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 先生。すぐに西に帰って下さい。シモン先生もあの子も先生の到着を心待ちにしているのです。

「……私が行っても、何にもならない」

 何もならないかどうかは、やって見なければ分かりません。

「そして『分からないからやってみよう』と言いながら先天疾患を抱えた幼い少年の体に劇薬を投与したり、針をつきたてたりするのかね?」

 先生?

「そんな辛い思いをさせて結局死なせてしまうのなら、最初から何もしない方がずっとましではないのか?」

 ……何を仰るのです、先生……! 少年や両親の望みは一年でも、一日でも長く彼が生きることにあるのです。

「君は死に救いが無いとどうして言い切れる?」

 ……先生、一体どうなさったんです……? 何かあったのですか? 昔のあなたはただ一心不乱で、逃げ出したりそんなことを仰るような方ではなかった……。



 ……分からないんだよ、ロキ。
命だけを助けることが本当に正しいことなのかそうでないのか。





*






 とまれ、彼の逃避行は終わったらしかった。
胸の中には解決されぬ迷いがまだわだかまっていたが、使者ロキの説得するほどの熱量はカインには湧いてきそうもない。つまり有体に言うなら、彼は諦めたのだ。
 出発を翌朝に控え、おとなしいカインは荷物を纏めた。そして長い間の親切とこの間の非礼を謝しようと、戸長の家へ向かう。
 居間にはジンクがいた。彼は良くも悪くもいつも元気な青年だが、今夜は珍しくうな垂れて、体までが一回り小さく見えた。カインを見ても、どうとも動かない。
「……?」
「ああ、先生……。出発の準備は済みましたか」
 だが、不思議そうな彼に声を掛けるキッシュ氏はいつもの通りに見える。
「ええ、明日早朝に出発します。本当に長い間、お世話に……」
「いいえ、とんでもない。大したことは何もしておりません」
「それに……、未熟の余りご不快な思いをさせてしまったことが……」
 戸長は如才なくものの分かった微笑を浮かべた。
「お気になさるようなことではありません」
「申し訳ありません。あとはその……」
 少し遠慮して、青年の方へ視線を投げた。
「お嬢さんにもお礼を言いたいのですが……」
 目の端でびくっ、とその双肩が震える。カインは驚いて青年と、父親とを見比べた。
「……ああ、マラインにですね。伝えておきましょう」
「……お嬢さんはお家にいないのですか?」
「……あれは……」
 口ごもるのを誤魔化すように、彼は咳払いをする。
「少し、出かけております」
「……そうですか…………」
 何かがあったのだろう。
カインはそれを感じたが、さりとて自分が彼らの生活に干渉する権利を既に失していることも、十二分に承知していた。
 そのまま居間を出ようとした彼の足を、青年の声が止めた。
「待ってくれ先生……」
「ジンク……!」
 キッシュ氏の囁くような牽制も彼には効かなかった。振り向いた彼の足元に、いきなり若者は突っ伏すと、たくましい両腕でその足にしがみついてきたのである。
 ようやく片足を後ろについて倒れずに済んだ。唖然とするカインを見ることも出来ないで、青年は叫ぶ。
「今までのことは全部謝る! だから頼む! ……お願いだ!」
絞り出すように青年は吼えた。
「マラインを助けてくれ!」
「助ける……?」
 うろたえたカインの目が答えを求めてさまよう中で、キッシュ氏の白髪が苦しげに俯いた。




