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Un-natural
=7=





 







 早まることもなければ、早まらないでよかった合宿は終わった。朱江は一睡だにしなかっただるい頭を抱えて、夕方なんとかマンションまで戻ってきた。(荻野は朝驚いたように彼を見て、「二日酔いですか?!」と聞いた)
 日曜日の夕方。
もう何も出来ない時刻だった。眠ろうか、どうしようか。椅子に座って考えながら、朱江は無意識のうちに煙草を口にくわえる。
 そうやって一本、二本と灰にするうち、あっさりと日は暮れ、七時になった。朱江は何が待ち受けているかも知らず、幸福に夜を待っていた昨晩の自分を笑いながら煙を吸った。
 そうしてじき、煙草の箱が空になってしまったので、買いに出ようとやっと立ち上がったとき、電話が飛び上がって、朱江はどきっとする。
「―――――あ」
 よく見ると、留守電も一件来ていた。気がつかなかった。と思いながら反射的に電話を取る。
だが、…声が出るのかな。
「もしもし―――――」
あ、出た。
「……」
 あちらからは水音がした。
開けっ放しな源からざあざあと流れる水の音がした。
「…もしもし?」
 水が電話をかけてきたのか?
愚にもつかないことを考えた次の瞬間、
「………数矢」
まるで電流に打たれたかのように、朱江は顎を上げた。
「…きこ…?」
 何か、訳の分からない魂の一部分が不穏な予感に騒いでいた。左のこめかみに心臓が出張してきて、心無く騒ぎ立てる。
 なぜならば、
「―――――あなたには、言っとこうと思って…」
こんな声を朱江は確かに聞いたことがあったからだ。
 京都に戻ってきたばかりの頃の、あの、打ちひしがれくたびれ果てた弱々しい、敗けた獣の――――――。
「さよなら」
 右の鼓膜から、左の鼓膜へ、その声は突き抜けた。彼が息を飲んだその隙に、回線は断ち切れる。


 朱江は受話器を投げ出し、玄関へ走った。最後の理性でやっと財布だけはひっつかんだが、鍵なんか思考の外だった。
 朱江は非常階段を飛ぶように駆け下りた。足も、頭も、唇も、世界も痺れていた。ただ、今更のように目だけが、水が溢れてきて仕方がなかった。
 きっと風になぶられたせいだったのだろう。
彼は奇妙に歪んだ現世をさまでおかしいようにも思わず、ただひたすらに、走った。



*




 「病気の友達の見舞いに
 いかなければならないの




*




 鍵は閉まっていた。
朱江の細い手が、以前教えてもらっていた通り、郵便受けに器用にすべり込んで、マグネットで止めてある忌々しい銀色を探し当てた。
 もどかしく開く扉の隙間から、背骨を震わす水音が零れてくる。
「―――――― !」
 朱江は自分が何を叫んでいるのか聞こえなかった。水音だけがざあざあと思考を支配していった。それは戦慄すべき、だがふっと気を許すとそこへ引き込まれてしまいそうな冷たくて優しい呼び声だった。
 だから、浴槽に顔を突っ込んでいる月子の、折れ曲がった半身を見たとき、彼には彼女が何をしようとしていたのかすぐに理解した。
 彼女は自分を構成する全ての原子の活動を、その圧倒的な水の力によってお終いにしたかったのだ。そして朱江は有無を言わさぬわがままで、その淵から彼女の体と希望とを、此岸へと引き戻す―――――。
「…月子!!」
 水の溢れ出す浴槽の傍らで、彼は幾度も呼びかけながら、彼女の喉元に空気を送り込んだ。そのうち睡眠薬を飲んでいることに気がついて、呼吸が復活した後、指を突っ込んで無理やりそれを吐かせる。
 水を止め、やっと、やっとのことで朱江は彼女を狭い浴室から運び出した。濡れた服を構わず引き剥がすと、見つけだしたタオルで冷えた体中を拭う。
 …小さな胸に触れたとき、心臓が動いているのが分かってやっとほっとした気持ちになった。そのせいで力が抜けてしまった両足に鞭打って、ようやくシャツだけを着せた彼女を、ベッドまで運んでいく。
 布団を掛けてやって、呼吸をしていることをもう一度確かめると、彼は台所へ立って鍋に火をかけた。その時、彼は初めて自分が水浸しなのに気がついたが、
「……」
特にどうという欲求も湧かないのが奇妙だった。
 温めた調理用のワインと一緒に部屋に戻ってきて、朱江は無理に彼女に少し飲ませる。うまく口が開かなかったので、少し口に含んで何度か彼女へ移した。
 その必死の労働はコップが空になるまで続いて、朱江はもうへとへとだった。やがて濡れた服のまま、彼女の横になったベッドの側にへたり込む。
 「違うやろ――――、月子…」
上掛けの中に手を滑らせて、彼女の冷たい右手をきつく握った。
「こんな形は…」
目を閉じる。
「こんな結末は―――俺達の描いた夢と違うやないか…」
 俺達は、もっと前向きな、もっと明るい未来を約束していたじゃないか。京都に戻ってきてすぐに会ったとき、そういって約束したじゃないか。
月子――――――。
 朱江は顔を布団に埋めた。その後ろ姿はまるで老いさらばえ、疲れ切った獣のように惨めだった。そのまま音も、術もなく、彼は泥のような眠りに落ちた。




