<Novels<<


永劫恋慕
- 2 -
 




 その夜半過ぎ、ふと目を覚ますと隣の寝台が空っぽだった。オッシアはすぐに身を起す。
「サラフ?」
 とりあえず居間の方へ呼びかけたが、どこからも返答はない。
 傍らに吊された長衣を羽織り、オッシアは三間続きの部屋の中を見て回った。だが、少年の褐色の姿は見あたらない。深閑とした夜があるばかりだ。
 オッシアは外へ出た。まさか馬鹿な連中がさらって行ったとは思えないが、独りで院内をうろつくこと自体が彼には危険だ。
―――― どこへ行った……。
 踏み出すと夜は青く透き通り、ひんやりと清潔で美しかった。
 書院の瀟洒な建物も今は、世界中の人が死に絶えた後の街のようだ。オッシアは愛しげに青い空を見上げると、注意深く静寂を壊さないように廊下を歩み始める。
 黒い影が足下を、踊るように続いた。




 当のサラフは丁度その時、黒々と枝を伸ばした大木の根本に独りで座っていた。その苔に覆われた古い窪みは、孤独な彼の居場所であり、巣であり、いわば揺籃である。
 すっぽりと彼の肌を覆う闇の中、立てた膝の上に両手を堅く組み合わせ、少年はぼんやりと何事か夢見ているみたいだった。
 どれほど長い間そうしていたのか、彼自身にももはや分からない。そしてできれば、いつまでもこうしていたいと思っていた。
 少年はその褐色によって闇にとけ込んでいたが、寝間着は真白なので月に映える。その危険を、知らぬことではなかったが、ただ彼はこうしなければならなかったのだ。
 あの親切な韻術師の部屋の中ではなく、埃の光る図書室ででもなく、森の中で独りになってじっと、この熱が去るまでじっと待たなくては。
 胸が一杯だった。そうして苦しい顔で居たけれど実は幸福だったのかもしれない。心臓がどきどきする。
 けれど彼はその名前を知らなかったし、その感情を特別枠で味わう文法も知らなかった。だから、他の厄介な感情と同様に、我慢して、一人で紛らわせなければならないと思ったのである。
 悲しい異国の少年は、影為すほどの濃いまつ毛を伏せ、黙って額と組んだ拳とをすりあわせた。




 中庭へ降りると、広がる木々のために少し足下が暗くなったが、灯りの必要なほどではなかった。白い月光は彼のために道を示し、それはさらに奥へと続いていた。
 彼は後ろを振り向くことなく進む。道に迷うという心配は浮かんだ先から振り捨てていた。
 ふと、オッシアは小枝を踏みしめる足音を聞きつけ、歩みを止めた。足早に、こちらへ向かって進んでくる軽い音だ。
 大分遠いような気がしたが、夜間のせいかその勘が間違っていた。のんびりと発光しようと手を上げたのとほぼ同時に、茂みから飛び出すように白い姿がばっと眼前に翻って、オッシアは悲鳴を上げた。
「わわっ!」
「ひゃっ!」
 相手も死ぬ程仰天したとみえて、おかしな声が応答する。
「う……」
 数分気まずい沈黙が流れた後、相手は思わず取り落とした洋燈を拾い上げた。それを掲げるようにしてオッシアと確認すると、へたり込むようにため息をつく。
「……ああ、驚いた……。今時分こんなところで何してるの……」
 灯りのまぶしさにオッシアは瞬きをしつつ、ようやく幽霊と勘違いしたその相手が、昼間会ったヴィンの女性だと判別した。
「ヴィオレリ女史……。幽霊かと思いましたよ……」
「それはこっちの台詞よ。……森をうろついて人を脅かして回る趣味でもあるの?」
 恨めしげに彼を見やる。随分と人間らしい表情だった。
 オッシアはこみ上げる無遠慮な笑いを唇でどうにかうやむやにしながら、サラフがいなくなって探している旨を説明した。
 彼女は小首を傾げる。
「え。でも、もう外には出ていけない時刻でしょう。そんなに慌てることは……」
 青年は、遺憾ながら都市の夜よりも、書院の鉄門の中に留まることの方があの少年にとっては危険なのだと肩をすくめた。
「……彼はそんなにもてるの?
 だってあの肌の色でしょう。一般に言われている美質と遠いんじゃなくて?」
「下手物好きはどこにでもいますからね」
 するとヴィオレリは神もない、というふうにその髪の毛を揺らし、異質な音韻でぽつりとつぶやいた。
『お慈悲を』
「それを言うなら、『お裁きを』と」
 横合いから青年があっさりと訂正するので、ヴィオレリはまた、今度はより深く驚いた。
「ヴィンの言葉が分かるの? あなたって本当に……随分詳しいのね」
「まあ、人間よりはヴィンの方が好きですけどね」
 何気なくこぼれた一言だったが、その調子はヴィオレリの注意を引いた。その言葉には幾ばくかの感情があった。いままで発したどの台詞にもなかったものだ。
 返答しようとヴィオレリの唇が開くより一瞬早く、彼女の聴覚が遠くの異常を捕らえて言葉を封じた。
「……!」
 片手をあげて、オッシアにも緊張を促す。青年の目元にも僅かな細心が宿った。
 ヴィンは精霊であり、存在の全てを一種の波に依存していると言われる。そしてその感覚の深さと繊細さは人間の比ではない。
 奥で、何かが起こっている。二つの雑音が平安をかき乱しつつ、ひどく必死な、あるいは熱心な様子で走り回っているようだ。
 この感じを知っている。これは、この追うものと追われるものの波打つ血潮の感覚は――、ヴィオレリは顔を上げた。「狩り」のそれだ。
「誰かが追われているわ」
 説明を待つオッシアに、彼女は言った。
「サラフかも知れない……」



