海水




「なんて、ひどい匂いでしょう! 全く、人の住むところとはとても思えません」
 従者の少年サーノを連れ、粗末な家を出た。高慢ちきな少年は往来へ出た後も、しばらく香水を染み込ませたハンカチを鼻から放そうとしなかった。
「彼も戦争に行く前はあんな人間ではなかったのだが」
「そいつは全く信じられませんね!」
 信じずとも、本当のことだ。
あの頭の中には、かつて賞賛の的となった、古今の膨大なる知識が詰まっている。ほんの数年前には彼も颯爽とした貴公子で、言い寄る女の数も五指では足りなかった。
 まして工房へ立てこもっては、『人造生物』を作り出すなどと妄言を吐くような男とは程遠い存在だったのだが…。
「この間、司祭様に、人間にそのようなことが出来るのでしょうかとお尋ねしたら、頬をぴしゃりと殴られました」
「お前は愚かだね。黙っているのだ。人にそんなことは出来はしないし、頭の堅い司祭様に、冗談を理解することなど出来はしない」
 彼自身にだって、青空とさわやかな海の傍で美しい女性たちと語り合う代わりに、あのような不潔な部屋で『あたらしい人間』とかいうものを作り出そうとする情熱など理解することは出来なかった。
 第一、なぜ『あたらしい人間』などが必要なのだ。人間なら既に満ち溢れているし、後から後から生まれてくるではないか。
 大運河に名だたる旧家の貴公子であるアドリアノ・エリッツィオは、豊かな金髪を潮風になびかせながら、舟で自宅へ戻った。
 家では、意外な事態が彼を待ち受けていた。




「息子よ、戻ったか! 
 こちらへ来なさい。お前に伝えねばならないことがある」
 船着場から上がるなり、家令が沈痛な顔で、彼を父親の前へ連れて行ったのだ。
「何事です、父上。私はチェチェリアに便りを書かねばなりません。後にしては頂けませんか」
「いや、それはならん。その他でもないお前の婚約者のことで、緊急に話があるのだ」
「なんですって。まさか、彼女の身に何か…」
「何かがあったどころの話ではない。よく聞きなさい。
 彼女は重態だ。毒を飲んだのだ。医者は既に彼女を見放した。もって数日の命であろう」
「……」
「しっかりするのだ、アドリアノ。我が息子ならばしっかりと。そしてこれからわしと一緒に、彼女の出立を見送らねばならぬ」
「出立…? 瀕死の身でどこに行くというのです?
 それに一体、毒を飲んだということは、どういうことですか?」
「そこなのだ。息子よ。勿論お前は、バルドヴィーノ・オディオという男を知っておるな」
「何故ここにそんな悪魔の名前が?!」
「悪魔。その通りだ。
 ――まずまずの家に生まれながら、性よろしからず、姦淫の罪を重ね、浪費に明け暮れ、詐欺、贋金作り、賭博、といった一通りの悪行から、ローマでは殺人にまで手を染めた悪徳の申し子だ。
 チェチェリアは、お前というものがありながら、あの男と通じていたのだ」
 アドリアノの顔から、血の気が引いた。立っていることが出来なくなって、父親の先導に頼りながら、椅子に腰を下ろした。
「まさか、そんな…!」
震える手で口元を覆う。
 チェチェリアがどうしてもカジノを見てみたいとねだったので、アドリアノは一度だけ連れて行ったことがあった。その時「あれは誰?」と示したのが、かの悪名高き放蕩児で、彼はそれを教えてやったが、以来二度と、会ってなどいなかったはずだ。
「内通者がいたのだ。二人に説き伏せられた愚かな侍女が、男をチェチェリアの寝室へ通したのだ」
「しかし何故…! …私は彼女に、あの男は悪魔のような人間だから、絶対に気をゆるすなと言ったのに…!」
「男の甘言に屈したのであろう。あの男の殺し文句を知っておるか? 『男なら、浮気は甲斐性と言われる。どうして女がそれをしてはいけないことがあろう。』 ――神よ!
 …おぞましいことに、チェチェリアの腹にはやがて、あの悪党の子種が宿ったらしい。つまり、一度や二度ではなかったのだ」
「……」
「不名誉と身の破滅を避けるため、チェチェリアは男に唆されるまま、あやしげな薬を飲んだ。効果は覿面。子は流れ、チェチェリアは自宅で倒れ、そして今、罪の報いとして死にかけておる。
 よいかアドリアノ。これが世間に公となれば、両家にとってひどい恥辱となる。不身持で穢れた娘を持ったチェチェリアの父親は勿論、お前も傍にいながら何一つ気付かなかった間抜けな婚約者として、陰に陽に笑われることとなるのだ。
 チェチェリアはこれからトルチェッロにある別荘に移送される。『急な病のため』だ。我々は礼に沿ってそれを見送り、そして彼女の死の報せが届いた後は、慣例どおり喪に服さねばならぬ」
「何故です…! そこまで彼女の罪が明らかになっておきながら、何故そのような茶番に付き合わねばならないのです!」
「馬鹿者、両家の名誉のためだ! 金を積んでも購えぬ名誉のためだ! 茶番で醜聞から救われるならば、我らは茶番をせねばならぬ!」
「あの男はどこへ行ったのです! 私はあいつを引き裂いてやる!」
「あの男は既にこの国から逃げ出しておる」
「――では追っ手を!」
「ならぬ! いい加減に理解せよ、アドリアノ!
 チェチェリアは! 病気で死ぬのだ! あの悪魔のような男と我々はもはや、何の関係もない!」
「……」
「侍女は一緒に姿を消しおった…」
「なんですって…? …一緒にいるのが悪魔の手先だということが、分からないのでしょうか?」
「女は愚かだ。愚かな生き物なのだ。
 よいかアドリアノ。女を愛することと、女が本質的に愚かだと知ることは、全く別のことだ。男は女の愚かさをよく承知し、その上で自らの名誉を守らねばならぬ。
 さあ出かけるぞ。怒りをのぞかせてはならぬ。瀕死の婚約者の船出を見送る、悲しみをこらえた立派な若者の役を演じるのだ」



