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神人遥湖

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手紙も残さず、行き先も告げず、
一体何を求めて初冬の道を歩いてきたのか。
日々灰色を深め、
よそ者の侵入を拒まんとする
異国の空に逆らいながら――――。




「明日から東部に入るのかい?」
 街道にぽつねんとした宿の主人は、白湯を運んだ際、今夜の唯一の客にそう尋ねた。すると無口な客は手元の本から顔を上げ、意外にがっしりとした顎を縦に動かす。
 主人は肩の線をそびやかした。
「物好きだねえ。酒も飲まないと言うし。
 行商人と伝令の荒くれ以外を世話したのは、ほとんど初めてだよ」
 男の目が動く。
ほとんど?
「俺がまだガキだった頃、やたら難しい顔をした詩人とやらがここに一泊した後、東部へ入っていったことがあったがね。
 その後は姿を見かけない。中で殺されでもしたんじゃないかね。金を持っているようには見えなかったが」
 主人が食器を持って調理場のほうへ消えてしまうと、部屋は急に静かになった。動いていないわけでもないのに、男は物静か過ぎるのだ。
 彼はまだ若く、三十前くらいに見えた。主人の言った通り、あまり漂泊が似合うような育ちにも思えなかったが、ほとんど目元を覆い隠そうとする前髪の長さが、旅路の長さを物語る。また眼鏡といい、無口さといい、世慣れぬ学者のようでいて、骨格は思いがけず丈夫であり、脆弱な印象は与えなかった。
 悪意はないようだが些か得体の知れないその客は、食事を終えた後も一人、食堂で静かに本を読んでいた。奥からは主人の太い鼻声がでたらめな歌を歌っているのが聞こえてきたが、よほど書に夢中になっているのか気にならないらしかった。
 ……と、その時。
ひどく遠くの方から、微かな馬の蹄の音が近づいてくるように思った。反射的に、主人のずんぐりとした体が調理場から現れる。
「キッシュのじゃじゃ馬だ。何しに来やがった」
 微かに迷惑そうに呟くほどに扉の外で馬が嘶き、そして低めだったが、鋭く若い女の声がした。
「カルシ(旦那)! 悪いけど開けて頂戴! 急いでいるの!」
 へえへえと言いながら主人が閂を抜くと、八方へ飛び散る冷気と共に、見慣れぬ服装を纏った女が一人、ドアの隙間から滑り込んできた。
「ごめんね、カルシ。恩に着るわ。
 ついでに教えて頂戴。ここに馴染みで無い、若い男が宿を取っていない? 痩せて眼鏡をかけた男よ」
 そんな言葉が耳に入っているだろうに、男はぴくりとも動かなかった。空気のかき回される気配がして、やがて彼の視界の端に毛皮のつやつやした外套が入り込む。
「失礼、旅のお方。あなたは医術の心得のある人ですか? 数日前、街道の宿で行商人の骨折を処置したと聞きました。それはあなたのことですか?」
 男は答えなかった。次のページをめくろうとした手を、鞭の先端が差しとめる。
 抗議をするかのような目線が、緩く波打つ前髪の間からようやく彼女を見た。横に延びた細い目で、遠慮なく不愉快を表現する。しかし娘は怯まなかった。
 すると男の口が小さく動く。
零れた言葉はたった二言だった。
「……シモンの使いか?」
「……いいえ、私たちは何の係累もありません。でも私の友人が急病です。助けてもらいたいの」
「…………明日に」
「だめです。早く処置をしないと死んでしまうわ。一緒に今すぐ来てください。もちろんお礼は致します。
 私はマラインと言って、戸長の次女です」
 もう娘は待たなかった。明確な返事をしない彼をほとんど無理矢理に立たせると、外套を押し付ける。
 そして唖然としている主人に、宿代と荷物のことはまた人をよこすから、と言うや、彼の背中を押して宿を出た。
 立派な馬が一頭、戻ってきた主を見て白い息を吐く。
「さあ乗って」
「……一頭だ」
「それがどうしたの。先に乗って首にしがみついて」
 馬上で、娘は戸惑う彼の脇から両手を入れ、容易く手綱をつかむと馬の腹を蹴った。
 開かれた砂利が月明かりに照りかえって、道は白く森の奥へと続く。その細い帯を馬は黒い矢となって東へ走った。
 馬の波打つ首と娘の体とに挟まれた彼が何かの拍子に空を見ると、星が塗りつぶされた漆黒の夜にまるで覆された宝石のようだった。だが間もなくそれも黒々とした木々の枝に覆い隠される。
 先は街道の白い石畳も途切れた、完全な野道だった。隙あらば全てを呑みつくさんとする境界知らずの純粋な黒。躊躇する間もなく、馬はそこへと頭から突っ込む。
 こうして旅人は、当人が望んでいたよりもずっと早く、拍子抜けを覚えるほどのたやすさで、東部へと足を踏み入れたのだった。




