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千年孤独
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 ……無理はいけないな。
欄干の根元に倒れ込んでから初めてそう思う。
 面白いものだ。頭はこれ程はっきりして、平静に事態を見ているというのに、体がとんと云うことを聞かないで、だらだら冷や汗など流している。
 目を開けているのが負担になってきて、オッシアはまぶたを閉じた。重たい眠りのような靄が襲いかかってきて、頭骨が勝手に揺れる。
 脳の中はこんなにも冴え冴えとしているのに、内臓がこれまたひどく暑い。まるで体が生き別れになってしまったようだ。麻痺した足下にはグラスが一つ、中身の赤葡萄酒をまき散らして転がっていた。
 宴会の音楽はどこに行ったのだろう。梢の触れあう秋の優しい気配は。耳の中にはキーンという高い音だけが溢れて、その喧しさは脳を食い破るようだ。
 困ったな。と痩せた男は心の中でつぶやく。
しばらくこうしている他無いが、もし誰も自分に気付かなかったら凍死だろうか。自分がそんな死に方するとは思っていなかった。
 汗のせいだろう。頬がひどく寒かった。ため息をつきながら、この事態は――――、やっぱりあれのせいだろうか。とオッシアは自分を嗤う。
 いささか弱すぎやしないか。何も焼け落ちた街を見せられたくらいでこんなに……、衝撃を受けなくてもよさそうなものだ。
 いい加減に慣れてもいいだろう。あの記憶を塗りつぶすことが出来ないのなら尚更に、かさぶただって剥がす度に小さくなるのがお約束ではないか。
 ああ。
私の心はわがままでそして、付き合いきれないほど正直だ…。
 ふと視界が暗くなった。影が差し込んだのだと反射的に感じ、オッシアは目を開く。
 ぼんやりと霞んだ世界に、誰か女性の姿が見えた。自分の方を見て驚いたように身を竦ませると、くるりと振り向いて、屋敷の中へ走り込もうとした。
「待って!」
 瞬間、オッシアは力を振り絞り、必死に萎えた右手を持ち上げた。女性はびっくりして立ち止まる。
「……どうか、人を呼ばないで下さい。お願いします」
 ようやくのことで舌を動かしながら、オッシアは自分でもおかしくなってきた。
「いや、こんな状態で……強がりだと私も思います。……しかし、私は……」
目頭を冷たい指で覆う。唇を噛んだ。
「お願いします。……強がらなくてはいけないのです」
 こんな姿を「侯爵」に見せるわけにはいかない。オッシアの考えていることはそれだけだった。
 今日はっきりしたのだ。
あの男は味方ではない。これから先、どちらかが参るまで食い合いをすることになる。
 見せるわけにはいかない。廃墟の街を見たくらいで故郷の喪失を思い出し、挙げ句に昏倒した様などを見せるわけにはいかないのだ。
 寒くもないのに、目の上でがたがたと手が震える。それが何故なのかもう見当がつかなかった。随分腹も立っているが、一体自分は誰に向かって苛ついているのか。
 彼の精神は滅多になく取り乱していた。その暴れ方に、オッシアの理性が付いていかない。
 これはいけない。これではだめだ。
早く、早く落ち着かなくては―――
「――――」
 ふいに、甘い香りがふわりと鼻先に落ちてきた。薄く目を開くと、先程の女性が自分の側に膝をついて、不安げな眼差しを見せている。
 オッシアは苦しい意識の中で微笑みを浮かべた。なんとか感謝を示したいと思ったのだ。女性は黒い大きな瞳で彼の努力を眺めていたが、やがて白い両手を差しだす。
 一体何をするのだろう、と不思議に思うオッシアのだらりと下がったままの硬い左手を拾い上げ、両の柔らかい掌で包んだ。かと思うといきなり思いがけない強い力でぎゅっと握り締める。
「っ……!」
 その瞬間、肌に世界が、一気に引き寄せられてきた。
熱い手応えに彼はのけ反ったほどだ。
 その後は、脈が一つ鳴り、また一つ鳴るほどに、てんでちりぢりに暴れ回っていた五感が、とく、とく、と大人しい足音で蘇ってくる。
「…………」
 オッシアは半ば呆然としながら、髪からのぞく女性の細い顎を見ていた。韻術にでもかけられたみたいだ。
 微かに女性が面を上げて、二つの瞳が彼を見た。それから、ゆっくりと両手の力を抜く。
「……!」
 オッシアははっとして左手を引っ込め、膝元で握りしめた。元に戻っている。
「あ、ありがとう……」
 微笑むことすら忘れたまま、それだけを伝える。女性も笑いはしなかった。ただ頷いて、立ち上がる。
 オッシアには彼女を呼び止める方法が分からなかった。すっかり正常な感覚を取り戻した体。しかし今度はまるで身代わりになったかのように、思考の方が痺れきってしまったのだ。
 女性はもう振り向きもしないで、音も立てずに扉を開けると明るい室内へ戻って行く。
 オッシアは欄干に捕まるようにしてやっとのことで立ち上がると、服の汚れを払った。
 ……夢を見たんじゃあるまいな。
自分の青白い左の掌を眺める。
 それから首を回してバルコニーの出入り口を見たが、そこには白いレースのカーテンが夜風にはためいて縦にゆらゆらしているだけでもはや、彼女の気配はどこにもなかった。







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