<< back

next >>



- 7 -




 ちょっと横になっただけのつもりだったのに、そのまま寝てしまったらしい。零れるようにでたらめに爪弾かれる琴の音に目を覚ました。
 床に直接寝たせいで少し痛む背中を回し、振り向くと、すぐ側でマラインがヴィージニを抱いていた。
 俯いた鼻の線が唇にかかっている。衰弱した目元にはくまが出来、頬には残酷なほど黒い影が落ちていた。
 カインが無言のままそれを見つめていると、ふいにぴたりと手を止め、彼女は顔を上げた。
「カイン」
 彼の名を呼ぶ。
「ヴィヴデオが聞きたい?」
「……何?」
 彼女が何を言っているのか分からないで眉を寄せた。
「ヴィヴ・デーオ…………? かみの……」
 言葉が虚空に消えていった。ただ意識ばかりが、女の両目に引き込まれて動かなかった。
 彼女は笑う。やつれた肌が皺さえ刻んだのに、胸が苦しくなるほどあどけない笑みだった。そして細い声が、言う。
「……あのね、カイン。あなたは神さまという時、その人は一体どこに棲んでいると思う?」
 起き上がってあぐらをかいたカインは、自信なさげだった。一本指が天井を差したが、すぐに引っ込めて、
「そうでなければ、……下だ」
と言い訳をする。くすくすと笑うマラインの首筋に栗色の髪の毛が落ちる。
「残念でした、違います」
 カインは決まり悪げに尋ねた。
「じゃあ、どこだ?」
「……その指を持ち上げて、ここを指して?」
 と彼女が言ったのは、自分の左胸だ。子供の遊びのようだった。
 カインは彼女があまりにふざけたことを言おうとしているように思って、おかしくなる。
「笑わないで頂戴、正気そのものよ」
 それでもなんとか自分の方へ持ち上げられた彼の手を掴んで固定すると、彼女はもう片方の手でカインの胸を指し示す。そうやって互いに互いの胸を指しながら、
「私たちの中に棲む神さまの名前を、精神と言うわ」
 ――――。
彼女に押さえられた手首が自然に動く。雪のように真っ白になった心と引き換えに、心臓の鼓動は深く、それが彼の存在それ自体であるかのように強く疼いた。
「……私たちは貧しくて愚かだけれど、そのことを忘れたりはしていないわ。私達はその写し身なのだから、天上でも地下でもない、神さまは私たちの中にいるの……」
 衣擦れの音がして、マラインの額が肩に置かれた。泣き疲れた子供を癒す母親のように、カインの髪の毛の間に指を通し、静かに撫ぜる。
「だから、神さまも私たちと一緒で悩んだり病気になったり時に狂ったりするの……。
 あなたが人の病気を治すとき、あなたは神を治しているの。あなたが傷を塞ぐ時、神の傷も癒えるの。あなたが人の苦痛を救うとき、あなたは神を救っている……」
 ぼろ、と頬に何か落ちる。
それが滑って口に入ると、唇に海の味が広がった。
 静寂の中に一時が過ぎると、やがてゆっくりとマラインは顔を上げ、微笑んだ。
「私の神さま、歌が歌いたいって」
 鳶色の瞳は瞬きもしないで彼女を見つめる。
「……神さまが歌うのはね、結婚する時だけよ。結婚する晩男と女は寝所で向かい合ってヴィージニを弾きながら一緒に、たった一度だけ歌を歌うの。
 みんながこれを隠すのはそのためなの。『神の声』を聞くことができるのは結婚する相手だけ。もしも神さまの気持ちを置いてきぼりにして心のこもらない歌を歌うようになったら……、私達は終り……。
 ……分かる?」
 女は彼から体を離すと、きちんと姿勢を正して座りなおした。そして首の細い琴を斜めに構えた。
 呼吸すら忘れてカインが見守る中で、やがて、
第一音が弾かれる。


   ―――――――。


 それは確かに「ア」という言葉だった。意味は「わたし」だ。しかし彼が今までに聞いたどんな音よりも大きく、どんな音よりも鮮明に、夜を突き抜けてそれは響いた。
「…………?!」
 弾き飛ばされそうになりながら、カインは驚嘆の面持ちで彼女を眺める。
 一体どこからあんな声が出てくるのだろう。まるで人間の出す音じゃない。そうだ、これではまるで、誰か別の大いなるもの――……が…………


