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 マラインの父親は、小柄で穏やかな白髪の男だった。彼のねぎらいと感謝の言葉もそこそこに、カインはひたすら休息を望み、彼は案内された離れで昼過ぎまで泥のように寝込む。夢すら見ない深い眠りだった。
 目を覚ますと、部屋の隅に宿に預けてあった荷物が届けられていた。それを紐解いて着替えをし、離れを出た途端、
「起きたのね。――お腹は空いていない?」
 そんな声が頭上から降ってきた。
 見上げると離れの側に立つ楡の木の上に、やはり服を着替えたマラインが腰掛けている。ちょうど太陽の方向にいるので、直視できずに苦労した。
「よければ朝の残りのスープが有るわ。食べる?」
言うや、身軽に裸の枝から降りてくる。
 家のほうには、ほとんど誰も居なかった。昼時なのにどうしたのか、という問いに、彼女は気も悪くしないでここらでは一日二食なのだと教えてくれる。
「みんな畑のほうへ出ているわ。冬が来る前の最後の芋の収穫期だから、忙しいの」
 台所からそう答える彼女は、前夜に比べるとひどく女性らしく見えた。
 最初がほとんど男装だったので、東部では女性はスカートをあまり身に付けないのかと思っていたが、してみるとあれは乗馬服か何かだったらしい。今、彼女が着ているのは枯草色の地に唐草模様があしらわれた、足元まであるスカートだ。
「君はここにいていいのか?」
「あら、私だって働いているわ。お客人の世話」
「ああ……」
 差し出される木の椀に、木の匙。馬で少し入っただけなのに、東部は西域と何もかも違った。
「あなたがここで不自由をなさらないようにするのが、目下の私の仕事よ。そう決まっているの」
「離れを借りているだけでも迷惑なのに……」
「気にしないでもいいわ。お客人を大事にもてなすのは、ここの古くからの習慣なのよ。何か困ったことがあったら何でも言って下されば力になるから」
 その場では頷いたきり反応を見せなかったカインだが、スープを飲み終えた後、彼女に一風変わったことを頼んだ。彼は昔話を聞かせてくれと言ったのだ。
「昔話?」
「どんなものでもいい。私は東部の民話や民謡や、……特に神話に惹かれてここへやって来た。東部の民ならみんな知っているような、昔話が聞きたい」
「変な人ねえ。そんなものを集めてどうするの?」
 マラインは言ったが、先程自分で言った言葉どおりきちんと力になってくれた。肘をついてその上に顎を乗せると、記憶を手繰るように斜め上を見る。
「じゃあ、私が一番最初に婆様から聞いた昔話を言うわね。この世界とか人間がどうやって出来たかというお話よ。
 ……昔々、百年が百万回――」




『百年が百万回積み重なるよりもまだ前のこと、闇に光のしずくが落ちてその波から新しい海が始まった。やがて海の底から火山が盛り上がり、新しい大地が生まれた。
 新しい海と新しい大地はとても実り豊かで美しかったので、天上からそれを見かけた一人の男の神さまがそこに住もうと思い、親神の許可を得て降り立った。
 彼は若い神さまだったので、立て続けに様々なものを創造することに夢中になった。新たな大地に新たな生命を生み出している間、神さまは孤独を感じなかった。
 けれども五日目に「夜」を創造して闇がやってくると、神さまは急に心細くなった。彼は自分がたった独りであることに気がついて、涙を流し親神にすがった。
 すると天の果てから親神の声が響いた。
夜、月明かりの下で湖に臨んで自分の姿を映したら、そこに両手を伸ばしてごらん。そして同じように両手を伸ばしたその「相手」の手首をつかんで引き揚げてやりなさい。それがお前の友となってくれるだろう。
