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夕方、ロキが馬に乗ってやってきた。家の外で二人の学者は言い合いをする。 「こんな薬も何もないところで患者を診てどうなるというのです?! しかもあれはトレン・グノーシア、いわゆる『石榴熱』です。 ……あばずれの病ですよ! 薬でちょっと楽になるとは言え、この先は崩れるばかりで……」 「そんなことは解説してもらわなくても解っている」 「それではどうして治療を続けるのですか?! 家族にあれは感染しない病だと教え、床を家に移してやる。それだけやれば我々には十分で……!」 「――ロキ」 睨み付けるようなカインの眼差しに、興奮していた彼ははっとなった。 「……誰であろうとも人は必ず死ぬんだ。私も、君も、少年も彼女もだ。そう知っているはずの人間が、その価値に優劣をつけてどうする?」 その威厳は、施療院で数多くの若者の前に立ち、教鞭を取っていた昔とそっくり同じものだった。馴染みあるカインにようやく辿り着くと共に、ロキは立場の違いを思い出して身を縮める。 「……し、失礼を……。つい、言い過ぎました……」 「君は宿で待て。……どちらにせよ長くは……、待たせない」 そう言った時、カインの眼鏡の間に白い雪が落ちた。すぐに水になるそれを払うために、彼は眼鏡を外す。 「……先生。頬に水が」 ロキが自分の顔を触って、それからそっと言った。 ――――雪ですか? 「そうだ。よく分かったな」 「…………」 寝床の中で、マラインは首を回し、明かりを吊るす彼を見上げた。 「冬が来るわよ……」 見下ろす彼女の頬からは、あの斑点が消えていた。そしてそれが投薬の効果ではなく病状の前進であることを、幾度もこの病気を見てきたことのある彼は知っている。 「このまま遠い春まで帰れなくなってしまうわ」 「そうかもしれないな」 「あなたを待っている人がいるんでしょう?」 寝床の側に座るカインの横顔が、背面の火に炙られて黒く塗りつぶされる。 「……妻子なの?」 「いない」 「家族は?」 「それもいない」 「……友人もいなかったら悲劇ね」 「そうかもな」 笑う彼の膝の上におかれた手に、彼女の手が伸びた。 「……ねえカイン」 「うん?」 「神さまを信じてる?」 雪が降って、時が経つほどに沈黙が増すかと思えた。カインは彼女の手を持ち上げ、そっと胸の上に返すと、毛布を掛けてやる。 それから首を振った。 「いいや」 * 時間が流れていく感触がどんどん失せていった。 雪はいつまでもいつまでも降り続き、おそらく一日以上、彼等は何も食べずに湯だけ飲んで過ごした。 「ジンク、雪のせいで来られないんだわ……」 中にいると尚更に、今がどれくらいの時間なのかわからなかった。 マラインが絞った布で体を拭く間に、カインはちょっと外へ出た。そして白に閉ざされる世界に、息を飲む。 すごい――――。 西の方にぼんやりと頼りない丸が浮かんでいた。 太陽らしい。 「してみると今は夕刻か……」 呟いて彼は、小屋の中へ戻る。 「――ねえ、聞いていい?」 火の側で書き物をする背中に、マラインの小さな声が問い掛けた。 「何だ?」 「東部に来る前は何をしていたの?」 長い間、カインは彼女を見つめていた。しかしやがて平坦な声で、答える。 「医者だよ」 「嫌いじゃない?」 「……まあな」 「じゃあどうして、逃げてきたの?」 畳み掛ける追求に、カインの顎が苦笑して下向いた。 「今度はこっちが昔語りをするのか?」 「そうよ、聞かせて頂戴」 寝床の中で彼女は腹ばいになった。両腕を組んだ上へ顎を載せて彼を見やる。 「平等でしょ?」 「…………そうかもな」 文章を書き連ねていた鉛筆を置いた。それから眼球が痛がるのにも構わず、炉に燃え盛る橙色の炎に目を向ける。 平和とは世を虹に透かすということであり、戦争とは火に炙るということだ。