『よーす。アベちゃん。がんばってるー?』 『は、話しかけんな…。ふうふう。俺は今、忙しいんだ…』 『はははっ! まあがんばれよ。ちなみに当座の目標はナニ?』 『も、物事には、順序があるから…。せ…、せ、接吻かなっ!』
[ 7 ] 王の生まれた日
灯りのない、青い書斎。 アンリエットの下でマクシムが身じろぎすると、唇が外れた。アンリエットは身を引き、菫色の瞳をまぶたで細くして、愛しげに彼を見つめる。 側面から垂れた金髪が、顔の周りを房飾りのように彩っていた。 「…誰にでも、こんなことをしているなんて、お思いにならないでくださいね」 「……」 「あなたは…、マクシム、特別な方ですの。あなたのような方には初めて会いました。 …強く気高いのに、無垢で、水のような真摯さをお持ちです…。人々の中にいても、傷つきやすいガラスのように、独りで立っていらっしゃる…。 強さとはかなさがないまぜになった、奇跡のような魅力がおありですわ。 初めてお会いした時から、昼も夜も…、…リアルにおいてさえ、あなたを思っています…。傷ついたあなたを慰め、お守りしたいと思っています。どうぞ、不快にお思いにならないで」 「……」 マクシムの手が、注意深くアンリエットの肩を押した。視線と注意が脇へ反れている。 それに気付いたアンリエットが顔を上げると、書庫の入り口に、男が一人、影のように立っているのに気付いた。 「――城主様」 アルカンだ。動き出した彫刻のぎこちなさで、マクシムを呼ぶ。 「皆様が…、広間でお待ちでございます」 「…うん」 アンリエットは彼の邪魔にならないよう、身を引く。前を通った時、絹糸のような囁きを耳に放った。 『お便りを差し上げますわ』 マクシムは眼を伏せ、アルカンの脇をすり抜けてそのまま退出した。 敷居をまたいだ格好のアルカンは、主人が消えるや、凍る眼差しでアンリエットを刺す。 ――女狐が。 アンリエットはほんの少し困ったように眉を動かして、腕組みをした。 「私の身辺を探っても…、何も出なくてよ。羊の皮を被ったアルカンさん」 「……」 「知っているわ。あなたなのでしょう。【エナメル】と『山ノ手』の息の根を止めたのは」 アルカンは返事をしないまま、城主の後を追って姿を消した。 白いアンリエットは一人青い部屋に残り、同情をこめて笑う。 祭りは深夜零時に終了した。 残る者は依然残るが、キリがないのでマクシムは引き上げる。 結句女に逃げられたアベじいと、それを笑うフースケ、未来の騒いでいる広間から、一人執務室へと戻った。 接続を断つ前に予感をもって文箱を開けると、アンリエットからの手紙が届いていた。 携帯の番号とメールアドレスが載っていた。 *
「誠!」 翌朝、何かを決意したらしい父親が滑稽なほどの勢いで言って来た。 「二四日の夜、江尻さん達がうちにご飯に来るからな!」 「ああ、そう」 雷は走らなかった。珍しく半分寝たような眼差しで、誠はあっさりと言った。 「来てもらったらいいよ」 「…えっ? そ、そうか」 「僕は出かけるから」 *
寒いのにあくびの出る二四日の昼下がり。 公園の前で女連れの高津を見かけた。 小五の時、なにかっつーと馬鹿とつるんで安倍ちゃんをいじめてたやつだ。 いかにもカノジョなコをチャリの後ろに乗せて走っていく。あらうらやましい。そう思った時、最近安倍ちゃんが変に焦ってる理由がやっと分かった気がした。 俺らも付き合いは長いけど、今みたいに四人でセットになったのは、高津がらみの事件以降だ。 まず、あんまりしつこくいじめられた安倍ちゃんが未来に保護を求めた。すると今度は未来がいないところでのいじめが始まったんで、その陰湿さに腹を立てた誠がやめるよう忠告した。 