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永劫恋慕
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オッシアが老人の手を砕いた驚愕の晩から一週間もたたないのに、夜は春へと確かに変質していた。空気には何かしらもたもたした、甘い香りが漂い、人の眠りを落ち着かない気分にさせる。 見上げる月にも霞がかかって、以前のように凍る痛みはない。ヴィオレリはその光を心地よく吸いながら、包みを持って廊下を急いでいた。 すれ違う者もなくオッシアの部屋まで辿り着くと、それでも周囲を確認した。それから音を立てないように注意深くその扉を開けて、僅かな隙間から部屋へとすべり込む。 無人であった。明かりもない研究室の中を、ヴィオレリはもう馴れてすいすいと進んだ。もっとも、きっちり整頓されているので、人間の目でもあまり苦労はなかったろう。 寝室の扉は少し開いていて、そこから弱い光が一筋廊下の模様を浮かび上がらせていた。彼女は細い指を扉にかけ、急いでいたが密やかに引く。 青年の曲がった背中が見えた。痩せた頬にぐったりと手をついて、余程彼の方が病人の風情だった。三つ又の燭台には一本だけ火がともされ、それはサラフの寝台の脇に置かれている。 「……調子はどう?」 ヴィオレリの声に、オッシアはびくっと顔を上げ、振り向いた。ひどくびっくりしたような目をしている。居眠りから覚めたみたいだった。 「ああ……。……少し落ち着いたみたいですが、熱は相変わらずで」 彼は言うと、背を反らして上体を伸ばした。骨の鳴る音がする。 「……寝てましたよ」 「私が看てるから寝てもいいのよ。あなたはどうせ……、明日も忙しいのでしょ?」 「いいえ。どうせ横になっても眠れないから、いいんです。それよりも、こんな夜にすみませんね」 「私は平気。人間とはサイクルが違うもの。それに月下熱って甘く見ると痛い目に遭うから」 ヴィオレリは傍らのテーブルに包みを下ろし、幾種類かの薬をてきぱきと取り出した。勝手を借りるわよ、とことわって一度寝室を出る。 昨晩からサラフは熱を出して寝込んでいた。毎年、春先に人間の間で流行る月下熱と呼ばれる風土病で、主に子供がかかる。一度克服すれば抗体が出来るのだが、下手をすれば死んだり後遺症が残ることもある、馬鹿にも出来ない病気だ。 台所で薬湯を用意すると、ヴィオレリはまた寝室へ戻ってきた。蝋燭の明かりが増えて、サラフがぼんやりとだが目を覚ましていた。オッシアが薬のために起こしたらしい。 暖かい薬湯を飲ませるときに触れた首筋がまだ熱い。汗をふき取って横にすると、またすぐにくたりと寝入ってしまった。 ヴィオレリも椅子を引っ張ってきて、二人は並んでベッドの傍らに座った。オッシアがため息をつく。 「……本当に、大丈夫でしょうか」 不謹慎だとは思うが、ヴィオレリは初めて目にする彼の困り果てた様子がちょっとおかしくなってしまった。 「そんなに心配することもないのよ。あなただって乗り越えた病気じゃないの」 「しかし、サラフは大陸で産まれたのかどうか不明ですし、こちらの病気に弱いかも知れませんよ」 「あ……」 的を得た、気軽に否めない意見だった。 「……そうね。……そこは考えてなかった……」 ヴィオレリは黙った。 外では風が出始めたらしかった。閉じた木戸ががたがたと揺すられる音が、サラフの微かな呻きと混じってますます彼らを気鬱にさせる。 それにしても、これは一体なんだろうという疑いがヴィオレリにはあった。隣の男のことだ。 病身の子供を寝ないで看病。これも一つの礼儀なのだろうか。そう言えないこともない。だが彼は本当に、大脳でこうやって自分と並んでいるのだろうか。 