 神さまは言われたとおりに月夜、湖に立ち、自らの写し身を引き揚げた。それが最初の人間ウナである。やがて生まれたウナは同じように湖面から自分の「相手」を引き揚げた。それが最初の女性ドゥナである。
 ウナもドゥナも神さまではないから、二度は写し身を創れなかった。それで彼等は結婚し、たくさんの子供を産んだ。
 それがこの世に生まれた、一番最初の夫婦。全ての人間の始まりである。』





「どう? どこにでもある話でしょう?」
 マラインの問いに答えず、カインは尋ねた。
「その湖はどこにある?」
「え? すぐ近くよ」
 彼は離れから鉛筆と紙とを取ってくると、彼女にもう一度確認をしながら、その話を筆記した。マラインは彼の熱心さに逆らわす忍耐強く付き合ってくれたが、していることの価値はよく分からないようだった。
 その後、彼等は連れ立って馬で散歩に出た。隣村での行為が既に伝わっているのか、道で会う人々は皆礼儀正しく、でもどこか屈託なく、馬上のカインに微笑みかける。睡眠を得て疲労が取れたのか、彼も今までよりずっと柔らかくそれに応じていた。
「君はコルレニウス・アトリという男を知っているか?」
 並んでいたマラインは彼の問に頷く。
「聞いたことあるわ。こっちで死んだ西の人ね」
「そう。四十年ほど前に東部へ入り、そのまま戻ってこなかった詩人だ。
 ……彼は自分の妻に宛てた最後の手紙の中で、『神の声を聞いた』からもう帰らないと書いた……」
「ふうん」
「それが何らかの比喩なのか、それとも本当に神の声を聞いたというのか、西では学者の間で紛争のネタになっているんだが……」
「あら、ユヴァシアだわ!」
マラインの無邪気な叫び声が、彼の話を中断した。
 つられてそちらへ目を向けると、黒々と大地を横切る森の半ばに、大きな虹が悠然とその右足を下ろしていた。
 カインは思わず馬の歩みを止めて、空に浮かぶその透明な道に目を奪われる。
「…………ああ……」
 虹などを見るのは何年ぶりだろうか。立て込んだ都会の埃っぽい生活。どこを眺めても人工物に囲まれた日常。背中に置いて来た日々を懐かしく、ほとんど憐れに感じるほどに、その虹は美しかった。
 疲れた眼球を洗われるような気持ちがする。それを見た瞳で世界を見ると、木々も家々も土も労働する人間すらも、全てが七色の光を放ち、美しく映える――。
「ユヴァシアっていうのはね、『精霊の微笑』という意味よ。あれが出る時には、森の精霊たちがお客を歓迎しているという証拠なの。あなた、気に入られたみたいでよかったわね」
 マラインが教えてくれるのに頷きながら、カインは今ならアトリの気持ちが分かるように思った。
 詩人である彼が書いたことが妄想であろうがなかろうが、確かに彼は感じたのだろう。ここにはまだ神がいると。
 そう、ここは西部文明が忘れ果てた神々の棲む大地、云わば……
「ディオラント」なのだ。




*





 その夜、戸長キッシュ家では、数人の村人を集めて夜会が開かれた。もちろん、来客したカインを歓迎する主旨のものである。
「こんなものしか用意できませんが」
というマラインの父親に、彼は丁寧な礼を述べた。
 東部民が華美豪奢を好かないのは有名な話だ。それでも食卓に並んだものは皆、質素だが栄養価の高い、精一杯に新鮮なものばかりだった。
「気を遣って頂いて恐縮です」
「父様、この方、この地方の色々な神話が聞きたいんですって。誰が一番詳しいかしら」
 隣に座っててきぱきと彼の世話を焼くマラインが口を出した。
「神話ですか……? それならばセズ婆がいいかもしれません。九十近いのに頭のはっきりした村一番の長生きです。後はイラシャの爺さんか……」
 キッシュ氏は客の木杯に大麦から精製した酒を注ぎながら尋ねる。