最後の大一番は冬休み。 高津達は腹いせに安倍ちゃんのチャリを盗んでぶっ壊したのだが、これが未来と誠を決定的に怒らせることになった。 みんなで遊んでいる最中、たまたま奴らとあいまみえたのが福永家具の前で――思い出すなあ。中学生並みの体格だった未来が高津に本気で寝技かけて、落とす寸前まで行ったの。 もうやらないか! やらないよ! やらないな! やらないよ! って、ほんと山伏の修行だった。 その福永家具の敷地も、平和な家族向けマンションになってもう何年やら。前を通って、駅へ買い物に出る途中、別の通りで今度は未来に会った。 「あれ、未来。何してんの」 「ああ? …なんだ恒介か」 彼は手袋をはめた手にビニル袋を提げ、白い息を吐いた。気のせいか、珍しく元気がないみたいだ。 彼が立っているのは、安田さんの古いお宅の前だった。ほら、未だに塀が昭和中期の板塀だったり、昔のままの窓や屋根で、コンクリ住宅の間にしんみりうずくまってるお家があるでしょ。あんな一軒。 今日は妙に人がいる。奥に広がる庭の中で、おばさん達が集まって話してるのが聞こえた。 「ここ潰してマンション建てるんだとさ。それで、植木が欲しかったら今のうちに採って行ってくれって、息子さんが」 「ああ――。お前の母さん、園芸趣味だもんな」 時々変なものにも凝るけど。 未来の袋の中をのぞくと、確かに土のついた何かの株が入っていた。 「なにこれ」 「エビネとか言ってたぞ」 「茶碗蒸しに入ってるやつ?」 「そうだろ」 「ていうか安田のおばあちゃん。どうなったの? 確か二年前に梗塞で倒れたんだろ」 「ああ。そのまま痴呆が進んじまって、今どっかの施設に入ってるんだ…。多分、もう戻る見込みがないんだろうな」 「よく学校帰りに寄ったよなあー。おばあちゃん、きまってヤクルトくれんだよ。ふふ、うまかった…」 頷く未来は、さびしそうに見えた。 「あちこち、大きなマンションの建設だらけで、どんどん風景が変わっていく」 「……」 「俺の好きだったもんがここ数年で、幾つもなくなったような気がするよ」 未来と別れて、俺は駅前へ向かった。 大掃除の道具を揃えねば。主夫学生には冬休みなどないのだよ。しかも夜は警官ごっこまでやってるし。 今年のクリスマスイヴは晴天だった。SEIYUを出て空を見上げると、歩道橋の向こう側に大工事中の武蔵小金井駅がある。 高架化工事の真っ最中だ。 これが完成したら、俺らは地面にはいつくばっていた中央線を知っている、最後の世代になるんだろう。 俺達は確かに生まれたときからムサコの住民だけど、今も昔も、変わっていくこの景色に対して、ほとんど無力で受身一方だ。 親父にそういうと、それは仕方のないことだと言われた。街の変容を止めることは出来ない。それは日々、お前の心身が成人に向けて変わっていくことを、嫌でも止められないのと同じなんだと。 * 【アンリエット】と【マクシム】は、昼間、池袋で落ち合った。 とんでもない人出だった。携帯で情報を交換してやっとのことで互いを認識する。 彼女は二つ上の大学生だった。音大でピアノを弾いているのだと言う。 さすがに日本人ではあったけれど、身奇麗で髪の毛を上手にアップしているところ。真面目で聡明そうだが、少し思い込みをする癖のありそうなところは、ゲームのキャラそのままだった。 彼女は誠を見ると、にこっと微笑んだ。誠の外貌がそれほど不快でもなかったらしい。 それにしてもクリスマスの都心がこんなに混みあうとは知らなかった。どこかでお茶でもということになったのだが、平日だというのにチェーン系のカフェはほとんど満席だ。 それで大通りから少し外れている、古い喫茶店に飛び込む。