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永劫恋慕
- 5 -
 




 落ちるほどに熟れた満月が重たげに昇る春の宵、月下祭は始まった。さんざめく人々の狂乱の声が、遠くオッシアの立つ東棟の二階まで壁をはい上がってくる。西棟は焚かれた炎に照り映えて、見たこともない悪魔の姿をしていた。
 そもそも出たくて出たわけではないから、彼は早々に宴から退散してきた。
―――― 祭りはいけないのだ。
 赤が多すぎる。まわる葡萄酒、熱い炎、血走った目……。本当に、祭りはいけない。自分が藁屑のたやすさで、燃えてゆくようだ。
 愚かしい大きな蟻達は今、歌ったり、踊ったり大声で叫んだりしている。もう少し経てばやがて、もっと醜悪なことを遁走した意識で犯し始めるだろう。
 それからてんでに刃物を持ちだして、誰か独りの頭に振り下ろすまで、すぐだ。今日の祭の生け贄は誰だ。血みどろに磔て祝祭を仕上げよう。
 聞け。あの男女達の度を超したはしゃぎ声は、戦場の阿鼻叫喚にぞっとするほど似ているではないか。
 進歩には莫大な時間と費用が必要なのに、先祖帰りにはものの一分も必要としない。情けない話だ。愚かな、唾棄すべき人喰いの本性をさらけ出し合いながら、一体あの人間達は何を喜んでいるのだろう。
 オッシアは毒々しく、皮肉に笑った。
 これが、これが世に最高峰と名高い、賢人書院の真の姿だ。ここでも世界を支配するものは結局、人間の下劣さに過ぎない。哀れな、惨めたらしい喜劇だことだ……。
 オッシアは部屋に戻った。サラフは既に寝入っているが、大人の眠る時間ではない。
 それで書斎に入ると、胸元に飾られた月桂樹の葉飾りをむしり取り、石の焦げ付く暖炉へ投げ込んだ。それから蝋燭へ明かりをともし、机に向かう。
 半時間ほど書き物に費やした。祭りのざわめきはほとんど洩れてこず、彼は平安でいられた。
 ところが突然、ノックもなしに扉が開いたので、オッシアは風に流れそうになる紙を左手で押さえながら驚いて顔を上げた。
 見たことのない相手が扉を後ろ手に閉めた。何やら派手派手しい衣服が乏しい灯りの下に見て取れたが、どこか着崩れしたような感じで、恐らく大きさがしっくりしていないのだろう。
 目を凝らして、ようやくレナンと知れた。唖然として口が開くと共に、オッシアは、一瞬にして彼女が何をしにきたのか本能で理解して、椅子を蹴った。
「導師。逃げないで下さい」
 レナンが敏感に歩を進めた。下手なやり方で、盛んに振りかけられた香水がオッシアの鼻をつんざく。どっとばかり冷や汗が出た。
「どうか私を安心させて下さい」
「……安心?」
「導師がはっきりして下さらないから、私とても不安なんです。
 もちろんあなたを信じていますわ。けれど私もただの愚かな女なんです。月並みな表現の徴を嬉しがったりもしますわ。……ご存じなかったでしょう?」
「…………」
 言葉の足を取ってやりこめる程、オッシアには余裕がなかった。彼は取り乱していたのだ。交際が始まって以来初めての、狼狽の吐露だったが、彼女はそれを正しく理解する筋道を初手から放棄していた。
 ぼやけた認識の上から、彼女は新たな事実を重ねて過程の疑問符をうち消そうとしていたのだ。結果だけを欲していて、自分が安心できるのならばオッシアの心の真実や安寧など眼中になかった。
 食べに来たのだ。この女は自分を、ただ貪りに来たのだ。斧を手に、平和な家庭の扉を叩く死に神のように、教会で神父を八つ裂きにする傭兵のように、ただ略奪のみを目的に、砂糖菓子の甘みで自分だけはくるんで、こうやって恥知らずに、他人の領域に踏み込んできたのだ。
「レナン……。お願いです」