*





 硬い樹皮を持つ木で組み上げられた立方体の部屋の中には、病人である若い娘とその親、そして若い男が一人いた。一様に浅黒い肌と黒い瞳を持つ、間違いのない東部人だ。
 両親は入ってきた異邦人にすがりつくような視線を投げる。しかし彼は、寝台の上で苦しそうに息をつく娘に視線を当てたまま、長い間微動だにしなかった。人々が不安げに目線を交わす頃、背中でマラインと名乗った娘が小さな声で懇願する。
「――お願い」
 観念したかのように男は動いた。外套を脱いで娘に渡すと、彼女に水を運んでくるように言う。
 寝台は彼が普段親しんでいるものよりもずっと低く、地面に直接しつらえられて足が無かった。人々が見守る中で彼は毛皮の下敷きに膝を落すと、腕をまくる。
 真っ白い肌が零れ出た。明かりに当たってますます光るその色に、若い男が眩しそうな、或いは不愉快そうな表情を浮かべる。
 男はその腕を伸ばし、
「失礼……」
と誰かに断ってから娘に触れた。
 両手で顔を包むようにして、耳の下辺りに触れる。半ば開かれたぼんやりした眼の、下瞼を少し見、それから胸元に手を滑らすと指を立て、幾度か胸を叩いた。水が来ると彼は手を洗い、それから患者の口を開く。
「一週間ほど前から咳き込んだりしていたの。ただの風邪だと思っていたら、三日前から急に高熱が」
 後ろで、戻ってきたマラインが口を開いた。それに触発されて人々が、急にごちゃごちゃと喋りだす。
「昨日までは話し掛ければ大丈夫と答えてくれていたのに、今朝からもう急に……」
「効果の有るといわれているものは全て飲ませました。二日前、行商から買った薬も……。後はもう祈るしか……」
「あれは贋物だ。必死なのをいいことに贋物をつかまされたんだ。あれが毒薬だったんだ。俺がずっと言ってるじゃないか」
「お前に何が分かるというんだ、ジンク。黙りなさい」
「西の奴らを信用するのは軽率だ。奴等は良心など持ってやしない連中なんだから」
「いいえ、確かに一度熱は下がったのよ。それからまたひどくなって……!」
 彼らの言い合いをよそに黙々と娘を診る男に、マラインが顔を寄せた。
「……どう…………?」
「……咽喉の奥にある病巣を取り除けば、治るだろう」
「では、取り除いて頂戴」
 男は彼女を見た。種の違う二つの瞳が音もなく睨みあう。やがてマラインの口が繰り返した。
「――お願い」
 男が立ち上がったので、人々は驚いて身を引いた。振り向いた彼の横顔は何故か苦しげだったが、西の訛りで冷たく聞こえる言葉には力があり、その文法は命令だった。
「みんな、出なさい」
 一瞬、彼の言っている意味がわからないで皆はきょとんとした。
「今から処置を行うので、皆ここから、出ていてください」
 足りない説明に彼等は感情的な抗いを見せた。しかし、マラインの視線に渋々部屋を後にする。
 彼女が一番小さなナイフと洗いたての布巾、水を用意している間に、彼は患者の体を横にした。
「君もだ。出たまえ」
戻ってきた彼女を見もしないで男は言う。
「私は居るわ」
「駄目――」
 振り向いた男はそこで言葉を止めた。彼女は毛皮の外套と上着を脱ぎ、真っ白いシャツを着て腕まくりをしていたのだ。
「清潔よ。いいでしょう。それに助けがいるわ。そうじゃない?」
 男はそれ以上逆らわなかった。
 ナイフの刃を翳されて、炎が二つに割れる。赤くなったそれをちょっと置いて冷ますと、彼女が開かせた患者の咽喉へと、慎重にさし入れていった。
 びく、と横になった娘の体が波打つ。
「動かすな」
男の低い命令にマラインが手に力をこめた。そして同い年くらいの少女の耳に親密に口を着け、優しい声で囁く。
「我慢して、もうちょっとだけ我慢して……。大丈夫……、あなたは独りじゃないわ……」
 突然、扉を乱暴に開けて男が入ってきた。
「ジンク。入ってきては駄目よ!」
 マラインが咎めるが、彼は聞かなかった。
「お前がいるなら、俺もここで見ている! 神賭けてやましいことが何も無いなら不都合も無いはずだ!」
「何を意地になっているの……!」
 その時、男の手先が患者の口の中から出て来た。血にぬれたナイフの先に黒い小さな肉の塊が湯気を上げる。
「うっ!」
 慌てたように、彼はすぐに出て行ってしまった。空気がかき回されることに男は一旦眉を寄せたが、無言のまま処置を続けた。
 水を薄紅にしてナイフが輝きを取り戻す。男はまたそれを炎に当てると、今度はかなり長い時間焼いていた。
 患者の口の底に溜まった少しばかりの血を布で拭うと、
「行くぞ」
と、合図して彼はもう一度手を、彼女の咽喉へと入れる。
 じじじ、と音がした。
肉の焼けるほんの微かな匂いと同時に、男の目が細まる。痛みに反射した娘の固い歯が、彼の左の指を挟んだのだ。それでも彼はじっと耐え、噛まれた左手はそのままにして、同じ動作を幾度か繰り返した。



