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永劫恋慕
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 しつこい女生徒達の他愛ない質問をどうにかお終いにして、終業後半時間も立った頃、オッシアはようやく講義室から出ていくことが出来る状態になった。
 やれやれ、と軽く首を回しながら、講義帳を閉じにかかる。女生徒達とは会話しているだけでも、なぜか体力を消耗してしまう。
 そこへ、
「お疲れさまでした」
地味な顔に見合う拙い笑顔で、レナンが演台の方へ降りてきた。サラフは―――、と言えば、いつものように、階段の真ん中あたりで黙って立ったまま、褐色の頬を内から噛み、自分の主人とその助手が上がってくるまで待っている。見るからに退屈そうだ。
「今日はまた一段と大変でしたね」
と、レナンが言った。困ったものだという口調だが、抑えきれない喜びが眉根の間からはみ出していた。
「そうでもありませんよ」
 笑いながら、オッシアはそれに加担しないようにさらりと答える。
「そうですか? まるで宝石の前に群がっているようでしたよ。みんな、少しの間でも独占しようと躍起なんでしょうね」
 とうとうふふ、と余裕の笑みがこぼれた。どれだけあの少女達が彼を取り囲もうが、最後には必ず自分のところへ帰ってくる。
 だからこの、終業の時刻が彼女はとても好きなのだ。講義に疲れたオッシアの顔を見るのも、彼を迎えに階段を降りていくのも。
 助手という名の一人占めをわがままに幸福に感じる。他の学生の、冷やかすような、あるいははっきりとした憎しみの視線さえ楽しいほどだ。
 浮き浮きする彼女の隣でオッシアは、小さなため息で弾みをつけるようにして、ようやく椅子から立ち上がった。
 その時だ。ふいに天井の方から、
「すみません」
という女性の声が鳩の羽音のように降ってきて、その乱れにレナンの機嫌はちりっとした。
「もうだめですよ。導師はお忙しいんですから」
 心持ち身体を向けるようにしながら、即座に切って捨てるような声を出す。それは助手としての条件反射だったが、むしろその態度の方が彼女の硬い印象には合っていた。
「ちょっとだけで構わないのですが……」
 天井の彼女はところが、遠慮する構えを見せながらも食い下がる。
「だから明日になさい」
 手を焼かせる女生徒だ。苛ついてレナンはとうとう振り向いた。
 ―― だが、にらみつける視線は階段の手前、女性の足下の辺りでさざ波のように押し寄せた驚嘆に取って代わり、彼女はそのまま、消え入るように勢いを失ってしまった。
 それは出遅れた、おどおどした女学生などではなく、もっとずっと、別のものだったのだ。
 すり鉢状の講義室の、一番高いところに出入り口がある。その開いた扉の前に彼女は立っていた。
 不可思議な菫色の髪の毛と透ける肌の白。人間ではないと一目で知れた。有韻精霊、いわゆるヴィンだ。
 それは、もう絵画の中から抜け出してきたみたいに美そのもの、人にはありえないような容貌であり、ロゴスを吸い込む圧倒的な真だった。
 少し手前にいるサラフも、遠いレナンも、彼女の醸すぼうと光る魅力に呆然として見惚れてしまう。
 そして、麻痺した頭脳の裏側で、ヴィンに対する忌まわしい知識が、一抹の恐怖を背筋に呼び起こし始めた頃、
「―― どなたですか?」
 オッシアの穏やかな声が、そこめがけて引き込まれそうになっていた時間を静かに目覚めさせた。
 ようやく返答をもらったヴィンの女性は、首を傾げて水鳥のように微笑んだ。
「……ええ、私ヴィオレリと申します。
 今日付けでこちらへ戻ってきた薬師です。……あの、サラフという子にお会いしたいのですが……」
願望を口にする。
 サラフがちょっと戸惑ったような顔で下を向いた。子供らしい照れくささでそわそわし始める。
「……サラフはその子ですが……」