 それは本心からの嘆願だった。今度こそ自分が何をするか分からない。目の前が朱に染まるとき、彼は自分を制御することが出来なくなるのだ。手が震えた。
「私を外へ出して下さい」
 机を挟んで後ずさりをしながら、オッシアはもつれる舌で言った。が、レナンには届かないらしかった。対話を拒否するどろりとした目つきで、尚も近寄ってくる。
「黙ってここから出して下さい……!」
 オッシアの足がついに床を駆けた。扉に抜ける一瞬前に、戦慄させる重みでレナンは彼の長衣に追いすがった。振り向くと彼女は夢から覚めて、鬼神の顔をしていた。
「導師……!」
微笑もうとする。
 慎みを欠いた不格好な媚態。酒精に上気した目。そして他人をも引きずり込もうとする、汗ばんだ魂の寄りかかり。
 皮肉なことに、彼女は彼が憎む祭りの愚かしさを一分の狂いもなく完璧に体現していた。彼にはもはや、後ろから狂乱の記憶に追いすがられているとしか認識できなかった。
 左肩に貼りつく彼女の手を振り払おうと、オッシアは夢中で闘った。その揉み合いは息詰まるような沈黙のうちに激しくなっていったが、終いにオッシアの喉から、今まで出したことのないような怒鳴り声と、大きな力が出た。
「……いい加減にしろっ……!!」
 どん、と寝床から人が落ちるように、レナンの重みが床に叩きつけられた。今度こそ間違いなくレナンの幻想は破れたが、彼女のその後を見取るいとまもなく、オッシアの白い長衣は扉を破り、部屋から立ち去った。





 韻術は全くの素人なので心配だったのだが、数日前に張った封印律はとりあえず有効だったようだ。よかった、とヴィオレリは呟いて、窓辺に立つ。
 目の前には黒々とした森しか見えないが、少し目を上げると西の空が燃える様がここまで届いていた。音はもっとはっきりと聞こえる。どうやら舞踏が始まったらしかった。
 彼女は少しだけ唇を曲げ、古びた硝子に背を向ける。今は亡きこの部屋の持ち主のことに考えが及んだのだ。
―――― 祭りになんか出たくない。
 どうして?
―――― あんな浮ついた酒の勢いをかりた交遊は嫌だ。本当は好きでもない人間と酔ったときだけ仲良くするなんて、偽物だ……
 ため息が出る。つくづく、無い物ねだりをする男だった。欲張りのなれの果てがこのあばら屋か……。
 火にかけておいたやかんが沸いたので、ヴィオレリは工房から持ち込んだ茶を入れた。ソマスの好きだった葉だ。異国風の甘い香りがする。
 きしむ机について、ぼんやりとした。ここ数年忙しくしていたので、彼女は少し、立ち止まって考えたくなったのだ。
 以前は考えることが辛かったので、敢えて振り切るように生きてきたのだが、ようやく心映えも落ち着いて、こんなふうに痛みの中心に居座って茶など飲むことが出来る。
 時の流れはありがたい。ヴィンにもそういう感情はある。ただ人間社会で暮らすに至って、身に染みる回数が増えた。
 立ち上る湯気のように、何もかもがこうやっていつしかは雲散していく。ソマスは既に、やがて院長も、あのノルビルも、……今は鋭く若いオッシアさえも……。
「…………」
 その時ふと、瞬きほどの変化を感じて振り向くと、部屋の入り口にそのオッシアが立っていた。びっくりする暇もないくらいの唐突さだった。
「……どうしたの?」
と、聞いたのは、いくら気を抜いていたからとはいえ、彼の所作が異様に静かだったからだ。全く感知できなかった。
「まるで死人みたいよ。……気配が見えなかった。
 それにこんなところにいていいの? 今夜は月下祭でしょう」
 オッシアは黙って、ややなげやりな微笑を見せる。薄暗いところに立っているせいなのか、とても顔色が悪かった。
「あなたこそ、こんな廃屋で何をなさっているんです」