 ぴたり、と冷たい湿ったものが肩へ落ちた。驚くよりも先に顎が振り向くと、サラフの鼻は突き出された老人のそれと危うく掠りそうになった。
 夜の森の中で、二人の目が瞬きもしないでお互いを見合う。
 まだ何事も発動しなかった。一瞬の後、唇がのろのろと動いたかと思うと、老人は赤くにたと笑った。
 瞬間、サラフの全身は激しい嫌悪に貫かれ、飛び上がった。前へつんのめるように走り出す。
「サラフ。お待ち……!」
 後ろから迫る老人の声は、神のような力をもって少年の背をむち打ち、その痛みは肉のものだった。
「せっかく会えたんじゃないか……!」
 走る速度はどんどん上がっていった。それは危うい速さであって、増せば増すほどサラフの軟弱な足下は危なくなるのだ。だが、笑いを含んだ濡れた声は後ろから、倦むことなく彼を急かし続ける。
「お前も忘れられなかったんだろう」
 その声はぎょっよする程近くに聞こえた。こんなにも全速力で走っているのに! 気が狂ったように足が回った。
「あんな若造にはお前を喜ばせられんだろう!」
「ううっ!」
 たまらなくなって声が出た。好き勝手にほじくり返される忌まわしい記憶を頭から振り払うためだ。その叫びに覆い被さるように老人の声は続いた。
「ほれほれ捕まえるぞ……!」
 容赦のない楽しい手が、肩に触れた。その冷たさに皮膚が焼ける。悲鳴を発し、夢中で身体をよじった弾みに、意地悪く走る木の根に足を取られた。
もう、だめだ……!
 緊張が諦めに絶えようとしたその瞬間、何かがもんどりうったように、唐突に目の前が白くなった。
 訳の分からぬまま、ただ脳裏に無疆の懐かしさがひらめくなかで、サラフはその広がる雲の中へ突っ込む。
 それは崖の向こうへ躍り込んだような解放だった。だがやがてぶつかる肉体の痛みが跳ね返り、サラフはそこでようやく、自分が誰かの胸元に抱き留められたのだと知った。
 少年にとっては、馬鹿に長い一瞬だった。
「……今晩は、老師ノルビル。とても、お元気で結構ですわね?」
 体中からこぼれる少年の脈を引き受けながら、ヴィオレリは、かつての同僚に向かって挑戦的に言う。
「……ヴィン顔負けだわ。六十路だっていうのに」
 状況が変化したことに気付いて、老人はきびすを返そうとした。そこをオッシアが壁のような静寂で塞ぐ。
 二人の男は無言で、数秒の間睨み合った。
「老師……」
と、壁が口を開く。
「この間、お願いしたばかりです。保護権が私に移った以上、もうサラフを追いかけ回すのはやめていただきたいと……」
「…………」
 老師はふてたような顔をした。それは楽しみを邪魔された子供のふくれっ面に驚くほどよく似ていた。
「……ああやって、サラフはおののいています。少しくらい、年相応に、憐憫の気持ちが湧いたりなさらないのですか」
 ふん、と息を吐き出すようにして苦々しく老人は笑った。
「サラフだって楽しんでおるのさ。かまととぶっとるだけだ」
「…………」
 慣れているのかオッシアは無反応だったが、ヴィオレリはきっと目線を上げる。
「ノルビル! 言うに事欠いてそんな愚劣なことを言う気? ……いい年をして、恥ずかしくないの」
「黙れ! 
 ……そうやって息を弾ませ、心臓をわななかせることが奴はたまらんのだ! だから儂は追いかけてやる。傷ついた振りをしながら、その実サラフは喜んどる。お前等にはわからん」
「……なんて下品な……!」
 彼女はサラフの頭を外套でくるんでその耳を塞ぎながら、厳しい視線で老師をにらみつけた。老人は舌打ちする。
「ふん、人並みなことを言いおって。化け物」
「老師」
 オッシアの冷静な声は、ヴィオレリに向いていた老師の視線を引き剥がすかのようだった。
「私はあなたの快楽について興味はないし、云々申し上げるつもりもありません。
 ……ただ、お願いですから分かって下さい。
もうサラフを心無く痛めつけるような真似はしないで頂きたい。サラフはあなたの楽しみのために生きているのではありません。
 私は、そんなに難しいことをあなたに要求しているでしょうか?」
 老人は頬を引きつらせ、目に有りっ丈の憎しみを込めてこの怜悧な青年を見つめた。
「自分は好きなだけ楽しんどるくせに……!」
 オッシアは反論しようとしなかった。
口を噤んでただ老人の憎悪と真っ向から向かい合っていたが、その沈黙が相手にいくばくかの余裕と数語を許した。
「ふん……、黙りおったわ。新入りが偉そうに説教垂れおって。儂のものを儂の好きにして何が悪いか!
 お前とてもともと儂等が受け入れなんだらのたれ死んでおったところ。恩を忘れておらんか、都合のいいおつむだことだの!」
 ぴくり、とオッシアの瞳が動いた。それに気付くことなく、老人はますます勢いづいて泡を飛ばす。
「自分の身分というものをよく弁えることじゃ。
 ……サラフや、お前などは、生かしてもらっておるだけありがたく思え!」