 舟には、家つきの聴罪僧まで乗っていた。アドリアノは道化にでもなったような気分で、チェチェリアの家の船着場に父親と一緒に立っていた。
 周囲の無遠慮な人々の眼差しが、橋から、窓から降って、彼らを品定めしていた。
「…顔を、見せてくれ」
 彼の言葉を聞いて、幌の被ったゴンドラに同乗していた司祭が、アドリアノを見た。
 その嘲笑うような抜けめない目を見たとき、アドリアノは彼が、全ての事情を知っていながら、同じように演技でそこにいるのだと分かった。
 幌の中へ招かれる。
娘は青ざめてぜいぜい言っており、もう半分死人だった。薬のせいか顔が腫れ上がり、かつての美貌は、見る影もない。
「お気を落とされてはいけません。楽園追放来、こんなことはよくあることなのです。女が清楚なのは見た目だけ。あなたのお母様もそういえば…。
 さあもうよいでしょう」
 司祭に肩を捕まれて、アドリアノは陸へと押しやられた。



 何が、よくあることだ。
夕日の下、連なって進んでいく舟を、精一杯敬虔な面構えで見送りながら、アドリアノは思った。
 ならばその「よくあること」を、男はなぜこうも繰り返し止めることが出来ないのだ。
 チェチェリアの父は不始末をしでかした娘の枕元へも行かぬし、バルドヴィーノ・オディオを訴えることもせぬと言う。
 皆がそうやって罪を隠し込むから、犯罪者はやすやすと大陸の端まで出かけて行っては同じ事を繰り返すのだ。
 本来男が女よりも賢いなら、何故こんなことになる。得意なのは、後始末だけか。
 そして女は、どうして自力で留まれないのだ。美しいのは、声と、本当に、見た目だけなのか。
 手元にたまった恋文の文面には嘘ばかり書いてあった。
 人はこんなにも簡単に、偽りを並べたてることが出来るものなのか。
 …調べた限りでは、母親と浮名を流したのは、彼の家庭教師でもあった修道僧だった。
 彼はほんの子どもであった彼に言ったものだ。信心せよ。信心せよ。
悔い改めよ。
 いきなり我慢できなくなったのは深夜だった。アドリアノは剣を抜くと、家に並ぶ先祖伝来の宝飾品をはしから叩き壊し、しまいに家中の使用人たちから寄ってたかって押さえ込まれた。








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