*






 立て付けの悪い扉だった。
中は乾いていて真っ暗で、夜だというのに外からの光に道が出来た。
 青ざめたその矢印の先に、寝台が見えた。その上に横たわっていた人間が、こちらを見るなり呻くような声を上げる。
「やだもう、信じられない……」
 寝返りを打った。菜種油は火種を近づけると一気に燃えあがり、部屋の中がぱっと浮き上がる。
 それは、集落からも畑からも遠く離れた、一軒の小さな小屋だった。中には寝室と洗面所くらいしか用意されていない。やたらと毛布が敷かれた粗末な寝台の上に、マラインは横たわっていた。
「…………こちらを……、向きなさい」
 ジンクが炉に火を起こそうと種をいじるたびに、壁に伸びたカインの影法師が左右に揺らめいた。静かだが強制する医師の言葉に、そっぽを向いていた彼女が渋々と、こちらを向く。
 明度が乏しかったが、彼女の肌に紅い斑点が無数に浮かんでいるのが見えた。カインの寒さに震える指が時間を掛けてそっと、その額に辿り着く。
 上から下へ。指に従って一度閉じた瞼を、彼女はすぐに開いて言った。
「伝染るわよ……」
「馬鹿を言うな。空気感染じゃない」
 ――――性病だ。
その言葉を彼は唇と一緒に噛み締めた。
「どうして言わなかった……!」
「会いたくないと言ったのあなたじゃない」
 律儀に傷ついた顔をする彼に、マラインは慌てて続ける。
「嘘、冗談よ。本当は……」
声をひそめた。
「あなたは真面目だから……、恥ずかしかったの」
「……私に体を診られるくらいなら、死んだ方がいいか?」
 しばらく彼の顔を眺めた後、マラインは黙って上の布団を外した。
 静かに、注意深く、医者の指が体を点検していく。火を起こし終えたジンクはそのままの姿勢で、懸命に彼らの方を見まいとしていた。
 やがてカインは身を起こすと、外套から小冊子と鉛筆とを取り出し、そこに走り書きで幾行か書き付けた。そして躊躇いもしないでその一枚を破り取ると、ジンクに渡す。
「すぐにこの書付を、街道の宿に届けてくれ。例のロキが泊まっているはずだ。その後は彼の指示に」
 若者がすぐさま走り出して行くと、身なりを整えた彼女が聞いた。
「いいの……? その本、大事なものなんじゃないの?」
 カインは答えなかった。中紙を剥ぎ取られた『コルレニウス・アトリ詩篇』は炎の側に置き去りにされる。



 馬の音が遠ざかってしまうと、部屋の中は急に静かになった。燃え上がる炎の側で男は、額を押さえる。
「……私、助かる?」
 マラインの透明な声。彼は振り向きもしないで反問した。
「……助かりたいか?」
「うん」
 顧みると毛布の中で彼女の瞳がぬれていた。
「大丈夫だ、薬がくればじきに良くなる」
彼の微かな笑みに応えて、マラインの頬も少しだけ笑った。
 彼女が眠りにつくと、カインは外へ出た。
 そしていきなりに膝を折ると、嘘をついて熱い額を冷たい地面に打ち付ける。





*







 翌朝、ロキとジンクとが奔走して手に入れた薬がわずかばかり届く。青年は申し訳なさそうだったが、自分が書き記したものが半分以上届かないであろうことはカインには最初から分かっていた。
 薬と一緒に、ロキから一体出発はどうするのかと手紙が届いたが、それは読まれたなり暖炉へ放られてしまった。
「あっ。あーあー、燃えちゃった」
 側で見ていた彼女が変に楽しそうにくすくすと笑う。
「誰一人近づかないな」
 カインが薬を混ぜながら呟いた。
 キッシュ氏はジンクを通じて日に二度食事を運んできたが、本人は姿を見せなかったし、また見舞いに来る者も一人も無い。
「まあ仕方ないわ。みんな忙しいし、……この病気は触ると伝染ると思ってるから……」
「『伝染病』患者はいつも、ここに入れられるのか?」
「家によるわ。家で看護される場合もあるけど、私の家は人の出入りも多いし、父も対面を重んじたのよ」
 マラインは起き上がって薬に口をつける。
「不味……」
「知ってる」
「悪党」
「ちょっと起きてられるか。毛布を陽に当てる」
 数枚を屋根の上に並べて帰ってくると、マラインは暖炉の側に座って細長い琴のようなものをいじくっていた。
「何だそれは」
「ヴィージニ。楽器よ、暇つぶしに持ってきたの」



  ほとりに立ちて湖面を見れば
  ご覧 お前は独りではない
  冷え込む夜にも明かりに向かえば
  ご覧 影がお前を包む
  神の国だよ 孤独知らず
  神の国だよ 孤独知らず……



「書かないの?」
マラインは斑点の浮かぶ口の端に皺寄せて、白い歯を見せた。




   あの子うつくし十五歳
   花を摘んで言いに行こう
   僕のお嫁さんになってくれ
   畑で一緒に働いとくれと

   あの子優しき十五歳
   はぐらかしては笑うだけ
   それじゃ神さま聞いてくる
   あなたが相手が聞いてくる

   あの子かわゆき十五歳
   僕は星にと祈るだけ
   彼女の神さま僕を見て
   その声をば聞かせておくれ……
                           』






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