「しかし、そういうものを集めてどうなさるのです?」
「いえ、どうということでは。……強いて言うなら、記録することに意味があるのです。西の人間達はそういった考え方をするのです」
 戸口の方から女の声がマラインを呼ぶ。彼女はそれに応じて立ち上がった。
「ああ、ではあなたは学者という職業の方ですか。あちらにはひどくたくさんの職業があるから混乱します。職業によって大事とおっしゃるものもまるで違う……。
 ともあれ、彼らには私からあなたに協力するように言っておきましょう。いつでも訪ねて行って下さい」
「ご好意ありがとうございます」
 と、その時。
カインの背中にどん、と誰かの腕が当たって、彼は口元に持っていた酒を取りこぼしてしまった。
「っ……!」
胸元から腿の辺りに、冷たい染みができる。
「何をしているのだジンク! 非礼を詫びなさい!」
 キッシュ氏の厳しい叱咤に振り向くと、そこには酒精に顔を真っ赤にした昨日の青年が、口をへの字にして自分を見下ろしていた。
「…………ついうっかり……。弾みさ」
「ジンク。お客人に礼儀正しく出来ないのなら、今すぐ家に帰りなさい」
 青年は答えず、歩いて行った。そして黙ってテーブルの端に腰を下ろすと、憮然とした表情のまま一人でぐいぐい酒を仰ぐ。
「申し訳ない、若い者が酔っ払って、お恥ずかしい限りです。そちらは明日にでも洗わせましょう」
「いえ、いいんですよ。こちらもぼんやりしていましたし……」
恐縮する戸長にカインは穏やかな笑みを見せた。
「久しぶりに飲みましたが……、お酒もなかなかおいしいものですね」
 言葉どおりその夜、カインは珍しく酒を断らなかった。元々そんなに強くもないので、すぐにほろ酔いになってしまう。
 元来、彼が酒を好まないのはこの「酔い」のためだ。アルコールは血液に取り込まれると素早く脳に作用して、意識を途切れさしたり思考を混乱させたりする。たとえ一時でも明確な意識を手放したくない、というのは頭脳の人たる彼の強迫観念にも近い願いだった。
 それなのに、今夜は一体どうしたというのだろう。
自分に対して常に厳しく張り詰めてきた手綱が、緩んで足元に落ちていた。彼は平らなはずの離れへの道を、必要以上に苦労しながら歩く。
 皮膚は外気に触れて確かに冷たかったが、体の線の中は高い熱を持って、上着だけでも少しも寒くなかった。
 そして頭の中は――まだ消えやらぬ宴の余韻、満天の星、波打つ馬のたてがみ、青年の刺すような目、手紙、湖面に立つ神の後姿、変な名――つまり、ごちゃごちゃだ。
 苦笑を浮かべ、カインは離れに入った。
誰かが気をきかせて明かりを運んでいた。加えて部屋中から太陽の匂いがする。どこまでも行き届いた土地だ、と思った瞬間、
「お帰り、いい気分ね」
彼は驚いて背を扉に打ち付けた。
 蝋燭の明かりは乏しく、部屋の隅までは照らさない。昼過ぎまで彼が寝転がっていた寝台の上に、マラインがあぐらをかいて座っていた。
「君か……」
「違います、森の精です」
「森の精がそんなところで何……」
 目を凝らした彼は、彼女がひどく薄い衣一枚しか羽織っていないことに気付いて、言葉を途切れさした。体中がさあっと醒めて、頭から血の気と一緒に酔いが消えていく。
「…………な……」
 マラインが動くと、服の下で彼女の体の線がはっきり見えた。
「酔っているの? このユヴァシアの意味を取り損ねた人は今までいないわよ」
 大きな茶色い瞳が薄暗闇の中から嫣然と微笑みかける。
「びっくりなさらないでもいいわ。外は寒かったでしょう? こちらにお入りにならない?」
 小首を傾げる彼女の言葉は相も変わらず的確で、馴れていた。「客」の前に身を投げ出したこともこれが一度や二度ではない。声と所作とがそれを物語っていた。