 言いながらオッシアは階段を上り、彼を護るように少年の側に立った。柔らかな口調ながらはっきりと聞く。
「どういうご用件でしょうか?」
「ソマス師の、最期を見とったのは彼と聞きました」
「ああ」
 その言葉で青年は納得した。数回頷くと、ヴィオレリと名乗った女性をもう一度見上げる。
「それでは、我々は廊下でお待ちしていますから、中でお話を。今はそれでよろしいでしょうか?」
「……あ、はい。ありがとう。……あの、手短に終わらせますわ」
「どうぞお構いなく」
 年の割には落ち着いた笑顔を返すと、所在なげにうつむくサラフの肩を一回優しく叩いた。
 それからすっかり調子を狂わされ、いささかきまり悪げにしている助手を連れて外へ出る。すれ違い様、微妙な香りを髪に感じて、覚えず眉が動いた。
 扉から離れると、今日新たに手紙が届いたかどうかを助手に尋ねる。レナンは首を振って否定した。
「いいえ」
「……では、もう今日は結構ですよ。私はサラフを待っていますので」
 でも……、と何か言いたそうにする彼女に、彼は合図として微笑みかけ、はっきりとした読点を打つ。
「また、明日部屋でお会いしましょう」
「……はい。……わかりました。それではまた」
 彼女は彼の意志に逆らうことなど出来ない。そして彼女はオッシアの支配下にいて幸せだ。
 だがら残念な顔をしながらも従順に頭を下げると、素直に彼のもとを去った。




 独りになった廊下には、微かに東風が流れていた。白い大理石が陽光を照り返してまぶしく目を刺す。長い冬がもう終わろうとしているのだ。
 待ちかねた春の気配が、欄干に寄りかかるオッシアの瞼を重たく閉じさせる。
 彼は二十歳を少し過ぎた、痩せた長身の男だった。うつむくと刻まれる頬の影とその物腰のせいで、少し老けてみられることもある。髪の毛は北部オデッススには珍しい砂色で、これは中部民の特徴だ。
 彼は一年ほど前、イステル公国の中部砂漠地帯の小さな街からこの賢人書院へやってきた。そして初めの公開試験で、前触れもなく九十五韻を記録して居並ぶ三百人の術師達を愕然とさせたものだ。
 人間の限界韻数は一分間に百韻だと言われている。無級の状態で入院してきて、取り立ててどうということもないと思われていた彼は、一挙に院内で最速の巧者として一級術師へ高飛びした。
 それ以後、彼の評判は増すばかりのことで、一度も落ちることがない。
 昇格直後にサラフを引き取って、一部の老人連から恨みを買ったが、一般の学生にはその思慮がむしろ受けた。彼は老いぼれ達のように、その異国の少年を慰みものとして使ったりせず、良心的な保護者であり続けたからだ。
 そして何より、彼は謙虚で人当たりがよいのだ。上瞼に斜めに切り取られた灰色の瞳は、いつも微笑みに容易く細められる。どんな相手にも丁寧な言葉で辛抱強く話しかけるし、一般学生にもごく親切なうえ、講義は誠実で分かりやすかった。
 こうなればどれほど老人連が悪評を流そうにも無理で、彼らは歯がみをしつつ自室で呪詛を行っているとの噂話である。
 オッシアは目を閉じたまま少し顎を反らした。面に光があたり、仄かに熱が昇る。目の上が赤く暖かく、実際、晴れた昼間はもう熟れる春だった。
 何かを忘れまいとするように、静かに歯を噛みしめたその時、講義室の扉が開いた。オッシアは反射的に音のする方を振り向く。
 瞳孔が、あった。一瞬それしか目に入らなかった。それは薄い菫色をしていて、涙に溺れていた。どきり、と心臓が跳ねる。
「あっ…」
 ヴィオレリが吐息のようにそう漏らした。さっと顔が赤くなる。
 が、それはほんの短い間のことで、彼女はすぐに立ち直った。オッシアが忘我から体重を取り戻すよりも早く、一礼して小走りに左へ行ってしまう。ものを聞く間がなかった。
 半開きの口で白い背中を見送ると、振り返る目で扉の前に立つサラフに問いかけた。彼女に比べると彼は、真っ黒だ。
「……どうしたんですか?」
