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 マラインを退けても、彼女の父親は
「あなたは慎ましい方ですね」
と言った切り態度を変えたりはしなかった。どちらにしても、彼は忍耐と理性とに長けた人物であるとカインは今では好ましく思う。
 ナイカルはその後、もう一度降った。しかしカインはまだ東部を動かなかった。毎日離れで一人で食事をした後、彼は外出して地方の神話を聴取していたのだ。


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十一月三日 セズ・アバ(婆)
『昔、ある村に大変美しい娘がいた。娘は賢いだけではなく信心深く、毎日森の精にエント(穀物の一種)をお供えするのを忘れなかった。
 ところがある日、婚礼を控えて忙しかった娘はついうっかりして、夜エントを用意するのを忘れて床についてしまった。
 するとその晩、寝台に寝ていた娘の体を抱き上げるものがある。驚いて娘が悲鳴をあげると、それは彼女を連れて森へ逃げた。悲鳴を聞きつけた家人が後を追ったが、森の中で迷っては入り口に戻るといった調子で、追いつくことが出来ず、仕方が無いので森の手前で待っていた。
 しばらくすると娘が一人で森から出てきて、自分を連れ去ったものは森の精であったと言った。それは小さな童子の姿をしていて、彼女がお嫁に行くと、自分と遊んでくれるものがなくなるといって泣いたのだと言う。
 娘は次の日、布の切れ端で小さな人形をこしらえてエントと一緒に供えた。するとそれ以後、森の精は出なくなったという。』

(付記)これに倣って、東部では嫁入り前の娘は必ず婚礼前に森の精に人形を供える。無くなると森の精が取っていったということになる訳だが、森にあるはずの人形が時に若者の寝床から出てきたりすることもあるようだ。



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十一月五日  子供たちの歌

 『あけろあけろ その道あけろ
  風の神さますぐ通る
  裳裾がくるりとそこらを撫でりゃ
  家もお馬も倒される


  とじろ とじろ その耳とじろ
  病の神さますぐ通る
  蒼い歌声 さらりと聞けば
  子供も大人も寝転がる


  もやせ もやせ その火ぃもやせ
  春の神さま じきに来る
  暖かい風ゆるりと吹けば
  森もみんなも黄泉返る』


(付記)東部民は全ての事象を擬人化した神の摂理として説明する。それがよく現れ出ている一編である。


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十一月五日 カルシ・イラシャ
『昔、とても仲のよい父子がいたが、まだ子供が成人しきらないうちに父親が病気で死んでしまった。葬式を終えた晩のこと、子供が親戚の家で寝ていると自分の声を呼ぶものがある。
 父親の声だったので驚いて起き上がると、天上の梁のところに父親が乗って彼を手招きした。一緒に来い来いというが、子供は動けない。そのうち家のものが異変を感じて部屋に飛び込むと、父親は消えてしまった。
 しかし、それ以降毎晩のように父親はやってきて息子を手招きするので、息子はとうとう病気になって伏せてしまった。家の者は困り果て、お供え物を持って森へ行った。(注;東部では死人は皆、神として森に眠っているのである。)
 現れた先祖に父親が息子を苛んで困っていると訴えると、先祖の神は家のものに箒に似たお守りを渡して、今度父親が現れたらそれで払うようにと言った。
 その晩、言われたとおりにすると父親はぎゃっと叫んで逃げて行き、以来二度と現れなかった。
 しばらく後、同じの家の別の子供が獣に祟られたことがあったが、その時もこのお守りを振りかざすと獣は逃げていった。一族はそのお守りを家宝として、今も大切に保存している。』