 押し込むような物言いだった。ヴィオレリは無意識のうちに、背筋を正す。
「……私は、祭りに参加できないから、ここで音楽だけ聴いているのよ」
 ちらりと、白い歯が見えた。
「なるほど、一人で思い出と踊っておいでなわけだ」
横っ面でもひっぱたくように答える。
「……正しくても、言ってはならない言葉もあるわよ」
 オッシアは謝らなかった。ただ、ゆっくりと、板の上を歩んできた。その姿がヴィオレリにはぶれる。彼は、苦しげな彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「いい匂いですね」
急須の蓋を開けて、オッシアはもう一度言う。
「太陽の匂いだ……」
「飲む?」
「いえ。いりません」
 彼は陶器で出来た蓋を戻し、肘をついて指を組み合わせた上に顎をつけた。それからようやく、ヴィオレリを納得させるようなことを話し始めた。
「レナンから逃げてきましたよ」
 ヴィオレリは、気の毒ながら苦笑する他なかった。
「かわいそうに……」
「…………」
「彼女、あなたが好きなのよ。感じるでしょ?」
 砂色の眉だけが微妙に動いた。軽蔑するような調子になる。
「……彼女はただ、喜んでいるだけです。私が社交辞令で見せる存在し得ない人間の姿を、好きなだけ期待し当然のように搾取する」
「…………」
「……私でなくとも、ただ神様が欲しいのです、彼女は。頭を垂れる対象が欲しいだけで、……会った初めからそんな、すがりつくような目をしていました」
 眉をそんなに歪めて嫌悪するくらいなら、初めからそんな期待をさせなければいいのに。ヴィオレリは思わずレナンを弁護するようなことを言った。
「あなたを一目見て神と思ったんじゃないの? 一目惚れという言葉もあるのよ」
すると彼はそんな言い回しを、重い刃で切り捨てる。
「そんなものは有り得ない…………」
「……有り得ない、ね」
 ヴィオレリはため息をついた。彼は、依然として冷え冷えとした酷な部分を維持し続けていて、頑強な修辞の城壁でもって異論を寄せ付けないのだ。
「不合理だと思わないの?」
「はい?」
「そうやって、……人間を普通に愛することを過剰に拒むことを。だってあなたはこういう場面では、驚くほど感情的よ」
 オッシアは顔を泳がすようにして笑った。若い彼は、理解されたことが殊の外くすぐったいようだった。
「その通りだと思います」
「どうしてそんなに、人を嫌うの」
「…………」
「何の理由もないの?」
 オッシアは指をすりあわせ、窓へ目をやった。そうしてかなり長い間、黙っていた。
 音楽が、耳の殻から入って頭へ回る。ぐるぐる巡るむせる葡萄酒、盛る火の粉、開かれた喉元。
 ……多すぎる。赤が流れる。祭りは嫌いだ、赤が回る。
 低い、暗い調子で、オッシアは言った。
「……赤い血だから、もうこれ以上何もするなと父が言ったのですよ」
「え?」
 ヴィオレリは目をしばたいた。
「……誰の父親が?」
「私のです」
 サラフのではないの……。彼女は言葉を飲み込んだ。凍り付いた横顔は続ける。目は記憶を彷徨っていた。
「けれど彼らはやめませんでした。
 ……あそこまでやる必要が何かあったのでしょうか。たとえ、彼らの言うとおりに父が悪魔と通じていたのだとしても」
「何の……話?」
「飢餓に苛立った田舎町で、殴り殺された愚かな男の話です。その存在が、目立ちすぎたんですよ」
「…………」
「だから私は、人間の良心に信をおくわけにはいかないんです。父は愚かしくも死の間際まで、彼らの目覚めを待っていましたが、私は同じ轍を踏むわけにはいかないんです。親子二代で馬鹿を繰り返すなんて冗談にもならないじゃありませんか?