ヴィオレリの中で、別の暖かな答えがそうではない、本当はこっちだと囁いていたが、しかし人間との付き合いでたくましくなった心はそれに反し、騙されるなと冷たく諭していた。 まるでこの春の嵐のようだ。ちらりと彼女は嗤った。 葛藤が舞っている。 ――ふいに、オッシアがぎょっとしたように身体を強張らせ、寝室の入口を見た。 「……どうしたの?」 ヴィオレリの声まで跳ねる程に、その様子がとげとげしい。痩せた頬が蝋燭の光に鈍い影を刻み、その目には一片の恐怖が、――そんな感情を彼が持ち合わせていようとは――浮かんでいた。 「誰かが」 「え?」 ヴィオレリはそう言われて我に返り、注意深く耳を澄ませた。確かに扉が鳴っている。しかしそれは風のためだろうと彼女は思った。 「いや……、あれは……、……とにかく誰かですよ」 立ち上がったときには、彼は機敏ではなかったが既に冷静だった。ちょっと見てきます、と言って彼は寝室を出ていった。 ヴィオレリはその背中を、やがてはその半開きの扉を眺めながら、あの鮮やかな数瞬も、すぐに自分は忘れてしまうことだろうと考えていた。今まで関わった無数の人間達のことをもはや全ては覚えていないのと同じように。 だが、何百年も立った後、何かの拍子に、あの灰色の瞳を思い出すことがあるかも知れない。全く今とは関係のないある時間、ある場所で、この数分の出来事がびっくりするほど鮮烈に蘇ってくることがあるかもしれない。そんなことを朧気に感じていた……。 部屋の扉の前でオッシアが誰何すると、聞き慣れた彩りのない助手の声が返事した。彼は一度変な顔をすると、風に気をつけながらドアを引く。 「一体どうしたんですか。こんな時間に」 「申し訳ありません。ゴモルラから急ぎのお手紙です、導師」 「……ああ、そうですか、ありがとう」 と、オッシアはレナンの手から薄い手紙を受け取った。 「……あの子は元気になりました?」 用事は済んだが、レナンは会話を続けたがる。 「いえ、まだです。……今夜一杯は熱が続くでしょう」 「あの、もしよろしければ、私が……」 レナンは微笑んで言いかけたが、かき回された空気の中にいつか感じたことのある香りをふと嗅ぎ取って、その表情が急に、石のように硬直した。 「ああ、ありがとう。でも大丈夫です」 「……他に誰か、いらしてるんですか」 オッシアは片方の眉を少しだけ歪めた。 「ええ。薬師の方が」 暗闇の中で、彼女は下手くそに、恨みがましく笑った。 「……その方がいらっしゃるのなら私を中に入れて下さっても、導師」 彼は扉のこちら側を足で押さえ込むと、急に気色ばみ始めた弟子に、ただ静かに応じる。 「……レナン、一体なんのことですか」 だがオッシアの無感動な反応は、しばしばそうであるようにかえって彼女を取り乱させた。 「……だって、あの時はなんでもないとおっしゃったじゃありませんか。こ、こんな夜中に一緒にいても関係ないのなら私も、……私も入れて下さい……! 何も不都合はないじゃありませんか……!」 かち、かちかち、とレナンの爪が扉の側面をつま弾いた。だが彼は出入りの主導権を彼女には渡さない。そして、ますます波のない冷めた声で続けた。 「何だかお疲れのようですね、レナン。多分休息が必要なのはあなたの方だと思いますよ。 ……お勤めご苦労様でした。もうお休みなさい。そして明日も研究は行いませんから、講義の後はゆっくり休息なさるといい」 レナンの顔から血の気が引いた。それは今日はもういい、明日は研究を休む、というだけの簡潔な伝達であったが、しかし彼女はもっと多くの意味を彼の言葉に見て、衝撃を受けた。 「それでは」 力を失った彼女の前で、扉は冷たく閉められた。貧弱な唇がわなわなと震え、彼女は自分が崖っぷちに立っているように感じた。 