舶来






 四月、横浜の広川さんの紹介で、門前仲町と水天宮の間にある画廊に絵を持っていくことになった。
 水天宮だの、永代(えいたい)の辺りに詳しい人はあんまりいないだろうけど、ここは昭和的な古さの染み付いた界隈で、どことなく覇気のない民家の間に、海運業の会社が昔、えらくがんばって建てた西洋風の建築がちょこちょこ残っている。
 一時栄えた街がどうしようもない古さに行き当たって疲弊した感じも、街のいたるところに水路と橋があるところも、僕の本籍である呉に雰囲気が似ていて、嫌いじゃない。絵の入ったケースを肩から下げて、機嫌よく散歩しつつ画廊に着いた。
 画廊の入った建物も、やっぱり海運業者が建てたんだそうだ。ロの字型で中が駐車場になっている。天井の高さといい白壁といい、ミラノやパリで見るような建て方だと思った。
 敷地が広いので、何軒もの画廊や、レンタルスペースが同居している。僕の尋ねる鈴木画廊は二階の南西の角だった。誰もいない階段を昇っていると、背後から人の笑う声がこだまして追いかけてきた。
「だから、じゅんちゃんに言ったわけ――。それって相手にしたら、ほんの冗談のつもりだったんじゃん? って」
「えー、きっつー。超有り得ない」
 肩越しに振り返ったら、予想に違わぬおしゃれな格好の女の子たちが靴音をカツカツ慣らしながら、お財布を持って通りへ出て行くところだった。
 二階の廊下を歩く。扉を開けて展示をしている部屋もあったけど、平日の昼だからギャラリーったって誰もいない。廊下から差し込む日の光が空気を穏やかに暖めていた。
 木製の扉に、鈴木画廊、というプレート打たれた部屋へ来た。扉ごしになにやら話している人の声がする。ノックすると、
「あ。はい? どなた」
と、声が来たので、丸いノブを回した。
 開いてすぐは応接セット。そこに鈴木さんと思しきおじさんと、いかにも美術系って感じの(僕の言うことじゃないけど)若い人が向かい合って座っていた。
「すいません。今日の三時にお約束頂いていた吉田と申しますが…」
「あ。君、吉田君! もうそんな時間か…。
 ごめん! 外の廊下でもうちょっと待っててくれるかな。すぐ終わるから」
「あ。はい、分かりました…」
 というわけで僕は扉を戻すと、廊下の窓を背に置いてある、病院みたいにぞんざいなビニル製の椅子に腰を下ろした。
 水天宮から歩き詰めだったから、座ったらなんかしみじみした。ふーっ、と全身が安心してため息を吐いたような感じだった。
 窓は南西に向かって開いているから、まさに春の午後の、気だるい陽光が背中側からまったり降り注いでくる。
 建物の中は、しーんとしていた。いや、側の扉からはぼそぼそ人の声が漏れてくるし、遠くで電話の鳴ってる音なんかもするんだけれど、でも、空気自体は静寂そのもので、地方の学校の休日の校舎みたいな、人っ子一人通らない白昼の道路みたいな――分かるかな、そんな時間が建物の中に閉じ込められている。
 ここを出て十分も歩けば、恐ろしく交通量の多い永代橋に出て、コンビニとかタクシーとかバイク便とかドラッグストアとか、今、当たり前なもの達がひゅんひゅん流れていくのに、この建物の周りでは、車も滅多に走らない。
なんかここ、ひとりだけおかしいな。
 背中を壁につけて、まぶたを閉じた。簡単に言って、ちょっと眠かった。
 目をほのかに赤い闇に閉ざしてしまうと、耳がますます澄んでくる。相変わらず何か喋っている鈴木さん(?)の声。相槌らしい男の子の声。じりりり…ん。という黒電話の音(わざわざ好きで使う人がいるんだよね、あれ)。
 前の通りを今、やっとバイクが一台走り抜けていった。コッコッ…。というのは誰かが画廊の中を歩いている靴の音。間隔からいって、展示側の人。スズメの鳴き声。階段をぼわっと風のように昇ってくるのは、さっきの人たちの笑い声。昔の女学生みたいに、楽しくてしかたないってようにコロコロ笑ってる。
 そんな気配まで届くんだから、ここがどれだけ静かか分かるってもの。
 ジリリ…ンと遠くで鳴り続けていた電話のベルが、ようやく途切れた。
「……、………」
 言葉は聞き取れないけど、誰かがそれに応えて喋っている。女の人の声だ。
「………。……」
 少しして、それも終わった。それからコツコツコツ、と床を歩く音がして、ふいに近場でガチャリ、とドアの開く音がした。
 僕は驚いて眼を開いた。音はもっとずっと遠くから響いてきていたような気がしたからだ。そんな、鈴木画廊のすぐ隣の扉だなんて思いもしなかった。
 古い建物って、そんなに防音がいいのかな。びっくりしていたら、中から出てきた若々しい女の人が僕のほうを見てにこりと笑い、会釈する。それで僕も頭を下げた。
 それにしても、随分大人びた格好の人だと思った。ちゃんとした仕立ての、薄い枯色のスーツと足元までのタイトスカート。それに随分がっしりした感じの革靴を履いている。
 なんか、普通の企業でも最近あんまりありそうにない、きちっとした格好だ。それにメイクと髪の毛も古めかしかった。昭和初期の女優のブロマイドにありそうな感じ。
 女の人は胸元に英字の書類を宛てていた。廊下へ出ると、ゆっくりと扉を閉めて、一呼吸おいた。横を向いた口元が、面白そうに笑っているのが分かった。
 それからくるりと体を向こうへ向けると、コツ、コツ、コツ、とたっぷり、きれいに気取って歩いて行った。
 僕は女の人が角を曲がって見えなくなるまで、なんとなく見送った。
 その時、目の前の扉が開いて、さっきの若いアート系の人が出てきた。
「お待たせしましたー」
と、会釈して、鈴木さんにも挨拶して、廊下を帰っていく。彼はゴム底の靴を履いていて、歩くごとにそれがねじれる音がした。
「お待たせ、吉田君。どうぞ」
「はい。失礼します」
 僕は絵を持って、部屋の中へ入った。