最後には全てが炎に焼かれる。 家も、人も、言葉も夢も……。 「――九つの時だ。戦争があった……」 カインは始めた。伝統を受け継がない彼が唯一つ持っている、始まりの神話を。 「……住んでいた小さな街が、敵軍に占領された。 占領された街にしてはかなりましな取り扱いを受けた方だったのかもしれない。別段ものも壊されず、虐殺があったわけでもなく……。 ただ、彼等は女性を要求した。兵士の身の回りの世話をするのだと言っていたけれど、その言葉がどんな不穏なものを覆い隠しているか子供だった私にも少しは分かった。 ……そして私には十四になる、姉がいた」 父の震える手を左肩に感じながら、カインは全霊で神の名前を呼んだ。 お願い、お願い神さま。どうかお姉ちゃんを連れて行かないで下さい。あの怖い人からお姉ちゃんを隠して。映らないようにして。そうでなければ子供に映して。 お願い、お願い、お願い、お願い…………。 しかし士官の手は姉の肩を抱き、選別された女達の中へ送り込んだ。無言のままぶるぶる震える家族を残して。 「最初の二週間……、彼女等は町で働かされていただけだった……。私は時々家に帰ってきては両親と共に泣き崩れていた姉の姿を覚えている……。 しかし戦況が変化し、軍隊が移動することになると、家族達の懇願をはねつけて彼等は女達を連れて行った……」 少年は毎日西方教会に出かけていって、神に姉を無事に帰してくれるようにと祈った。何を引き換えにしてもいい。自分が身代わりになってもいい。 だからあの優しい姉を帰してください。何も悪いことなどしていないあのお姉ちゃんをどうか無事に…………。 「半年が過ぎ……、両親が苦労して姉を見つけて帰ってきた時にはもう……、草臥れ果てて私は神には祈っていなかった」 そして程なく、姉は床に就く。 体中を水泡だらけにして、高熱が何日も続いた。無茶な戦場での『勤め』がその原因であることは明らかだった。 「そして幼い私はまた祈ったが……、もはや半信半疑だった。既に二度神は自分の願いを無視した。だから三度目も、聞き届けられないのではないか……? いや、今までのお願いは全て忘れてもらってもいい。だから今度のお願いだけは……」 お願いです、神さま。 お姉ちゃんの命を救ってください。ただそれだけでいいのです。どんな形でもいい、あの尊い命だけはどうか、どうか助けてください――――。 「姉の葬式を出す頃には、……私にはもう分かっていた。 神は見ているだけで何もしてくれないのだ。いや、そもそも神などいないのだ。人々や神父はいると言うけれど、そんなものはただの言葉なのだ。 感じられないものを信じる馬鹿がどこにいる? 見えないものにすがって誰が救われた? 無いものを有るといって期待を掛けるよりも、最初から諦めた方が落胆が無いだけまだましだ」 それで姉の死後、彼はぱったりと教会に行かなくなった。そして礼拝を続ける父母を、子供ながら冷めた目で見送っていたものだ。 やがて理性を追い求めた少年は学問を志し、無言のまま計算と技術によって人を救う先鋭的な医師の一人となる。彼は医学の領域に神が入り込んでくることを冷然と拒み、非人間的なまでの処置を批難されながらも、前世を祓ったり祈るだけのそれまでの医師よりもはるかに多くの命を救ってきた。 その全ては神を棄てたことから生まれた報酬だった。彼等が教会の反対を押し切って死体を解剖し、生体にナイフの刃を入れなければ、人々は未だに虫歯すら悪魔の呪いだと考え、医学とまじないを混同していただろう。 「……そう……、あなたはとても、えらい人だったのね……」 苦い顔をして首を傾げる彼には、自分がどのような位置にいるのかということにはほとんど興味がなかった。ただ彼は暴かれる人間の仕組みに夢中であり、人を生き長らえさせる技術の開拓に没頭しながら、結果として宗教に勝利しつづけていたのだ。 