 ―― 次の瞬間、奇異なことが起こった。
変にくぐもった嫌な音と共に、突如老人の身体が横ざまに地面に崩れたのだ。
 一秒に満たぬ空白の後、ぎょっとしたヴィオレリの鼓膜に、突然の災厄に混乱した老人の叫び声が暴れた。
「――――……っがあああああぁぁ!」
 サラフがびっくりして顔を上げた。唖然とした二人の前で、老人は右の手首を左手で押さえ、足下でのたうちまわっている。
「あああ、ああああぁ!」
 何が起こったのか分からなかった。しかし、その部位をよく見てヴィオレリは絶句する。有り得ないところまで手が反り返って、振り回されるままにだらりと、まるで屍のように力が入っていないのだ。
「っ……!」
 自由になった両手で口を塞ぎ、ほとばしりそうになった悲鳴をやっとのことで抑え込んだ。サラフの方は驚きのあまりに声もない。
 ようやく理解した。オッシアがその九十五韻の迅速で、老人の右手首を遠慮も言葉もなく、一気に、苛烈に砕いたのだ。
「ううぁ、うあああぁ!」
 老人は土の上で苦しんでいた。前触れなく訪れた激痛への衝撃に白目をむいて、ほとんど前後不詳になっているようだ。脂汗の滲む顔が真っ青で、唇は痙攣してぱくぱくしていた。
「ノ、ノルビル……?」
 ヴィオレリは、あまりのことに今までのいきさつも忘れ、彼を助けようと反射的に近寄った。彼の身体はもう砂まみれだ。
 血は一滴も出ていないが、手首には赤みが集まり異様な形になりつつある。ひどく痛々しいのに触ることもならない。すっかり気が動転して、それを目の前にしても彼女はどうすればいいのか分からなかった。
 途方に暮れて目を泳がせると、ぎくりとする冷たい靴先に行き当たった。その痩せた身体を辿るように視線を上げる。
 ―― オッシアは、以前と少しも変わらぬ表情で、それは空っぽの寝床や、人気のない階段や、長い廊下を見つめる平静とまったく変わりがなかった。目の前で行われていることに、一片の感情も動かしていないのだ。
「……オッシア……」
 麻痺した唇で、無意識のうちに彼の名を呼ぶ。墓の前で故人と語らうように。
 するとその音に、彼は初めて柔らかい反応を見せ、
「はい……?」
と穏やかにゆったりと微笑んだ。