「ね、……あなたの体で、私の体も暖めて下さいな」
 呆然としたカインの側を、沈黙が流れる。
そして振りかぶった拳が、激しく壁を叩いた。
「―――― ふざけてる……!」
 押し殺した怒りの声に、マラインは異常を感じ取ったらしい。はっきりとした眉をぴくりと上げた。
「どうしたの? 何をそんなに難しい顔をしているの?」
「どうしただと? ……気でも狂ってるのか?!」
「正気そのものよ。……客人を大事にするのは東部の伝統だってもう知っているでしょう。あなたはそれを快く思って来たのではなかったの?」
「……いつもこんなことをしているのか……?」
「そうよ。もう何十年も、何百年もね。本当は初夜にお伺いするものなんだけど、昨日はお疲れだったみたいだし。……今夜なら大丈夫でしょう?」
 では父親も、村人も……、皆このことを知って……。
たまらなくなって目をつぶる。
「…………信じられない……」
裏切られた顔をして、彼はうめいた。
「どれほど自分達が野蛮な真似をしているのかわかっているのか?」
「野蛮?」
「これは歓迎ではない、迎合だ。客をもてなしているのではなく、頭を下げて卑屈に媚びている。それも、人間が一番売ってはならないものを引き換えにして……。
 恥知らずにも程があるぞ……!」
 怒りに震える言葉。だがそれは彼女には届かず、中空で掻き消え木霊となった。
「……悪いけどカイン。あなたの言っていること、私にはその半分も分からないわ」
 彼女の感情は雪のように冷たい声だった。そして恥ずかしげもなく顔を上げ、透けて見える自分の乳房や腹を隠そうともしないまま、彼女は続ける。
「私たちは客人を迎えれば、有り得る全ての術をつくしてその人をもてなすわ。西からの客人であれば尚更に。
 なぜなら西の客人はいつも力を持っているもの。それがお金であれあなたのように知識であれ、それを吸収し、少なくとも怒らせないことは東にとってとても重要なの。
 それを迎合と言い、媚態と呼ぶのなら呼べばいいわ。……でもとても、優雅なご意見ね?」
 皮肉の刺を感じ、カインは彼女を見る。少女の大きな瞳は星を閉じ込めたかのように光り、カインの「文明」を叩き返した。
「……あなたは今日、村の姿を見たでしょう。私たちは貧しいわ、戦争をしている余裕はないのよ。
 たった数週間でも畑を放り出していようものなら、……西の温暖な気候とは訳が違うのよ、私たちは全員餓死することを免れないでしょう。
 ……だから先祖達は代々、近隣の人々と衝突を起こさないように知恵を深めてきた。そして利害を秤に掛けてちょうど真ん中、ぎりぎりの線で努力を続けてなんとかここまで続いてきたの。
 外部からのお客人に対するこれが下らない、短絡的な手であることなどお生憎様、百も承知よ。
 けれどね、私たちはそうやって今まで生きてきた。あなたから見ればどんな穢れたものであろうとも、これは実際、とても有効な手なの!
 よしんば女の体に軟化しない男なら、父は躊躇いなく少年を探してくるわ。それが東部の掟よ」
「…………」
 カインは両手の中に、冷えた額を落とした。
漆黒の視界の中で夢が、一日しかもたなかった短い夢が、石英のようにきらめきながら剥落していくのが分かった。
 その落下の中で、彼女の声はまるでナイフの硬質だ。
「頭のいい人に、この理屈がわからないなんて変だわ。一体あなたは、何を求めてここへ来たの?」



 出て行ってくれ。
その願いに応えて、彼女がいつ出て行ったのかよく分からなかった。だが、開いたままの扉に明かりが消える。
 暗闇の中でカインは天を振り仰ぎ、白い吐息を自らの魂のように、吐き出した。




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