オッシアは自分のものだったのに。自分のものだったのに! いつも講義の後には自分のところに帰ってきていたのに、どんなにかわいい少女達が彼を取り巻こうとも。 レナンは激しい競争を勝ち抜いて彼の助手になった。オッシアが彼女を選んだのは、彼女が彼に次いで優秀だったからだ。彼に会う以前の彼女は、書院で一番の地位とその誇りを持っていた。 努力と堅実の人であるレナンはその地位に相応しいだけの賞賛を勝ち得ていたし、生存に他者の力など必要なかった。 それなのに今や彼女は、オッシアだけの人間になってしまっていた。彼の輝く才能が、彼女に災いしたとしか言いようがない。オッシアの助手でなければ、一体今の彼女になんの価値があるだろう。最優秀でなければ韻術師など、その他大勢と変わりがないのだ。 レナンは美しい女ではなかったから、それだけに努力をした。そして登り詰めたと思ったら、別の男がやって来た。しかし支配されることを望んでいた彼女にはむしろその男の出現は喜びだったのだ。 彼女はさらなる努力を重ね、至極優秀な男に下り、彼に仕えることが出来て幸せだった。それが今、ただ綺麗なだけの、人間でないものがその幸福を横取りしていくのか。講義の後、生活の夜に夢魔のように忍び込んで。 一気に自信を突き崩されたレナンはだが、だからといってどうしようもなく、くらくらする足取りで時間をかけながら、惨めに閉じられた入り口の前から立ち去った。 とてもこんなことを受け入れるわけにはいかなかった。 寝室へ戻ってくると、オッシアは手紙の鑞を切った。そして揺れる灯りの間近で文面に目を充てると、短い内容だったのだろう、すぐにまた畳んでしまった。 身体を反転させながら、その様子にどことなく悲痛な様子があったので、ヴィオレリは口を開いた。 「どうしたの?」 ぱさり、と紙をテーブルに投げ出すと、オッシアは自分の椅子に戻って、やっと答えた。 「特に、どうと言うほどのことでは」 しかし、少し前屈みになって落ち着きなく手を組むと、親指をすりあわせ、付け加える。 「……幼なじみからの知らせでした。昔、私の面倒を見てくれていた司祭が、死んだのですよ」 「……ご病気?」 「傭兵に殺されたそうです。半月前からあそこは内乱に巻き込まれて、荒れてますのでね」 「……まあ……」 ヴィオレリが表情を歪めて嘆息すると、急にオッシアは顔を上げて、苛立った調子で噛みついた。 「やめてくれませんか。ヴィンにはそもそもそんな感傷がないでしょう。たかが人間が、暇な内輪もめで、たった一人死んだだけではありませんか。 前から、……うんざりするほど前からこんなことは頻繁にあったでしょう。つきあいでそんな、ヴィンが、……人並みの反応をすることはないですよ」 オッシアがここまで見境なく悪感情を露わにしたのを見たことがなかったので、ヴィオレリはその激しさにびっくりした。 「……何をそんなに怒っているの? ……サラフが起きるわよ」 「あ……」 青年は忌々しげに呻くと、組んだ手の上に額を落とした。それから自分を反省するように無防備にうなだれる。 「許して下さい。……八つ当たりでした」 ぼそりと言われたその声には、いつもとは違ってどこかしら本音の色があった。それでヴィオレリも、疑いを抱かずにただ微笑むことができる。 そして一抹の、ヴィンらしい、寛大で優しい心で彼を感じた。オッシアを、人間のか弱さの範囲で捕らえたのは、初めてだという気がした。 「気にしないで、慣れてないことでもないから」 「え?」 オッシアは顔を上げた。いつもの調子を取り返すように、ゆっくりと表情を持ち直す。 「……馴れてなくもない……?」 「ソマスもそうやって嘆くことがあったもの……」 口に迂闊な相手の前では、自分もつい色々と話してしまうものだ。