+





 結局老師は街の救護院にかつぎ込まれ翌日、書院は大騒ぎだった。どこでもかしこでも学生達は賢しい目をきらきらと光らせながらオッシアに関する初めての椿事を噂し合った。
 今まで全くの聖人君子で通っていたのだから無理もない。むしろ最後の要素、醜聞が加わって、彼は本物の有名人になった感があった。
 ところが、実際に囁かれているのは真実と微妙に違う話だった。彼等はどういうわけか、オッシアがヴィンの女性を間に挟んで、老師とやり合ったと思いこんでいたのだ。どうやら先日食堂で、二人はいささか目立ちすぎたらしかった。
 そして二日後、彼の謹慎が解けて初めての講義が終わったとき、厚顔な一人の学生が立ち上がり、
「導師。導師がある女性を護るために韻術をお使になったという噂は本当ですか」
と尋ねたときには、教室中が固唾を呑んだものだ。彼はいたって真面目に、
「本当ではありません」
と否定した。
 だが彼らは質問したかったからしたのであって、オッシアの返答には価値を与えなかった。噂は修正されることなくますます流れていったのである。
 書院側も流れるままにしていた。老師格のさらにひどい醜聞を曝すよりはまだましだと考えたのだ。
 オッシアの処分は結局、注意と名ばかりの謹慎だけに終わった。状況が状況であったし――、また深刻な問題として、韻術では誰も彼を克服出来ないという厳然たる事実もある。書院では建前的に年功序列制が採られているが、現実には無情な能力主義だ。
 そして終業後かわいそうなレナンが、眉間の周りに黒雲を漂わせて彼のもとへやってきたが、オッシアが黙っているので何も聞くことが出来なかった。
 軽はずみな彼女は噂を否定しながらほとんど丸飲みにして、非常な不安に苛まれていた。オッシアの沈黙や、もう「結構ですよ」という別れ方や、その微笑など、普段は何でもないことが今は彼女をかき乱す。
 そして三日前にここで別れてから今日までの、干渉できない過去に嫉妬を覚え、それが美しいヴィンの姿で彼女の心に根を下ろすのを感じた。
 オッシアはレナンの不安を知っていたが、まるで空気のように見透して、その他大勢の感情と同じように完全に無視した。
 礼儀正しいいつもの挨拶と共に、彼女をそのまま後ろに放って、さっさとざわめく講義室を後にする。
 レナンは慰められることもなく、棄てられた子犬のようにひどく不幸せそうだった。
 彼は、中庭に面した薬草房へ歩を進めた。講義の間、ヴィオレリにサラフを預けてあったのだ。
 平屋の薬草房は天井からつり下げられた無数の乾燥植物のせいで、不慣れなオッシアが動く度にかさかさと音が鳴った。中へ入ると書物が散らばる机にサラフが一人で腰掛けて、大人しく分厚い古書をめくっている。
「女史は?」
と尋ねると、彼は東を指さし、草園だと教えてくれた。オッシアは続く工房を横切り、開けっぱなしの扉から外をのぞく。
 草園は小さいながらも緑と生気に満ち満ちていた。太陽と緑の香りとが風と共に攻めてきて、オッシアを圧倒する。手もなく負けて子供のように顔を歪めたまま、この見事な草園の主人を捜した。
「ヴィオレリ」
 エリカの茂みに向いていた彼女は、その呼び声に振り向いた。それから、近寄ってくる青年を見て、少し引っかかりのある笑みを浮かべる。
「ああ…。講義、終わったの」
 オッシアの方はいつもの調子だった。
「エリカが薬草とは知りませんでした。どんな効用があるんですか?」
「…植物はもともとどんなものでも有韻生物には薬なのよ。この可憐さに心が柔らかくなるでしょう」
「なるほど」
 真心のない返事だった。ヴィオレリは眉を上げる。
「信じてないのね」
「いいえ、そんな。ただ、自分には必要ないと思っただけですよ」
 初対面の時より確かに距離は近くなり、噂ではもはや一緒くたにされている二人ではあったが、実際はそこに、今までなかった気詰まりな雰囲気が介在していた。
