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永劫恋慕
- 3 -
 




 それはおかしなことだった。
相変わらず終業後に彼を取り巻く女学生達、かいがいしく側に付き従うレナン、彼を恨むに恨めず複雑な表情で遠目に見守る年長者達、その他の彼の日常を構成する人々。
 皆がヴィオレリよりも長い時間をオッシアと共有してきたに違いなく、彼も親切につきあっているというのに、その問題性に気がついた者は誰もいないようだった。あんな事件が起きた後にも。
 ヴィオレリだって偶然気付いただけのことで、目撃者でもなければ、きっと彼らと同じように、オッシアの優等に無上の信頼をおいていただろう。
 それに別段、放っていいのかも知れなかった。いざとなったら冷徹に人も殺せる心でも、とりあえず今はまともに、いやそれ以上に模範的な生活を送っている。ならば、いかなる思考を抱こうがそれは自由だ。
 ヴィオレリには正直恐怖もあった。あまりにも速やかにその男の心臓に接近しすぎたという警鐘が、彼女を不安がらせたのだ。
 だが、彼女はまた彼が、他の誰かを顔色一つ変えずに、今度は殺傷するかもしれないかと思うと、どうしても逃避できなかった。それともこれは性分なのかも知れない。彼女は人間に干渉することが好きな、風変わりなヴィンだ。
「あなたは物好きですね」
 オッシアはいっそう意地悪かった。
「一部のヴィンは人間を食物としか見ていないというのに。サラフの家族を襲ったのも『公爵』ですよ」
 ヴィオレリはそれを知らなかった。ヴィンは寿命が長い代わりに、単体の生殖能力が非常に低い。それで複数のヴィンが、同一の親を持っていることが普通である。
 またその生殖を行うことが出来る数少ないヴィンは創造主として崇められ、人間で言うところの貴族階級を形成する。彼らは傲慢で気まぐれで、その大方が美食家だ。
 「公爵」は特に人間の眼球だけを食す贅沢者で、自分以外のヴィンがその後不利益を被ろうが知ったことではない。
「……それでサラフは私に懐いてくれないのかしら」
「どうでしょうね」
 彼女が少し傷ついた様子を見せたためか、オッシアの声は心持ち緩やかになった。
「……あなたが思うよりも、ずっと彼は懐いていますよ。お分かりにならないかも知れませんが」
 これは優しさの範疇に入る言葉だ。だが社交辞令でないとは断言できない。どだい、彼に誠実さなど期待できるのだろうか? ヴィオレリには分からなかった。
 二人の会話を知らず、サラフが薬草園から部屋へ戻って来た。その褐色の手に南天の葉を持っている。
「採ってきましたね」
 オッシアはうっすらと微笑んで、黙って隣に座るサラフに説明する。
「枕の下に入れて眠りなさい。きっといい夢を見させてくれますよ」
(初めて会った日、彼は薬草学を教えてくれと言っていたような気がするが、何のことはない、オッシアはもう充分に詳しく、啓蒙の範囲は超えていた。)
 しかし、ヴィオレリはこうして一週間、二週間と二人とつきあってゆくに従って、サラフもオッシアの複雑さを見抜いていることに気がついていた。
 今も、あのレナンならば小躍りしそうな柔らかい言葉を彼から掛けられながら、特に嬉しげにはしていない。ただ、普通だ。オッシアも彼の前では物事を飾った様子があまりなかった。
 彼ら師弟は共に寡黙である。オッシアはたくさんの言葉を自在に操りながらほとんど何も話してはおらず、サラフはもともと口数が少ない。最低限の意志表示をする程度で、感情に乏しく、時には非常に大人びて見えた。そしてそれは、彼の通ってきた苦渋の道を示す悲しい習慣に違いなかった。
 サラフの惨めな人生を真剣に慮れば、オッシアでなくとも彼に優しくしたくなる。ただ彼は万人から同情されるためには少し肌が黒すぎたのである。
 ……元来人間という種は、生まれた後は生殖をしてすぐ死んでしまう身分だというのに、あれやこれやの選別にびっくりするくらいの手間をかける。その苦労に相応しい見返りもないのだから余程の酔狂である。
「夜眠れないの? いいお茶をあげましょうか」
 ヴィオレリは顎を落として微笑みかけた。しかし、目線を同じ高さにされて、サラフはむしろ追いつめられたように黙り込んでしまった。
 彼女が困っていると、
「彼は照れてるだけですよ」
と、オッシアは少年の細い肩を軽く叩く。
「多分、あなたが少し美しすぎるのでね」
 するとサラフは、恨めしげに横目でちょっと彼を睨んだ。それがオッシアの計略と知らず。
 そんな彼らの、ささやかだが血の通った様子は、ヴィオレリにいつもある男のことをぼんやりと思い出させ、柔らかい彼女は密かに、頬を焼くのだった。