*






 何時間くらいたったのだろう。部屋の電気はつけっぱなしで、時刻が判然としなかった。
 朱江がふっと目を覚まし、顔を上げると月子は目を開いていて、黒い二つの瞳がじいっと彼を見つめていた。
「………」
 ちょっと動こうとすると、変な形のまま座り込んでいたせいで、足がひどく痛んだ。ゆっくりと膝を組み替えて、それから左手で彼女の髪に手をやった。
「ごめんね…」
赤みを取り戻したその唇が弱々しく、動く。
 もう、どうでもいい。朱江は頭を振った。
生きているならそれでいいのだ。
「…一体、どないしたん……?」
 幼い娘の髪の毛を撫でるように彼は何度も、生え際から指を後ろへ通す。
「……堤さんと飲んでたら…。堤さんが……」
「……」
「…ホテルに…行こうって……」
 その言葉が彼女にとってどれほど致命的なものなのか、朱江は知っている。
「…断れん、かったんか……?」
彼女は微かに首を動かした。
「…断れなかった……。だって…、その理由をあたしは…話せないんだもの……」
 瞼に透明の涙が盛り上がったかと思うと、すぐに破れて下へ流れた。朱江は髪の毛から手を離し、後から後から溢れてくるそれを拭う。
「…そんで…、どうしたのや……」
「どう……した…? …どうしたんだろう、あたし…」
 一連の前準備。一連の言葉。その全ては苦痛のような緊張のうちにあっという間に過ぎてしまった。
 もう少しリラックスしていいよ。
彼の優しい言葉も、軋む間接にはなんの役にも立たなかった。
…結局、彼女にとってそれは初めての性行為、―――つまりレイプと、何ら変わるところがなかったのだ。
「あ…。あたし…、途中で……ううん、すぐ……。
その場で、戻しちゃったんだ……」
 そして全ては暗転の中へ。
真っ当な道を進もうとした彼女の努力は、無残な失敗へと逢着したのだ。
「……ごめんなさいって…、謝って……」
朱江の腕の中で、月子がしゃくり上げた。
「堤さんも……、気にしないでいいよって……!」
 手に拭えないほどの涙がぼろぼろと零れる。月子は両手で顔を覆った。
「でも…。あたしやっぱりダメなんだ…! ダメなんだって…!!」
 わななく爪が皮膚を傷つけそうになるので、朱江は無理やり彼女の両手首をつかんだ。黒い瞳が銀の涙に溺れて、そこに移る自分までがまるで今にも死にそうに見えた。
「…どれだけがんばっても…、ダメなんだ…! これから先も、どれだけ我慢しても、どれだけ努力しても…! あたしは、まともになれないんだ……! あたしは絶対、二度と、男の人とは恋愛できないんだ…!
あたしはやっぱり、変なん――――!」
 まるで顎をぶつけるようにして、朱江は彼女の唇を塞いだ。割り込んだ涙に微かな塩の味がした。

「もうええ…」
――――両手で力が抜けた彼女の顎を持ち上げるようにして、
「もうええ」
彼は言いながら唇を何度も重ねた。
「もうええのや…!」
 細い腕に強い力でぎゅっと抱き締められた瞬間、昨日が、今日が、過去が、未来が、荻野が清水がどっとばかりに襲ってきて、朱江の頭は燃えあがった。無念も愛情も全てが一緒くたになって、目の前の女へと落ちる。
 ――――貪るように、互いの唇が動いた。
朝だか夜だか不完全で不明な空間の中で、友人だか男女だか曖昧な二人の人間は言葉もなく、無我夢中で互いを求めあった。
 …朱江は彼女が大事で大事で大好きで、心の底から真っ直ぐに欲しく、彼女の手や肌に触れ合う度に、彼女も自分を愛しているんだと分かった。 彼女と二人で細かいことなんかもうどうでもよくなってしまうあの場所へ飛んでいきたかった。
 それは本心だった。
腕の中の人間が愛おしい。
相手の性別なんかどうでもいい。
 無理など何もしていなかった。
不自然なこじつけなどありはしなかった。
 それなのに彼女の両足の中に自分の体を入れた瞬間、
「!!」
やっぱり彼は―――――――硬直した。


 彼は、自分が今いかに出来もしないことをやろうとしているのかに気付いた。残酷な数瞬の中で、不道徳な兄妹でさえ超えられる壁を、自分達だけは超えていけないのだということを思い知った。
 …月子の目はまだ自分を見ている。男性たる自分を見ている。
彼女を慰めたい。愛し合いたい。
それは当たり前で自然な感情なのに。
こんなにも彼女が好きなのに――――


 ソレナノニ、
 俺ニハソレガ、
 出来ナイノダ。



 川柳だ。
どん、と頭から彼は月子の隣に落ちた。
両手で頭を覆い、骨ばった両肩を震わして、朱江は泣いた。
「ごめん…」
頭皮に爪が食い込む。
「ごめん、月子……!」
 俺はなんて出来損ないなんだろう。
「勘弁してくれ……!!」
 女友達一人、慰めることもできないのか。
お前は一体、なんのために生まれてきたんだ――――!


 「……ううん…」
背中に、そっと月子の胸が寄り添うのが分かった。
「…あたしだって、出来るわけないんだよ…」
朱江の絡む指に、自分のそれをそっと重ねる。
「それでも数矢と、試してみたかったんだ…」
 その言葉に、彼は涙に濡れる瞼を閉じた。
「…わがまま言って、ごめんね…」

 大人の海に、役立たずが二人。
成熟した体を持ちながら、彼等は黙って寄り添いあうことしかできない。そこから何ものも生産できない。
 人は生殖を果たす相手に欲情するように出来ているはずなのに、彼等は生殖のない関係にしか欲情できないのだ。
 変態なんかじゃない。
気が狂ってるわけでもない。
そんなこと最近は世間様だって知っている。
 ただ荻野が言ったとおり彼等は、この世界の中でどうしても、どうしてもそう―――――
「不自然」なのだった……。






 こんな疎外 こんな気持ちは形では
 五七五では 表せないよ







 




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