 ……私を育ててくれた神父は忍耐強く、再三私の思考を叱ってくれましたが、お終いの頃にはもうほとんど諦めかけていたようです。
 彼は友人の死を止められなかった負い目を引きずっていましたよ。彼のせいではなかったのですが……。
 ……そういう、私を取り巻いていた愚かで優しい人達は、皆死んでいきました。だから私は、ますます学んだんです、結局人の本質はそういうものだと」
 オッシアは首を戻し、瞼を閉じた。
「……正直、あなた方がうらやましい。あなた方なら、人の愚かさを寛大に、許せます。
 ……もしも人間でなかったら、人の浅ましさにここまで、悩みはしなかったでしょう……」
 音楽が聞こえなくなった。夜は本当に静粛になった。
 ヴィオレリは、糸がするりとほどけるように、入り組んだオッシアの魂を少しばかりかじったように思った。
 彼は、つまり人間に理解などしてもらわなくてもいいのだ。誠実で社会的な建前を構築し、その裏で彼の昔の悲しみや、父の記憶――――彼にとって宝に違いない、諸々の柔らかな子供らしい本心を、誰にも許さないで、防衛しているのだ。
 悲しい子供は……、ヴィオレリは口元を覆った。そうか、サラフばかりではないのだ……。
「……どうして私に喋ったの」
 長い躊躇を見ていたので、ヴィオレリはそう尋ねずにはいられなかった。
 瞼が開かれて、灰色の瞳が姿を見せる。今までになく深い微笑みで、彼は口を開いた。
「あなたとは御縁があるようだから……」
と、ふいに顔を赤くなった顔を伏せた。
「……あなたには、少し正しく理解してもらいたくなったんですよ」
「……そ、そう…………」
 顎から掌を動かして赤みをごまかそうとする彼の仕草を見ていたら、この青年ももしかしたら、ソマスに負けず劣らずか弱い人間なのかも知れないと思った。それで笑いが浮かんだ。
「……何です」
「え? いいえ……」
「どうして笑うんですか」
 額を押さえたヴィオレリの細い指の隙間から、笑う紅の唇が見えた。
「……気にしないで、あなたのことを化け物みたいに考えていた昔の自分がおかしくなっただけよ」




 夜はもう大分経っていた。オッシアは自室へどうも帰れそうにないのでここで一晩過ごすつもりだった。
「では私は帰るわ」
 外套を羽織り、立ち上がった彼女を送るために、オッシアは軋む扉まで一緒に進んだ。敷居のところでヴィオレリが思い切りよく振り向く。
「……あなたとは縁があるみたいだから」
「え?」
「出来ればこれからも良好な関係でいたいわ。だから、お願いだから慇懃無礼な嘘をつかないでね」
「…………」
「……私は知っての通り粗忽者だから、どこまでもあなたのことを信じてしまうかもしれない。知らぬ間に騙されるのは嫌なの。約束して」
 オッシアは苦笑して、唇を少し開いた。
「……多分、大丈夫ですよ」
「だから約束してよ」
「……分かりました」
 扉に寄りかかっていた彼は体を起こし、頑固な彼女に向かって右手を上げると、やや冗談めかして始める。
「えーと、……今までもそうであったように」
ヴィオレリが吹き出した。
「嘘ばっかり」
「……本当ですよ。これからも未来に渡り……あなたに対しては嘘を、決してつかないことをここに約束します」
「……いいわ。ありがと……」
 ――― ふっと、灰色の瞳が落ちて、二人の視線が絡まった。そして、言葉が死んでしまった。
 オッシアは、こんなふうに彼女の瞳をのぞき込むことをずっと避けてきた。一番初めにうっかり見つめてしまってから、ずっとだ。
 菫色、丸い彩りの中心には彼を呆然とさせる誘惑があり、真っ向から立ち向かったら、道を失ってしまうだろうから。
 もっと注意深く、騙されてはいないのかと壁を叩きながら進まねばならないのに。けれど、小賢しい人間の知恵一切が、うわべと共に一気に流されていってしまう。胸ばかりが不条理に熱くなってきた。
 そして自分の灰色の、この力のない目には、同様に彼女を魅了する何ものもないのだ、と考え始めたとき、ヴィオレリの瞼が閉じられた。
 唇が触れ合うだけの、軽い口づけだった。オッシアは相手の、さらに自分の皮膚の柔らかさに覚えためまいに、かき回されるように身体を離す。
「……これでは、まるきり欲望ね」
 しばらく後に、そう言われて初めて、彼は彼女の言葉の中に微かな悲しみを感じ取り、意外な気がした。
「ヴィオレリ」
「おやすみ」
 彼女は何の言葉も聞きたくなかった。短く挨拶して、森の夜に外套の白を翻す。
 自己弁護も、彼女への慰めも遂げられなかった青年は、半ば呆然としたまま去ってゆく彼女を見ていた。
 修辞を根こそぎはぎ取られて、まるでヴィオレリに素っ裸に剥かれた気がした。そう思うとひどく恥ずかしくなり、まるで恨むような気持ちでやがて、彼女の消えていった黒い闇の塊をじっと見つめる。
 ヴィオレリの瞳の難解が網膜に焼き付いて、オッシアはその晩容易に寝付けなかった。




 

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