 オッシアが講義のために薬草房を立ち去った後、しばらくの間二人は、お互いに無言で向き合っていた。
 それがそんなに気詰まりでないのは、もしかするとサラフがそれなりに気を許してくれているからなのかもしれない。そう思いあたると、言葉は交わさなくとも、ヴィオレリは気が楽になった。
 やがて、彼女の白い指は空になったカップをいじりながら、話始める。
「あなたに謝るのを忘れていたわ」
 サラフはさっきよりはずっと恐れなく、黒い瞳を上げてきた。落ち着いて正面から向かい合うと、彼はとても美しいまつげをしている。
「…………?」
「初めてあったとき、驚かせてしまったでしょう」
 ああ……。と少年は瞬きをした。
あの日、他に人のいない講義室の中で彼女達は、懐かしい男の、その死の話をしたのだった。
 思い出の重さに耐えきれず、ついヴィオレリは泣いてしまったのだが、あんまり前触れもなく涙がこぼれたので、サラフをびっくりさせてしまった。
「……きっと、ソマスはもっとあけっぴろげに優しかったわね。息子とか、孫みたいに」
 サラフは肯いて、色んなものを、もらいましたと言った。
「服? ……そう。あと本? ……その首飾りも? ああそうなの、素敵ね」
 ヴィオレリは両手で自分の首を包み込むようにした。
「……悪い人じゃなかったのよね。本当に、オッシアなんかに比べたら千倍も素直だったわ」
 サラフは微かにおかしげな色を瞳にひらめかす。ヴィオレリも白い歯を見せた。
「そう思うでしょう? でもこの世はそれだけじゃだめなのかしら? ……どうして、あんな……」
表現すべき言葉が見つからず、彼女は口を噤んだ。
 ソマスは、人を傷つけることなど出来ない人間だった。理想に静かに魂を焦がし、他者の代わりに自分を犠牲にし続ける優しい人間だった。
 ただ、彼の失敗はそんなに自分が強くもないのにその道を選択したことだ。優しさと精神との競り合いは悲劇的で、やはり先に彼の私が負けたのだ。
 だめなのだろうか。ヴィオレリはその短いが美しい心を愛したが、過酷な現世ではオッシアのように思いやりのない賢しさがいつも勝つのだろうか。
 そうなのだろう。多分、とても短い人生なのだから、きっと上手にやり過ごせばいいのだろう。他の無韻動物のようにただ、子孫を残しさえすれば生物としての義務は果たせるのだし。
「……サラフ」
 実際、複雑化して生物に何か幸せなどあるのだろうか。
「……あなたの家族を殺したのは、私たちの仲間だと聞いたわ」
 声を持つことによってなるほど文明は築こう。
「……もうどうしようもないことだけど、でも、許してちょうだいね……」
 が、その自惚れの結果は、せいぜい愚にもつかぬ遊びを発明して夢中になるのがいいところではないか。「公爵」然り、あの老人然り、罪もない弱者の生命を弄び……。
 ――― 赤い血でした。
ぽつり、とサラフが言った。
 その中に父と母が転がっていました。二人とも、もう話せませんでした。直前まで、……僕には手出しするなと懇願していましたけど。
 ……僕が座っていると、背の高い一人の男が言いました。小僧、お前に生き延びる機会をやろう。無事成人した暁に、私を敵と殺しに来い。楽しみに待っているぞ。こんな遊びも、悪くない。
 そして笑いながらみな行きました。残ったのは赤い血と、両親の骸だけでした。
 少年は一度言葉を切った。珍しく多弁な唇を朱の舌で少し舐める。
 ……でも僕は、それはあれが嫌いですけど、でも、それはあなたから遠い。この工房の太陽の香りや、あなたの髪の毛や、この南天からひどく遠い。まるで別の……夢の中の話に思えます。
 そんな海の中でも、僕はあなたを、憎んだりしません。あなたはとても……美しいし、彼等と違ってとても、優しいですから。
 ……あの、大丈夫ですか? とサラフが最後に言ったのは、ヴィオレリがまた瞳を潤ませていたからだ。彼女は長寿と頽廃を貪る自らの同種に、涙ぐむほどに激しい怒りを感じていた。
 こうやって弱い者は、いつも、どこにおいても蹂躙され続けるしかないのか。身体ばかりの話ではない。その無垢な精神さえ、誰かの勝手のために犠牲にならねばならないのか。
 世の中はそんな殺伐とした法則に支配されていて、突き当たりには絶望しかないのだろうか。
 納得できなかった。サラフに悪いとは思っていたが、ヴィオレリの若さは涙をこぼした。笑いながらではあったが。
「……ごめんなさいね。いつもこうなの、私……」
 少年は前とは違って、驚いてはいなかった。露が葉先から滴るのを見守るように息を詰めて、唇を噛みながら強く惹きつけられていた。
 陽は傾いて、西から部屋へ落ち、影は長く床に尾を引いている。静かに扉を開けて用事を済ませたオッシアが入ってきた。そして二人の様子を見ると、ゆっくりと皮肉めいて腕を組み、
「どうもサラフと一緒にするとあなたは泣いてしまうようですねえ」
と、眉を八の字にして穏やかに笑った。




 

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