 目の前に丁寧に取り出されたそれは、カインの目から見ると、古ぼけて乱れた一枚のかけすの羽に過ぎなかった。しかしイラシャ翁は非常にうやうやしくそれを取り扱い、彼に見せた後はすぐとまた箱の中へと隠してしまった。
「……それは、あなたが森でかけすと呼んでいるものの羽根に似ていませんか」
 老人は否定した。
これは何にも似ていない。神から授かった宝なのだから。
「あなたは神の存在を疑ったことはない?」
 カインの言葉に、老人は口を開けた。彼は狂人を前にしているかのように、相手をしげしげと眺める。
 西のお方、そんなことを聞くなんて馬鹿げている。
神おらずしてどうして人がいる? 神おらずして如何に四季が巡る?
「しかし、あなたは直接神の姿を見たことはないでしょう? 見もしないものをどうして信じることが出来るのですか?」
 確かに神の姿を見たものは少ない。だが私は神の声を聞い――――。
「神の声?」
 はっ。
と老人は目を見開いた。明らかに喋ってはいけないことを喋ってしまったらしい。それからはカインが何を尋ねてもろくに答えず、早々にこの厄介なよそ者を家から追い出した。
 カインが外へ出ると、三度目のナイカルが舞う中で、馬が後ろ足を焦らしていた。




*






「神の声ですか……」
 暖炉の火が燃え盛る前で、キッシュ氏は赤く映える顔を心持ちゆがめた。実は笑うことの少ない目で、年若く才長けた客人を見つめる。
「あなたはそれが何か、もうお気づきでしょうね」
「……推測に過ぎませんが」
と、カインは前置きした。
「それは『神の声』という名の……歌か……、話ですね」
 沈黙の中で、キッシュ氏は彼の勘の良さを穏やかに笑った。しかし、口から零れたのは初めての否定であった。
「……申し訳ないがそればかりは、あなたであってもお聞かせすることは出来ません」
「何故ですか」
 カインは出された緑色の茶に手も付けず、その口調は興奮しているというよりもどこか執拗だった。
「『神の声』は普通の昔話とは違います。軽々しく誰にでも聞かせていいというものではないのです。
 だからこそ人々はその存在自体を他の土地の方には隠そうとします。知れば聞きたくなるのが人の性ですからね」
「しかし、コルレニウス・アトリは聞きました」
「彼は……特別です。東部民として死ぬことを選んだために聞くことを許されたのです。しかし、あなたはそのおつもりではないでしょう?」
 否定しないまま、彼は約束した。
「誰にも漏らしません。それに、出来る限りのお礼を……」
「申し訳ありません」
 キッシュ氏は飽く迄も柔和だったが、答えははっきりしていた。
「いくら報酬を出されても『神の声』をよその方にお聞かせするわけにはいかないのです。 あれを軽々しく扱えば、我々はみな不幸になるでしょう。誰よりも神に対して申し開きが出来なくなります。どうかお分かり頂きたい」
 ぱちり、と薪がはぜて火の粉が空中を流れた。
それが空気に溶けてなくなる頃、カインの固い声がキッシュ氏の目を細くする。
「この世には、……神などいないのに」
「…………おや」
「おやめなさい。あなたのような方ならとっくに、お気づきのはずだ」
 カインの責めるような瞳が、キッシュ氏のそれとぶつかる。黒い球の下で、日々穀物の生産高や村の経営、人々の関係に神経を尖らしている実力者の目と。
「どのような不幸も、どのような幸福も神とは関係がない。その証拠にいかなる辛酸を舐めていても神は助けてくれないし、神に祈っているだけでは幸福には到底なれない。
 自然科学の進化と怜悧の台頭によって、西ではとっくに信仰の基は喪われました。東にあってもあなたのような方にはその無実が、分かっているはずです。まさか今でも、語られる神話の全てを信じておいでなわけではないでしょう。……それだのになぜ、あなた方はその旧習に固執するのです」
 それは現実的でない思考を押し通そうとする東部への批難であり、彼は今までになく多弁だった。
 眉をひそめて、キッシュ氏は目の前の賢しい男を見つめる。開いた口には厳しさが滑り込み始めていた。
「ヘキガティウス先生、……神は、私たちの生活の根底を成すものです。あなたがそれに尊敬を払っていただけないのなら、これ以上ご協力は致しかねます。
 今日の昼、イラシャ爺に私は文句を言われました。あなたは彼に神の存在を疑うようなことをおっしゃったそうですね。失礼ながら言わせてもらえれば、それは東部文明全体への冒涜です。 どうもあなたは我々が予想していたような穏やかなお客様とは少し、違うようですね。