「施療院にいた頃は……、私は思う存分研究に没頭していた。死んでいく者の数より回復していく者の数が少しだけ多く……、聖職者達に厭われ糾弾されても私は少なくとも、迷わなかった…………」 頭が重たくなる。 カインは思わず、親指の腹で眉間を押した。 寒さが端から忍び寄る部屋の真ん中で、薪が大きく一度はぜる。 「一年前だ……。……また、戦争が始まった……」 開戦の理由が何なのかはよく分からない。ただ、それまであまりに目立つ成果を上げていた彼等は、人々に懇願されて前線に出たのだ。 そこでは、今までとはあまりにも違う日常が彼を待ち受けていた。昼夜無く運び込まれる数え切れないほどの怪我人。その傷の具合も、細菌や偶然が引き起こすようなものとは明らかに違う。人が頭脳の限りを尽くして敵に開ける赤いほら穴だった。 目の前に病気があれば治療し、傷が開いていれば縫い合わせるのが彼の仕事だった。だがカインがどれほど必死になって働いても死体は積み重なっていった。 健康を回復した人間もそれはそれとて、じきにまた怪我人として運び込まれ、その繰り返しは永遠に続くかと思われた。 「私は毎日くたくたになるまで働いた……。実際、疲れて途中で投げ出したくなったことも幾度かあった。 だから多分あれが起こったときも、私はとても疲れていたんだろう……。それできっと必要以上に……」 彼を迷いに突き落としたのは、一人の若い青年だった。 彼は腹にかなりの重症を負って運ばれてきて、カインはその命を救うのにほとんど全ての知識と経験とをつぎ込んだ。彼が一命を取り留めた時には、流石の彼も自分を褒めてやりたくなったくらいだ。 はにかむ笑みで「ありがとう」と言った時、初めて彼が敵側の捕虜であることが分かった。そんなことは体の面倒を見るカインにとってはどうでもいいことだったわけだが、しかし、兵士達にとっては違う。 昼過ぎ、一人の士官が医院の建物にやって来ると、ようやくものを食べられるようになったばかりのその捕虜を連れ出した。味方の兵士達が目を見開いて見守る中で、彼は楡の木の下に跪かされ、そして首を落とされる。 新たに開いた断面から血が噴き出した時、両肩から何か大きな荷物でも落ちたように思った。 ずささささ、っと音がして、屋根の上から雪の塊が滑り落ちた。その後、部屋の中は全くの静寂で、赤い炎が見開かれたマラインの瞳に反射し、小さな点となって光っていた。 「私は、ああ……、そうだった。人は死ぬのだ……。と思った……。それは当然のことなのに、何故かその時改めてそう思った。 ……そしてじき……、声が……聞こえるようになった」 やめておけ。 最初は羽虫が周囲を飛び回る音かと思った。しかし、ある日急に怒鳴りつけるほどの声でそれは彼を打った。 ――カイン、その手を止めろ! そんな芋虫同然となった人間の体にこれ以上傷を作ってどうする。そこからまた新たに血は噴き出すのに、何を信じてその非道を続けるのだ? 両手両足をもがれて、その患者はもはや人の形をしていなかった。転がる肉体を前に慄然とした医者に、声は急に調子を優しくする。 うろたえてはいけません、カイン。 習慣で治療を始める前によく考えなさい。今でも本当に治療が慈悲だと思っていますか? 体力が回復する見込みはごく僅か。よしんばここで苦痛と共に傷口を縫い合わせても、生存する可能性は少ない。 その上生き延びたとして、彼に何か幸福が残っていると思いますか? 一生迷惑がられながら? 不浄の世話までを他人に肩代わりさせながら? 彼は恐らく生存への呪いと、いっそあの時死にたかったという後悔だけを口にしながら生きるでしょう。 ――――そんな生存に何か価値があるのか。 何のためにその命を救うのだ? お前の技術はそんな無益な延命ばかりを施してきたのではないか? 考えろ。死とは永遠の静寂だ。 