ヴィオレリは、彼と知り合いになってからは初めて、面と向かってソマスの名を使った。 オッシアはそのせいか、少し驚いたような顔をしていた。顔の下半分をまだ手で覆ったまま尋ねた。 「……彼は、どういう人だったんですか。 ……私はちょうど入れ替わりのようになって、彼に会ったことがないんです。なんでも中庭の奥に庵を構えて、晩年はそこに、サラフが来るまではずっと独りで暮らしていたそうですが……」 「ええ。そうらしいわね。 ……私が彼に会ったのは、四十年程前のことで、お互い以前から書院にはいたのだけど、特に目立つ人ではなかったし、……あなたと違って薬草学にも興味はなくて、面識はなかったの。 彼はとても不幸で……、その原因は一言で言うなら、期待しすぎるの。何もかもが根本は美しく愛さずにはいられないとでも思っていたみたい。 それで、どんな対象にも自分が期待しただけの見返りを求めるので、いつも結局は無残な裏切り。そしてお腹の空いた子供みたいな目をしてた。 初めて会ったときにも、彼があんまり寂しげな顔をしていたから……つい、情が移ったのよ」 「……まるで私と正反対な人ですね。……そしてあなたも、彼の期待には応えられなかったんですか」 ヴィオレリは首を動かして、オッシアを見た。彼は真面目な面持ちだ。それで心が騒いでいたが答えた。 「……そうね。白黒で言うなら結局はそう。諸々の恋愛がそう終わるように、ついにはとても一緒にいられなくて別れたけど……。 最後には絶望を選んで、人にも会わず孤独のうちに死んだなんて聞かされると、さすがに胸が痛むわね」 「初めて会った時、泣いたのはそのせいですか」 「いやだ、思い出さないでよ」 ヴィオレリは苦笑し、軽く彼の肩を叩く真似をした。つられてオッシアも少し笑う。 「……サラフにね、彼の最後の言葉を聞いたのよ。そうしたら、……もう何も言わなかったんですって。 黙ったまま、自分以外の人間に何の言葉もかけずに逝ったんですって。その報われなさがあんまりかわいそうで……、ついね」 じりじり……。と蝋燭が焦げる音がした。二人は黙って、それぞれに自分の前にくねるサラフのシーツを見ていた。 『何か言っていなかった?』 『何も』 『……何も?』 『何も』 ……まあこの年では、言葉や物事を飾ることなど出来なかっただろう。仕方がない。 そのサラフが呻いたので、オッシアは右手を伸ばし、少年の額を大人の掌で包み込んだ。日だまりのような暖かみ。自分の手がいかに冷たいか思い知り、彼は目を細める。 「サラフが、前に……」 「え?」 「ソマス老師が話してくれたという話を、私に聞かせてくれたことがありますよ。……サラフの故郷についての話です……」 オッシアは優しく少年の額をなぜながら、せまい唇の間から、低い、労るような声を出した。 ……それは、きっと燃える大地だ。お前の肌は太陽に愛されたように黒いから。 そして決して豊かな土地ではないだろう、私たちはお前の仲間を、あまり見かけないから。彼らは自分たちの土地を耕すのに忙しくて、戦争などできないのだ。 それでも、お前は生まれたのだから、そこには多くの人々の智恵と暖かみがあったに違いない。 ……そして、祝福されながら育っただろう。お前の瞳はいじけていないから。まっすぐに本当だけを見る力があるから。 今、お前が見ているこの社会では、しばしば悲しく実りの少ないことが起こっている。けれど目の前の人々を徒に蔑したり、憎むのはおよし。 お前には私とは違って、東に熟まし故郷があり、いつか大きくなったときには還っていくのだから。 そこにいればもうお前は、人を憎まなくてもいいんだから。全ての人がお前を受け入れ、お前も全てを受け入れられる場所が、あの空の彼方にあるのだから……。 