 あなたは神話をただのお伽話なのだと暴露するために、わざわざここまでいらしたのですか」
「……今更。神がいないのですから神話は当然幻想です。そんなことは最初から分かりきっていることです」
「だが神はおります」
「いません。無いものを有ると言い続ける限り、東部民は一生貧しいままですよ」
「貧富の差は神とは関係のない話です」
 二人の男は共に胸の中に、容易に譲ることのできないものを抱いていた。それがため、言葉を重ねるごとに彼らの頑なは増し、互いに憎悪を募らせながら衝突は抜き差しならぬものへと向かう。
 それを十分予感していたのに、カインは東部の信仰に突きかかるのをやめることが出来ず、対する戸長も反駁せざるを得なかった。
「その否定が足止めなのです。世界は一つなのに何故神だけ特別扱いをするのですか。神を棄てなければ人の進化はやって来ません」
「……それはあなた方の使ってきた考え方です。西ではともかく、ここには馴染みません。失礼ですが、我々には我々の価値観があり、進化があるのです」
「神の摂理でいつか西側を追い越せるとでも?」
「勝つことは重要ではありません」
「大変ご立派ですが、下手をすると取り残されて負け惜しみを言っているように聞こえますよ」
「――――……」
 キッシュ氏の眉が歪むよりも先に、カイン本人の顔がねじれる。
 彼には自分が何故これほど醜く頑なになっているのか、その苛立ちの原因を知っていた。
 「神の声」だ。
それは最後の未明な要素だった。それさえ聞き、それさえ現世のメスで暴いてしまえば、カインは安心する。ほらやはり神などこの世にいないのだと言って。そうすれば信仰も病として寛大になれるだろう。
 病巣を取り除こうとする医師らしい切込みはだが、歓迎されるはずも無い。擁護者の顔をして入ってきたこの挑発者の顔を、キッシュ氏は初めて睨みつけた。
「……先生、確かにあなたは様々なことをご存知なのかもしれませんが……」
 ちょうどその時だった。
玄関の方で闇夜を蹴散らし、大声で怒鳴るものがあった。
「カルシ―――――――ッ!
 開けてくれ――――――ッ!!」
 あまりの唐突さに、キッシュ氏の言葉が止まる。
「……ジンクか? こんな時間に」
 すぐに、厚い革靴が木の床を踏み鳴らす乱暴な音が聞こえてきた。
「何事だね、騒々しい」
 日に焼けた青年の顔が居間に現れると、主人はそう若者を嗜めた。しかしジンクは勢いづいている。部屋に踏み込んで来るなり、いきなり座っているカインの腕をむんずと掴んだ。
「立て! よそ者!」
「ジンク! お客人に無礼は止めなさい!」
 先ほどまでのやり取りも忘れて、キッシュ氏が厳しい声を出す。腕を離さないまま、青年はそんな戸長のほうを振り向いた。
「いいやカルシ、こいつは客なんかじゃない。やっぱりお尋ね者です!」
「何……?」
「本当です。遠くからこいつを探して来たって人が今、玄関にいるんですから」
「お前……、まさかこの方を売ったのかね」
「……だからこいつは客なんかじゃない! 悪い奴なんだ!」
 キッシュ氏が答えを求めるようにカインの顔を見る。しかし、そこには微かな狼狽の皺が寄っていただけで、否とも応とも判断がつかなかった。
 そして加減を知らない若者の手が、抗わない彼の体を廊下へと引きずり出す。まるで死刑囚でも引っぱるように。



 ジンクが連れて来たという男は玄関で所在無げにしていた。だが短い廊下の先にカインが出てきたのを見ると、
「――ヘキガティウス先生!」
罪人にめぐり合ったにしては嬉々たる声を出し、飛び上がる。
 駆け寄ると鈍い青年をほとんど押しのけるようにして強引にカインの両手を握り、勝手に再会を祝した。
「よかった、こんなところにいらしたんですね! 全く苦労しましたよ、あなたって方は!
 でも、ご無事で本当によかった……!! これでイステルのシモン先生にいい知らせをお送りできます!」
「……ロキ……」
 カインは曖昧な笑みを浮かべたまま、使者の名を呼んだに過ぎない。振り回される手に揺れる瞳に宿る色は寧ろ、少しの悲しみに似ていた。
 そして、
「……なるほど、罪人ね……」
呆れたように呟く戸長の隣で、早とちりなジンクは置いてきぼりを食って、かわいそうに訳がわからない。







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