こういうところは雰囲気のいい分値段が少し高く、空いている。 注文をした後、誠が窓にはめ込まれた古い色ガラスをじっと見ていると、向かいの席で彼女が微笑んだ。 「あなたって、思ったとおりの人ね」 「そう?」 「ええ。…人ごみが苦手そうなところも、珈琲でなく紅茶を頼むところも、着ている服の好みも、…そのきれいな指も、予想した通り」 「……」 誠は恐縮したが、無抵抗だった。それもまた期待通りだったのか、アンリエットは目を輝かせて彼を見つめる。 「私ね、今まで何タイトルかオンラインゲームをしてきたんだけど、いつもリアルでの人格がすごく反映されると思っているのよ。だからゲーム内の振る舞いから、リアルの人格を逆算した上でお付き合いするの。 あなたも、やっぱり予想したとおりの人で、嬉しい」 昨夜、至近距離で囁かれた彼女の言葉が、まだ耳朶に残っていた。 「覚えているかしら? エストの城で最初に会合を持った時、あなたは私達の北を攻めるべきだという言葉に対して、…とても高潔な、誠意のこもった返答をしたわ。 簡単には聞くことの出来ないような言葉。私はまるで、鉱脈を掘り当てたような気がした。 同時に、あなたは君主には不適格だと思ったわ。清廉すぎるもの。敵や違反者に対してまで礼節を尽くすなんて、【オオタカ】さんの言葉じゃないけど、若すぎる。 でもそれも、決して不愉快な感情じゃなかった。寧ろあなたの仲間となって補佐していきたいって、そういう気持ちにさせられたわ。 あなたの苦しそうな未完成が人を惹きつけるのよ。 …リアルでもそうじゃない? あなたの周りにはきっと人が集まってきて、あなたを頼りにするでしょう。あなたのことが好きな人もいっぱいいるはず。年上の人からも、結構かわいがられるんじゃないの?」 「…どうかな」 紅茶と、彼女の頼んだカフェオレが来た。ストレートのまま一口喉に含むと、誠は続ける。 「あまり年上の人との接触がないから…。大抵、同級生か年下だし、教師ともあまり…」 「そうなの? 兄妹はなし?」 「一人なんだ。それに…」 母親は、べたべた甘えられるのが嫌いな人間だった。だから誠だってそうなった。 父親はあの通りの男で、彼は両親の離婚以来、父の性格的にダメな面を、陰に陽に支えてきた。 のに。 「――…みんな、僕に次々と色んな助けを期待するけど…」 「ええ」 「…僕がうまく助けてやらないと、非難するんだ…。 中学に上がった頃、それまで一緒に遊んでた年下の女の子が、輪に入れなくなってきた。中学生の男どもと、小学生の女の子だから、うまくいかないのも当然だろう? 僕は前から、いい加減そのコも女の子同士で遊んだほうがいいだろうと思ってたから、敢えて味方をしなかった。 …すると彼女は、恨めしそうな顔をして僕を見たんだ。彼女をのけ者にしたのは僕じゃなかったのに、僕が助けなかったといって、未だに根に持っている…。 友達の一人も、失望していた。彼はそれを隠していたけど、よく分かった。 最近、そういうめぐり合わせが増えたみたいで…。ちょっと、疲れるかな…」 「…分かるわ。結局『山ノ手』の件もそうだったものね。ノルを落としたあなたを陰謀の主のように言う人がいるけれど、筋違いよ。 あなたは戦争を回避しようとしたのに、彼らが攻撃してきたんだもの。しかもあんな卑怯なやり口で…。…未だに許せないわ」 「……」 「マクシム、元気を出して。人には誤解させて好き勝手言わせておけばいいし、失望させておけば、恨ませておけばいいのよ。 人って本当に勝手なことを言うし、考えるわ。仏様じゃあるまいし、全員に筋を通していたら、いくらなんでも参っちゃうわよ。 正しく理解されることも大事だけど、結果があれば過程はどうでもいいと割り切る柔軟性も大事よ…。 