ヴィオレリは、食いしばるようにゆっくりと目を閉じた。そして唇では苦しく笑った。 ――― ああ。なぜだか笑ってしまう。 変わることなく、本当にあのまま彼は死んだのだ。懐かしい優しさだった。盲目の愚かしい優しさだった。 けれど彼は、現実に妥協しないで墓場まで性善説を持っていったのだ。頑固だったのか、臆病だったのか、どちらにせよ最後までソマスその人だったのだ。 彼の死の沈黙に責められていたヴィオレリは、オッシアの口を通して伝えられた彼のこの幾連かの韻律に救われた。ほっと、心の負荷が減じたのが分かる。 そして決してこちらに顔を向けようとしないオッシアの礼儀に、首を傾げて感謝した。肩にヴィオレリの額が触れても、彼は全く無視している。 こんなに優しいところもあるのだ。と彼女は思う。老人の手首を一言も告げずへし折った彼。寝ないでサラフの心配をする彼。死者の言葉を継いで自分を慰めてくれた彼。 ヴィオレリは瞼をきつく閉じた。 もうだめだ。愚かなソマスのように、私は彼の良心を、思いやりを信じてしまう。これが演技でも習慣でも、実際として彼は自分を慰めてくれたのだから。この上彼をさらに疑っていくことなどできはしない……。 しばらくたった後、掠れた声でありがとうと言って、ヴィオレリは額を離した。オッシアは相変わらず無反応だった。 それから二人はずっと言葉少なで、だがなにかしらお互いに居心地のいい友人同士の沈黙の中で、やがて差し込む朝日がこぼれてくるまで過ごしたのだった。 サラフの黒い頭がようやく寝台から離れた頃、取って代わるように今度は書院の中がざわめき始めた。毎年恒例の行事、月下祭が近づいたのだ。 これは大陸中に広く見られる民間行事で、来る春の豊穣を感謝し長い冬の明けを祝うという内容だが、最終的にはどんな祭りもその通り、酒が出回って収拾がつかなくなる。 故に月下祭は学生達の格好の鬱憤晴らしであり、恋人探しの場であり、年に一度の無礼講でもある。だから彼らは退屈な授業の間そわそわと身を揺らしながら、あと十日、あと九日と心の中で指折り数えているわけである。 そんなある日、心なしか落ち着きのない授業を終えて、レナンと共に講義室を離れようとしたところを、オッシアは通りすがりの院長に呼び止められた。講義棟でその黒い院長帽を見かけることは珍しいので、彼は頭を下げながら、おかしなところでお会いしますね、と微笑む。 「うー、あー。うん!……」 すると老院長はしきりに咳払いをして、皺顔にばつが悪そうな困惑を浮かべた。 「まあ、の。……ときに君は、月下祭に参加しないのかね。管理委員にそう言ったそうだが」 「はい。私は騒がしいことがあまり好きではありませんし、ちょっと体調が優れませんので」 「……ふむ。そうかね」 院長は大いに納得した様子もなかった。あらかじめそれくらいは知っていたのだろう。下唇を突き出すようにして続ける。 「しかしね。君はまだ一年目で分からぬかもしれんが、月下祭は大勢で親交をあたためる、非常に稀少で貴重な機会だし……。 多少面倒でも出ていって面識を広げておったほうが後々有利だよ。君のような新参者はできるだけ参加すべきだと思うが……」 「はあ……」 オッシアはこのような時には、相手の気が済むまで話させることにしていた。適当に相づちを打ち、半分は聞き流していたが、院長が次のように昔話を始めるに至って注意が舞い戻った。 「儂が若い頃ある男がおってな、彼は君と同じくらいの年だというのに人付き合いが下手で、周りの人間とは一切手を切っておった。 それでたった一人、彼の相手になった恋人の女性にのめり込んでな、とうとう月下祭も放りだしおった。 しかし、そのせいで、相手の女性がいなくなってから、その男は本当に孤独になってしまってね。恐らく非常に後悔していたと思うよ。 