 主人の問いに、サラフはただわからない、という顔をする。そんなことより彼自身もなにやら泣き出しそうだ。きっとびっくりしたのだろう。
 もう何も説明出来そうになかったので、オッシアは苦笑し、それから安心させるように二三度彼の頭を軽く叩いた。
「大丈夫。多分、……あなたのせいじゃないですから」
 まだ迷いのある瞳を向けてきたが、サラフはそれでもやや落ち着いたようだ。オッシアは少しだけ頷くと、無口な彼を連れて部屋へと歩み始めた。




 その菫色の女性とオッシアはその日、もう一度会った。夕刻食堂で、彼女は院長に紹介を受けたのだ。
「……など、女史は大変に豊富な薬草学の知識を持っておいでです。いつまで滞在なさるかは女史のお心如何である以上、興味のある者はこの機会を逃すことなく尊敬をもって女史のご指導を受けるように。
 また、女史は多くのヴィンとは異なり、人間界の礼節や感情を大切にして下さいます。それに対し我々も、充分な礼儀をお返しせねばなりません……」
 木製の食器の並ぶ食卓に肘を着き、組み合わせた両手の上に顎を乗せた姿勢で、オッシアは院長の横に大人しく立つヴィオレリの姿を見つめた。
 あなたに見れば、それほどに違和感はない。近寄るほどにその異質さが明らかになるのだ。多分、あの瞳を見るせいなのだろう。人間ではない、と教える瞳孔の異彩。
「……女史は私の青年時代にこの書院を去られ……、以来……私は懐かしさで……胸が……」
 院長の話は長かった。オッシアの隣で忍耐のない二三人の男たちがひそひそと囁き始める。かなり下卑た内容で、彼は眉一つ動かさずにそれを聞き流した。
 生暖かい夕食を終えオッシアが立つと、偶然出口のところでヴィオレリと一緒になった。彼女は青年の顔を見るなり、ひどくばつの悪そうな顔をする。
「……先程は、どうも……」
 彼はにっこりした。
「お気になさるようなことはありませんよ。二二一歳と言えば、ヴィンにとってはまだ二十代でしょう」
 ちょっとびっくりしたような顔で、彼女は言う。
「お詳しいんですね……」
 オッシアは笑って、こんなことは少し詳しい者なら誰でも知っていると言い足した。
「それよりもサラフが失礼をしなかったかどうかが気がかりですが」
「サラフは親切にしてくれました。……彼は」
 従者達の並ぶテーブルへ目をやる。しかし、そこにあの褐色の肌は見あたらない。
「先程から探しているんですけれど」
 困ったように、青年はちょっと声を転がした。
「あの子は部屋で食事をしています。……ここには、入れるなとのお達しでして」
 彼女の視線がさっと返ってくる。ぶつからないようにするのが大変だった。
「まあ、そうなんですか……。つまらないお話ね」
「同感です」
「……じゃあその、彼に謝っておいて頂けますか?」
「了解しました。……時に女史、薬草学を教えて頂きに、どこへ伺えばよろしいのでしょうか」
「中庭に面した、薬草房です」
「ああ、あの封印律で結された……」
「今はもう開いていて、そこにいます。どうか暇なときにでもお立ち寄り下さい。出来る限りお相手します」
「はい、是非」
 二人はもう一度にっこりと微笑み合って別れた。
 オッシアの謙譲は誰もがそう感じたように、ヴィオレリの心に快い印象を残した。それは根っからの人好き、という感触ではなかったが、嫌みのない前頭葉の礼儀が相手を安堵させるのだ。
 賢人書院には大陸中から知識を誇る老若男女が集まってくる。だがそれだけに、あまりに自らを恃み、険の鋭い、むやみに賢しいだけの人間も多い。オッシアの灰色の瞳は、その手のうんざりさせられる悪徳から、遠いところにいるように思われた。
 ところが、ヴィオレリのその無害な第一印象は、偶然とはいえ早くも同じ晩に、乱暴に破って棄てられることになったのである。





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