人々のうめき声に満ちたこの現世より、不幸な場所だと言えるだろうか。この男にとって軽蔑と苦悩が待ち受ける現世よりも優しくない場所だと言えるだろうか? お前はその矛盾は見ない振りして、この男にもっとも苦痛に満ちた道を当然のように押し付けようとしている……。そんな嫌がらせをするためにお前は知識を積んできたのか……? 冷たい汗が出た。 彼はその声に一言も反駁ならなかったのだ。 ……分かってきただろう? もうそろそろお前にも分かっただろう? 治療のどこに救いがある? 慈悲とはその手にしたナイフを下向きにし、どこにあるのか見抜けるその目で心臓を一突きにすることだ。どうしてか生き延びてしまったその偶然をお前の手で、終りにしてやることだ――――! カインは処置を続けることが出来なくなった。人々が驚いてうち見守る中で、蒼白の彼は処置室を出る。 「休んでも休んでも、声は毎日大きくなった……。私には命を救うという行為の目的が分からなくなり……、じきにまともな目で患者達を見ることが完全に出来なくなった……」 彼は前線を退いた。 そして人々に不思議がられ、懇願されながらも、二度と医療に携わろうとはしなかった。それでも強固に求められた結果、彼はほとんど逃げ出すように出奔する。 光を失した明星は放浪した。 『手紙も残さず、行き先も告げず、一体何を求めて果てのないの道を歩いてきたのか。 日々灰色を深め、よそ者の侵入を拒まんとする異国の空に逆らいながら―――――。』 一年後彼は、旧知の学者の家でコルレニウス・アトリの詩集を偶然手にした。そしてそこに書き記された放浪詩人の最後の言葉が、彼を不思議に突き動かしたのだ。 『さらば狂乱の西の暁』 そして東へ向かう自分の足を見たとき、やっと彼は気付いた。 『私は神の声を聞いた』 自分が一体、何を求めているのか――――。 『だからもう、帰らない……』 「それで……?」 カインは息を吐きながら、悲しげな微笑を浮かべた。 「ここも他の土地と大差ないことを教えてくれたのは君じゃないか」 酔いかけていた頭がまた、一瞬にして冷たくなった晩。あの時カインは思い知ったのだ。神など、どこにもいないのだと。 「打算、争い、短絡、愚昧……。人間はどこでも同じだ……。同じように生き、同じように死ぬ……。ならば神の種別が違っても、信仰など無利益な従属に過ぎない……」 傷ついた彼は一転、神話の真実を現実的な説明で暴きたてようとした。幼き昔、期待を裏切った神に怒り、教会に冷たい目を向けたときと同じように。 それでも彼は、尚悲しいのだ。 神がいない。人は死ぬ。だが命である以上救わねばならぬ。 どれも簡単で明白な事実なのに。 結論はもうとっくの昔に出尽くしていると言うのに、この千年に通ずる迷いと矛盾は、忘れた振りをするしかないのか? だが、またあの声が聞こえてきたらどうする……? 「……もういいだろう」 カインは首を振った。 「長く話して草臥れたよ、終りだ。君も少し、おとなしくした方がいい」 「おとなしくしていても治らないわ。私、知っているの」 毛布へ伸ばされたカインの手が空中で止まる。マラインの目がそんな彼の狼狽を捕らえた。 「どうしてあなたは、嘘をついてくれたの?」 「…………は」 こんな下手くそな言い訳をしていたのは誰だったか。 「はずみだ……」 「その前には、私の友人の命を助けてくれたわ」 前髪に遮られて、鼻先と唇しか見えなかった。彼は少しだけ低い、困ったような声を出す。 「…………知らない。……あの時は……」 体は凍り付いていたが、あの冷たい牽制は聞こえてこなかった。 「……多分君が隣であまりに強く、信じ込む顔をしていたからだ……」 死なせたくない。死なせたくない。死なせてはならないと。 まるでカインの今の、感情のように。 |
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