交友を広げるには努力が必要だ、導師。……美しいものへの恋慕もいいが、おろそかにしてはならぬものもあるのだよ」 院長はようやく黙った。この老人が自分の老後の孤独を心配してくれているとは思えない。そうではなくて彼は、今は年を取ったが四十年前には情熱的な若者であった彼は、手を出すなと言っているのだ。 「ご忠告ありがとうございます」 オッシアは微笑んだ。 「しかし院長。なにやら面はゆい限りですが、院長のご懸念なさっているようなことは……、現実に存在しないと、申し上げて良いかと存じます。 確かにお耳にいろいろの噂が入ったかも知れません。それは皆、誤解を招いた私の迂闊さに責任がございます。しかし、それよりも院長ご自身が身をもってそれに相反する事実をご存じでありましょう。 女史が以前の恋人のことをもはやすっかり忘れ果て、若いだけの人間に心を奪われるなどということが、もしかしたらあり得るなどと、よもやお考えではございませんね?」 それは微妙な皮肉を含んだ台詞だったが、院長はただ否定の言葉を彼から引きだして満足したらしい、老いらくの熱病をからかう冷たい棘に気付かなかった。 「そうかね。では、……では君、やはり月下祭へ出給え。 そうすれば噂に対してもでたらめだと胸が張れることになるのだよ」 なんとしても、彼を騒ぎの中へ引き出しておかないと気が済まないと見えた。いざ祭りが始まってしまえば、誰がどこにいるかなど誰も把握できないというのが実状だろうに、院長はこだわる。 オッシアは正直月下祭など、遠くに聞くのも嫌だったのだが、ここで話をこじらせるわけにいかなくなって仕方なく、出席を約束した。 しつこい院長と別れた後、気のせいか先程よりも足下の軽いレナンが、くすくすと笑いながら、 「院長先生ったらなにを心配しておいでなのかしら、おかしいこと。問題なんて何もありませんのにね」 と言った。オッシアは少しだけ、レナンを見る。 彼女は、ここ数日気味悪いほどに陽気だった。全てに楽天的で幸せそうで、――― それが彼女の選択した道だったのだ。既にあの晩の出来事は、彼女の中で何かの些細な行き違いとして処理されていた。 それはなにもかもで、レナンは匂いを嗅いだような気がしたが、あの風だ。ただ気のせいだったのかも知れない。オッシアが冷たかったなんて、それはきっとお気の毒に疲れていたからだ。ましてや二人の間に何かがあるなんて、ただの噂に過ぎないし彼は否定している。 レナンは、より失うものの少ない認識を選んでいたのだ。見たくないものに疑問符を付け曖昧に濁し、やがては切り捨てる。 少し目をつぶっていればいいだけのことだ。 そうすれば彼女は、以前と同じようにオッシアが自分を一番近しい女と見てくれているはずだと、そういう甘い期待に立ち返ってゆくことが出来たのだった。 事実オッシアが手厳しく、彼女を嫌うそぶりを見せたことはない。彼はあくまでも丁寧でいつも彼女に感謝の言葉を絶やさず、淑女として扱っていた。その態度をレナンは優しさと見たのだ。 そして今や、 「女史は月下祭には参加なさいませんの?」 こんな台詞の吐ける余裕すらあった。だがそれは傲慢で、醜悪な寛大だった。オッシアは見えない奥歯を少し鳴らす。 「……レナン、ヴィンは祭りに招かれないのです。ご存じないのですか?」 「まあ、知りませんでした。どうしてですか?」 「……事故の危険性があるからですよ」 「それは一部のヴィンでしょう。女史みたいにきちんとした方が……」 ずっとこの不愉快を後ろに引きずって歩かなくてはならないのか。オッシアは少し歩調を上げたが、やくたいもない。くすんだ歯並びは追いかけてくる。 彼女は自分の無神経な陽気さが、彼を傷つけているとも知らず、延々と長い廊下をますます先へと延ばし続けた。 |