ええ。だって本人の責任と違いますもん。変態とか言うたら、可哀想ですよ」
だってそれは不可解な、病なのだから。





「そうか―――――」
 分かった。よく分かった。
つまり君にとって俺が今から言おうとしていた言葉は、…「気の迷い」にしか過ぎないんだな。
 そのようにしか受け取られない。
…そうなんだな。
 結論を噛みしめたら、まるでシャボン液のようにまずかった。うまく舌が動いた気もしなかったが、とにかく
「疲れたんで、引き揚げるわ」
と言って席を立つ。ちょっとびっくりしたような荻野を後ろに置いて、ここも彼のための居場所ではなかった宴会場を、立ち去った。



 そして歩いていった。
臥所まで続く無限の廊下を独りで歩いていった。
 酒のせいなのか、そうじゃないのか、足下がふらふらして地面が軟体に見えた。いつだって道は長く、曲がりくねって俺を悩ませる。生まれたときからずっと、俺は迷っているような気がする。
 ―――――Boys Don't Cry.
こんな題名の映画がどこかにあったな。
見てないけど。いい題名だ。
Boys Don't Cry.
 朱江は部屋に辿り着いて、ホテル特有の冷たいシーツに身を投げ出した。指がくしゃくしゃと長い髪の毛を掻き回したけれど、彼は泣かなかった。
 彼は産まれたときからBoyであり、Boyであることに疑問も、悲しみも、恨みも感じたことはなかったからだ。
 彼はその姿勢のまま、靴も脱がないで朝まで目を覚ましてただ、喘ぐように呼吸を繰り返し続けた。






 火あぶりの 刑になっても 敗れても
 俺は泣かない 決して泣かない






 




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