「終りだ」
 最後にナイフを水の中に投げ込んで、彼は言った。
「朝までに、熱は落ち着くと思う」
「すごい汗よ」
 マラインが布を渡して自分の額を指差しながら、やっとほっとしたような笑みを見せた。
「西のお医者って大変なのね。これで私にもちょっとだけその苦労が分かったわ」




*





 いつの間にか眠り込んでいたらしい。
揺り動かされて目を覚ました。
「悪いけれど起きて頂戴。私の家へお連れするわ」
 ほの暗い部屋の中にマラインの声がする。男はもう戸口に立っている彼女に問うた。
「明け方か……?」
「そうよ」
「彼女は……」
「診て行く? ……熱は下がったわ」
 患者のいる部屋へ入ると、彼女の母親が男の足にかじりつこうとした。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
 応える男の顔にも安堵の色はあった。しかし、そういう格好は好きでないらしい。母親をいい加減に宥めて、患者の側へもう一度膝をつく。
 娘はもう苦しげに半目を開けてはいなかった。瞼を閉じて、正常な呼吸で睡眠している。手を当てる肌にも、体温以上の熱は無かった。
 今日一日、絶対に清潔な水以外のものは与えないように、と念を押して部屋を出た。
「大丈夫よ。今や、彼女はあなたを崇拝しているもの。言いつけは絶対に守るわ。さあ、私の家に行きましょう。荷物は今、ジンクに取りに行かせているから」
「……勝手に引き払ったのか?」
 彼が言ったのは宿のことだ。
「あなたの行き先はどの道ここだわ。違う?」
「しかし、なぜ君の家に……」
「東部に入ってしまえば宿はないのよ。客人のもてなしは古来から各戸長の務めなの。だから本当ならこの家よ。
 でも、ご存知のとおり、今ここには病人がいて大変ですもの、隣村の私の家に。これで分かった?」
 マラインの言葉は小馴れて的確だった。きっと今までに何人かの客の世話をしてきたのだろう。男が黙ったのを見てにこりとする。
「さ、私の村はここから馬ですぐよ」
「馬?」
 背中を押されながら、男は思わず顔をしかめた。
「また君の前に乗るのか?」
「残念ね。今度は馬は、二頭いますの」
 外へ出ると、主人に言いつけられたらしい使用人が、馬を連れて二人を待っていた。西のものよりもやや小柄で足の太いそれに乗馬すると、朝日に照らされた集落の家並みは見とれるほど平和な眺めだった。昨夜の鋭利な寒さなど嘘のように、柔らかい風が渡って男の疲労を撫ぜる。
「そう言えば名前を聞くのを忘れていたわ。父にあなたのことをどう紹介すればいいの?」
 そう聞かれて、男は少しためらいを覚えたようだった。
 しかしこじんまりと清潔な東部の家々と、その奥に広がる鬱蒼とした森を見回した後、彼女の方を振り返る。
「カイン」
「カイン――、何?」
「ヘキガティウス」
 変な名前。
マラインは娘らしい遠慮の無さでそう笑うと、馬の腹を靴の横で、軽く叩いた。





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