 それはどちらかに決めろと挑発する苛立ちであり、結局はヴィオレリの方が先に音を上げて、ため息と一緒にこう切り出した。
「…あのね。私ずっと考えていたのだけれど…」
「はい」
 一分の差異もなくオッシアは普通だ。ヴィオレリはたかが二十年やそこらの年齢で自分よりも静かなこの男に、憎たらしささえ覚えながら続ける。
「これはね、あなた達が社会通念と呼ぶあの不文律から言っているわけではないの。そこは誤解しないで。
 でも、あなたはやっぱり、……彼に謝罪すべきよ」
 オッシアは表情は変えなかったが首をひねった。少しだけ空を見て、また戻ってきた目は何やらのん気な程だった。
「何故です」
「……何故って」
 反対に一層深刻な面持ちになって、彼女は額に手をやる。
 思いやりに長けた、と思えていた人間を相手に、こんな問答しなくてはならないとは考えてもみなかった。
「あなたはあのご老人に重症を負わせたのよ。それはもちろん、あの人が道徳的な人間だなんて言いやしないけれど、……けれど下手をすれば彼は死んでいたかもしれないし、今だって……」
「『お裁きを』」
 ひどく不誠実な調子で、ぼそりと彼は言った。遮られたヴィオレリは慄然とする。
「まさかあなたは彼が死ねばいいとでも言う気じゃないでしょう?」
「…………」
「オッシア?」
「……何故いけないんでしょうか?
 ああもちろん、社会通念という名の空念仏がそれを禁じていることは知っています。ですが、自分としては納得していません。だから説明してもらいたいといつも思っています。……何故です」
 彼は穏やかに話した。それは奇をてらった発言をしたいという若さからではなく、本心から、疑いなくそう考えているのだと太陽に告げていた。
「私は、あのご老体に前もって何度も忠告しました。ですが彼は従わなかった。彼は何らかの罰を受けるべきですし、またそれだけのことをしました。
 でも私は手加減して、彼を殺すまではしてません。ですから死ねばいいのにと考えることくらいは許してもらいたいものですね。
 ……大体あんな未来もなく、才能もなく、価値もなく、それどころかかえって他人の害になるような人間を、排していけないのは何故なのですか。
 社会全体、なんて面倒なことを言わなくとも、書院全体の益に照らせばそちらの方が絶対に有意義でしょう。美食家の彼に食物を与え生きながらえさせるより、ひと思いに殺す方が。違いますか?」
「……論理は正しいかも知れないけれど、それを間違っていないとは絶対に言えないわ」
「何故です」
 あっさりと切り替えされると困る。いけないことは、理由もなくいけないことだ。規範とはそういうものだ。
「人を殺すことが正しいなんて……。それは……」
 それでも説明を始めようとしたが、ふいにオッシアがにこりとして、先を封じた。
「……ヴィオレリ、あなたのご親切には感謝しますが、どうか諦めてください。私は小賢しく出来ています。誰からも影響されないように、もうなっていますから」
 彼女は、笑えなかった。「親切」で言っていることではない。
「……ああ、そうなの。では、これ以上、誰が何を言っても一切無駄ということなのね」
「それに誰も何も言わない。そういうことです」
 ……確かにそうだ。彼は有害だが無力な老人の右手を打ち砕いた。もはや一生使いものにならないであろう程に。
 だが誰も彼が悪かったとは思っていない。それどころか彼は今や勇敢な恋人としても名を馳せていて、こんな事件を起こしておきながら、彼を責める者はいない。
 確かに彼は感情的になってちょっとやり過ぎただけだ。だが、その過剰が計算された冷酷なものであったことにみんな気付いていなかった。
 一礼して、薬草園から去る青年の背中を見ながら、仕方ないので震える唇を噛んで、代わりにヴィオレリは思った。
寒気の中で知った。
 あの青年は、嫌みのない慇懃さの裏側で、深く、信じられないほど深く、人間が嫌いなのだ……。




 

<< Back < top > Next >>