   ――――――(わたし)。

弾ける琴の音。

   ――――――(わたし)。

伏せられた黒いのまつ毛。

   ――――――(わたし、
           わたし、わたし、わたし)――――――……

 雪落ちる深夜のしじまに、「彼女」の声が傷をつけていく。一語を追うごとに深く、ますます強く、声に押さえれるように旋律も揺らめいた。まるで顎を逸らす炎のように。

 ……わたし、わたし、わたし、わたしわたしわたし……。
わたし…………わたし………………
 わ――――――……た――――――…………し――――――…………


 瞳が開かれる。
丸いその湖の中に、彼がいた。そしてきっと彼の瞳も湖となって彼女を映している。
 零れる微笑みと共に、彼女は言った。
「エ(あなた)……」
 そして口は閉じられる。



 『神の声』は終わったのだ。
それは神に対する宣言だった。
 自らの器の中に、自分とも神とも違う新しい人のための場所を作り、自分自身の精神に対し他者を受け入れることを知らせる、決然と変わらない愛情の告白だったのだ。
 そしてカインは湖から引き上げられ、彼女の両の腕にしっかりと抱きとめられた。まるで原初の人間のように呆然とし、出てきた新しい世界に両肩で息をつきながら、彼の体はその時、神に抱きしめられていた。





 ――さあ、すぐにここを発ちなさい。
わたしが神の声をあなたに聞かせたことは今頃、みんなに知れている。彼等はあなたを追い、東部から出すまいとするでしょう。
 すぐに出て。今すぐに外套を身に着けて。
真っ直ぐに西を目指しなさい。徒歩で一時間も行けば、やがてあなたはあなたの道へ、辿り着く……






 小屋の扉を開けたとき、カインは驚いて息を飲んだ。とめどもなく降り積もる雪の最中に、動物達の光る蒼い目――――。
 彼等は音もなく小屋の周りを取り巻き、出てきた人間に怯む様子もなくじっとしていた。
 カインはしばらく言葉も無かったが、やがて小さく首を二三度振ると、歩み出した。扉は閉めずにおいた。後ろを振り返らぬまま、山鹿がそっと身を寄せた隙間から西の方角へと輪を、抜ける。





*






 『私は歩いた。
たった独り、夜の中を、
まるで深海の魚のように、
音もなく、
音もなく。
波よす白き風に視界を奪われながら。

 けれど私には見えていた。
百人に囲まれ尚寂しさを感じた私が
努めても努めても諦め切れなかった、
そのものが何なのか。

 私は白紙の上に迷い込んだ蟻のよう。
無力で儚い一匹の虫に過ぎぬ。
 けれども君達は笑うだろうか、
私は今、神の前にちっぽけであることに
無上の喜びを感じるのだ。

 私は顔をあげ、利得を追い求めていた過去と決別する。
さらば狂乱の西の暁。
私は神の声を聞いた。
だからもう――――。』





 ……うるさいぞ、アトリ……。
カインはぼやき、自然と頭に浮かぶほどに繰り返したその詩に今日は眉をしかめる。コートの中でかじかむ爪が、ざらりとする紙に当たっていた。
 確かに雪が動く彼の上にも積み重なっていく。
まるで時の重みのように。
 けれど彼が身を震わせればそれは振り落ちるのだ。彼の頬の上に留まることの出来る雪は無いのだ。
 ――だから、立ち止まってなるものか。
カインは歯を食いしばった。
 私は厭世の人と同じではない。
夜はまだ明けず、雪はその手を緩めない。
 だが、私はもう迷わない。
放浪もしない。
 なぜならば、『私は神の声を聞いた。』
だからこそ、帰るのだから。
 私は湖の場所を知った。
だから卑小に変わりなくとも苛立って不安ではない。
 私は西へ帰る。そして自分がすべきことを……、すればいいのだ……。
 疑いの無い思いが足を動かし続け、それは現実の前進となって冬を踏んだ。
 一体、どこからこんな力が湧いてくるのか。こんなに息が凍えているのに体は暖かい。何も見えないのに心はそれ以上に理由も分からぬままに熱く、彼は不自然なまでの強さで、生き続けていた。
 ……これはきっと、君がくれたのだ。
西へ帰る力も、その運命もみな、死にゆく君の歌にもらったのだ。
 ……だから、いかにこの吹雪が辛くとも、
いかにこの別れが寂しくとももう……、
泣くのはやめよう……。
 ほんの少しの辛抱だ。
君と私は湖のほとりでもう一度、必ず会う。
 その頃には多分、君も私もとても身軽になっているだろうから、二人してまるで神様でもあるかのように手を繋いで、永遠に続くこの純白の原をどこまでもどこまでも一緒に、歩いていこう。




 カインは外套のポケットから草臥れてぐしゃぐしゃになった詩集を取り出した。そして恐れもしないで振りかぶると、それを力いっぱい東の方へ、投げ返す。
 それが点になる頃、再び歩きはじめた。
渦巻く雪白の風の中を西に向かって、彼の癒すべき神々の世界へと。
――――真っ直ぐに。








- 7 -

<< back novels

next >>