多分、あなたがまだなりきれていないのはそこだと思うの。そのコツさえ掴めば、あなたはもっと強くなるし、きっと段原さんにも劣らぬ国王になれると思う。 …本当よ」 「…どうもありがとう」 誠は控えめに笑って、椅子に座りなおした。彼は普段よりも総じて受身だったが、初対面の彼女には知り得ないことだ。 店を変えて食事を終えた頃には、夜八時を過ぎ、街はイルミネーションでぴかぴかしていた。窓越しにそれを見ながら、誠が言う。 「この辺の漫喫、どこが一番安いかな」 「どうしたの?」 「別れた後、時間を潰したいんだ。ゲームでもしていようと思って」 「家に帰らないの?」 「…つまらないことがあって、家には、ギリギリまで帰りたくない。終電まで、時間潰すよ」 「そうなの…」 会計を済ませ、地下鉄の駅まで彼女を送っていった。ところが切符を買った彼女は誠の手をぎゅっと握り、黙ったまま改札の方へ引っ張るのだ。 眼を見ないまま彼に切符を押し付けると、自分は取り出した定期で、先に改札をくぐった。 誠は切符を手にしたまま、人ごみの中にちょっとの間立っていた。だがやがてそれを、自動改札の挿入口に、黙ってさし込む。 「おー愛じゃん。どうしたの。…誠? いや、知らないよ。なにごと?」 『…ウチのママと今、誠の家に来てるんだけど…。誠、いないの。それで恒介のとこかと思って…』 「いないって、何それ。つうか君ら、おしかけクリスマス」 『そうなの…。あたしは絶対止めた方がいいって言ったんだけど、もー…。 誠、やっぱ嫌になって出ちゃったらしいの。…そのうち戻ってくるかと思って待ってたんだけど、未だに帰ってこなくて。携帯も切ってるらしくて通じないし』 「えっ。ウソ。だってもう十一時になるじゃん」 『そう…。それで誰かの家に行ってるんじゃないかって、おじさんが…』 「いやあ、ウチには来てないよ…。 さっき安倍ちゃんから泣きの入った電話あったけど何も言ってなかったし…。未来のところに行ってたら、あそこのご両親が黙っちゃいないと思うけど…」 『そうだよね…。分かった。ごめんね、ありがとう。 …ケーキさ、食べないで取ってあるんだけど。…食べて――もらえないかなぁ…』 「…愛。…泣くなよ…」 『うん…。いつもごめ……ね恒介…ズッ。…っ。 …うっ、ぅえぇ――…ん』 「………」 泣きたいのはこっちだった。 みんなを置いて、どこへ行ってるんだ。あのまことちゃん野郎。 急いで経験してみたかったわけじゃない。 ただ、人からの好意を抵抗せずに受けて、受けて、受け続けたら、最後にどうなっていくのか試してみたかった。 だからクリスマスという意味のない行事と、彼女の誘いにずるずると乗ったのだ。 ずるずると。 太朗も、追っかけるのを止めたらうまく行くんじゃないかと誠は行為の最中ずっと考えていた。 一つ分かったことがある。 他人がぶつけてくる好意や期待に、必ずしも真剣な誠意を返さなくてもいいということだ。 放っておけばいいのだ。 その程度のことでは世界は崩壊しない。 何一つ恐ろしいことも起きなかった。 勿論、ネット上の出会いのことだ。幸運だったのだろう。だが、啓示でもあるはずだ。 彼女自身も言ったじゃないか。 人には誤解させておけばいい。 恨ませておけばいいのだって。 もう体から血が失われていくことはなかった。武蔵小金井止まりの終電車で帰ってきた誠は、解放された気持ちで家までの道をのびのびと歩いた。 冴え渡った空には冬の白い星が、王冠上の宝石のような鋭さで瞬いていた。 -eof-
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