 一時間半ほど落ち着いて気持ちよくお話しして、お暇することになった。
「いやあ、またおいでねえ。今度広川さんも交えてどっか酒、飲みに行こうよ」
 鈴木さんは太い眉の下の目が犬みたいな、恐ろしくない、人懐こい人で、僕も気持ちが楽だった。帰りがけに僕はふと、
「あ、そういえば、隣も画廊なんですか?」
と尋ねる。
「え?」
「さっき、待ってる時、女の人が出てきましたよ。なんかきちっとした人で、あんまこういう場所にいそうな人じゃなかったんですけど、鈴木さん…?」
 目を丸くしていた鈴木さんの顔に、なにやら人の悪い笑みが持ち上がった。
「あらー。まあ。そう! ミツコさんを見ちゃったか、君は」
 ――ぞくっ。と背中の下から上へと何かが走り抜けた。まだ何の説明も受けてないのに。
「なんですか、その『見ちゃったか』って…」
「ああ、大丈夫大丈夫。悪いもんじゃないから。寧ろ縁起もんだよ。いいもんだ」
 針金みたいに動きが悪くなった僕の背をばん、と叩くと、鈴木さんは廊下に僕を連れ出した。
「この部屋ねえ、昔は事務室だったらしいんだけど、今はパイプ椅子とかの資材置き場になってんのよ。カギかかってるし、勿論、お勤めしている人はいませーん」
 ガチャガチャ。と鈴木さんは磨耗して黄土色になっている取っ手を回してみせる。開かない。
 僕はバカみたいにその扉を指差した。
「…電話の音が、したんですけど…」
「縁起物、縁起物」
 厄を落とすみたいに背中を叩かれた。
「本当だよ。見たがってる人いっぱいいんだから」



 ちょっと眼を回しつつ、水天宮駅までの暮れ始めた道を歩いた。ぼんやりしている僕の脇を、車が次から次へとタイヤを唸らせ、流れていく。
 彼女はミツコさんといって、あの建物にいる人間はみんな知ってる、名物なのだそうだ。
 日中、誰もいない部屋で靴音を立てたり、電話に出たり、スーツ姿で歩くのを人に見せたりする。
 だからって別に悪いことが起きるわけでもなくて、いつでもにこにこしてて、面白いことに、夜には絶対出ないんだそうだ。
「勤務時間外なんだろうねえ」
と、鈴木さんは笑っていた。
「なんでもね、僕もまた聞きだけれども、この建物を建てた海運会社に勤めていた事務の女の人らしいんだよ。職業婦人ってやつかね。
 でも休憩時間に猫拾ってきたり、パーマかけまくってみたり、変わった人だったらしいね。
 結婚して退職した後、三鷹の方でずっと暮らして、一〇年ほど前に老人ホームで亡くなったんだそうなんだけどさ、どうしてか舞い戻ってきちゃったらしくてねえ」
 永代橋を渡ると巨大な外資系企業のビルがあって、水天宮駅は会社勤めの人が多い。
 まだ混み合う前の半蔵門線のシートに腰を下ろすと、向かいの窓にケースを抱えた自分の姿や背広の男性のうつむきがちな姿が写っていた。
 僕はそれを見つめながら、鈴木さんの言葉の続きを思い出す。
「よほど好きだったんだろうねえ。ここで働いていた時の自分が。
 外国語での電話も、知らない言葉の手紙も、洋風の事務所も、何もかも面白くてたまらなかったんだろうね。ひょっとしたら天国に行くよりこっちを選んだのかもしれない。
 かわいい人じゃない。俺、音聞くばっかで姿を見たことはまだないんだけど、どうよ?
美人だった?」









次へ >>