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永劫恋慕
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忌々しい月下祭の晩は終わったが、オッシアの頭の中の霞は晴れなかった。もちろん仕事は間違いなく片づけたし、他人に気取られるほどのことではなかったが、彼には制御できない種の悩みが自らの中に存在するだけでもはや、軽い戸惑いだった。 一つ救いだったのは、かしましいレナンの姿がその日は見あたらないことだ。もともと彼は義務だから人をおいているので、別段非常な要求を感じていたわけではない。例の事件もあったので、彼女がいなくて正直、心安らかだった。 用事が済んだ後、彼は逡巡しながらもサラフを伴って薬草房へ足を運んだ。すると、冷淡に迎えるかと思えていたヴィオレリの額も一様に楽しい風情でなかった。オッシアにとっては、安堵するような苦しいような反応だ。 「……気分を害していらっしゃるのなら謝りますよ」 草園で植え込みに鼻を向け、まともに顔も見せない彼女に向かって、オッシアは言った。 「でも、どうも悪いことをしたという気がしないのですが、自惚れなのでしょうか」 彼女が手にしているはさみに気を使いながらそう続ける。 「別に、あなたに謝ってもらう義理はないわ。あれは、……お互いに酒に酔ったようなものだもの」 その物言いは、オッシアの気に入らなかった。生真面目な態度を、曲解されたような気がする。 ……確かに「酔い」に近い要素はあったかもしれないが、それを肯んずることは感情が許さなかった。 「……私は素面でした」 「そのつもりでなくてもやっぱり酔っていたわ。思い出や感傷に」 オッシアは背を反らすようにして、サラフが部屋の中で大人しく書物に夢中になっているのを確認すると、やや強い調子で責めるように言う。 「どうしてもあなたはあれを気の迷いや、劣情のせいにしたいのですか。……あなたがもしそうであったのだとしても、私の行為までそうだったというのはやめてください」 自らを御しがたくなってきたので、一旦言葉を切り、息を吸う。それが、そんなつもりはなかったが、まんまため息になって口から滑り出した。 「……あなたは、そんな逃げを打つような、……そんな方ではないと思っていましたが」 「…………だって、速すぎるんだもの」 そう答えたヴィオレリの声は突然に低かった。オッシアはつんのめるように勢いを削がれる。 「……?」 だが、彼女は容易に先を言おうとしなかった。彼にはまるで、彼女の体の中に悩ましく波打つ血潮が、見えるような気がした。 「……人との恋愛に失敗したのは、つい……この間よ。 私には、その踏ん切りがまだついていないわ。どうして二人とも不幸になってしまったのか……、ずっと考えている最中なの」 彼女は、震え始めた唇を手で覆った。 「……だから、お願いだから、欲望のせいにしておいて。……みすみす失敗を繰り返すなんて、いくらなんでもそんなこと、……だめだもの」 オッシアは、ようやく彼女に家の中に入れてもらった気がした。苛立つような怒りが血管に流れていく。 「……あなたは迷っているのですか」 オッシアは呻くように言う。 「……ええ」 「それは……、……ほんの少しばかりでも、私を愛して下すっているからですね」 ヴィオレリは黙った。 オッシアは罠に掛かった獣のように、上体をぴくりと反らす。それから、信じられない、といったふうに首を振った。 「……私は動揺しているようです」 そう言った彼は、実際額に汗をかいていた。 「……言葉がでてきません」 こんな状況だったが、高ぶった神経は笑いを押しとどめることが出来なかった。けれども頬が動いた弾みに、目にたまっていた涙がこぼれてきたので、ヴィオレリは慌てて下を向き、俯いたままくつくつと笑う。 「…………」 オッシアは怒ったような、真っ赤な顔をして耳たぶを掻いていた。 この男は、いつもは苦もなく一時間でも二時間でもぺらぺら講義を行うくせに、こと愛情のこととなるとこんなにひどい失語症だ。結局「感動」するなどという言葉は彼の中では息をしていないのだ。 そして彼女はその不完全さを愛しく思った。オッシアという男はこういう回りくどい罠を用意して、自分を惹きつけるのだ。なんて質が悪いのだろう。 オッシアの細い手が、はさみもろとも、彼女の右手を静かに握りしめた。弱いヴィオレリは術もなく自らに負けて、身体の強張りを解いてしまう。 はさみを間に挟んで、彼女は額をオッシアの白い肩につけた。そうしたら一瞬にして、彼女は数十年間彼女を苦しめ続けていた問いの切実を忘れてしまった。 むしろそれが、幸せなことだという考えまで浮かぶ。自らの不甲斐なさを許し、胸に熱く脈打つ無分別に甘んじた方が、きっと自分は幸せになれると思えたのだ。 事実彼等は幸福だった。暖かい陽の下に、暖かい自分の体と恋人の体があって、その熱の名は間違いなく幸福だった。 ―― そうやって、黙って寄り添う二人は気がつかなかったのだが、その時サラフが、分厚い文字の羅列に飽いて席を立ち、草園へ通じる戸口のところへ動いた。 そして少年は眠るように依り掛かり合う彼等の姿に、吸い込まれるように虜になったが、何が起こっているのか、まだしかとした像を結ばなかった。 だが奥深い、漆黒の瞳のまろい表層で、やがて二人の唇が触れ合うとその瞬間、鋭利な刃物でばっさりと頭から切り下げられたような痛みが肋骨に走った。 全身が石のように硬くなり、世界にはまるで目の前の二人以外には存在しないかのような錯覚を起こす。 サラフは続いて土の上に落ちるはさみを見た。美しい、母のような指がオッシアの首に絡まるのを、鑞の流れるようなゆっくりした流れで、再び彼女の額が今度はより密に、オッシアの胸へ戻るのを。そして終いに、その半開きのほろ酔いの瞳が少しさまよったかと思うとはっ、と開いて自分を確かめたのを見た。 「……あっ」 夢から覚めたヴィオレリの、照れくさそうな声が漏れるのとほぼ同時に、サラフは戸口から駆け出した。その際何かを蹴飛ばして、物音が鳴ったのでオッシアもびっくりして振り向く。 既に少年の姿はなかったが、乱暴に扉を開いて走ってゆく足音が聞き取れた。 「……あらら……」 顎を心持ち上げるようにしてオッシアは呟いた。追おうかと思ったが、……昼間だ。大丈夫だろう。 「いやだ、気がつかなかったわ……」 ヴィオレリは頬に片手をあてて、恥ずかしげに苦笑した……。 サラフは中庭へ入り、がむしゃらに走った。柔らかい新芽に潤い始めた地面を踏みしめ、何かから逃げ出そうとするかのように遮二無二両足を動かした。 息が切れる頃、ようやく彼の場所へ着く。彼は衣服に構わず、土へ闘いでも挑むように倒れ込むと、しばらく苦しい呼吸に任せてひ弱な身体を上下させていた。 やがて、土の冷たさが服を濡らして、熱い身体を次第に、否応なく落ち着かせる。置いてきぼりにあった少年は首飾りを胸元から仕方なくたぐり寄せると、その蓋をぱちりと開いた。 中には精巧な、美しい色使いで描かれた、女性の小さな肖像画が入っていた。それは菫色の瞳をしていて、今の姿と本当に、一分も違わず、……「彼女」だった。 サラフの心の中で煮え立つ嫉妬が、下からはい昇るように悲しみに変わっていった。彼はこんな深い苦痛をどうとも表現できず、考えるより先に、二滴三滴と大きな涙が瞳からこぼれだした。 「…………っ」 歯を食いしばる。 蓋の内側に書かれ、幾度となく目を通した亡き男の数行が、生暖かくかすんだ。彼は今日初めてその言葉の本当の意味を、悲痛な奥歯で噛みしめたのだった。 それは美しい言葉で始まり、厳しい韻で終わる短い詩で、遠い昔、震える若者の手で書き込まれたものだ。 『……咲く野辺の花、かぐわしい香りの春の風よ。 今年もお前はやって来た。だが。 世界を呑むその傲慢よ、独りも逃さぬその非情さよ。 私はお前が嫌いだ。 すべからく美しいもの、 むせかえる香りを放つものよ。汝、愛よ。』 堪えきれず、サラフは土を叩いた。 「っう……!」 『――――私はお前が嫌いだ!』 その夕刻、食事を終えたオッシアは薬草房の、以前まではサラフの座っていた椅子につくと、 「結局あれから口もきいてくれないのです。困ったものだ」 と、両手を組んだ。 ヴィオレリは夕餉も摂らず、自分の薬造りに励んでいた。本来ヴィンは、人に比べると食料摂取の必要が希薄である。普段はそれでも彼等の習慣につきあうが、今日はオッシアが、「無理をすることはない」と止めるのでやめておいた。 「子どもの頃はああいうことに嫌悪感を抱く時期ってのがあるそうじゃない。仕方ないわね」 手を休めぬままに彼女は笑った。 オッシアは少し眉を上げて、出来るだけ重たくならないように素早く言った。 「あるいは……、ひょっとすると嫌悪ではなく嫉妬かもしれませんね」 書物をめくる手を止めて、ヴィオレリは「本気?」とでも言いたげな苦笑を投げた。 「……もしそうだとしても大丈夫よ。子どもはそういうことを忘れるのも速いもの。ご機嫌も、甘いものでもあげたら直っちゃうんじゃないかしらね」 少し考えた後、オッシアは口を開いた。真面目な口調だった。 「……あなたも、他のここにいる誰もが、彼を十歳から、……どうみても十二歳くらいだと思ってますよね」 「そうね。妥当な勘定じゃない」 「でも私は、実は彼は……すくなくとも十五くらいじゃないかと思ってるんですよ」 ヴィオレリが振り向いた。唇が開いている。 「まさかそれ……、本気で言ってるの?」 と、薬匙で青年を指した。 「だって、あの身長からして……」 「東方の人種はえてしてみな身長が低いのですよ。 おそらく成人男子でも、こちらの成人女性の身長より低い、ということもあり得るでしょう」 「ええ……?」 ヴィオレリは触れたことのない東方の話に、着いていけなかった。オッシアにかつがれているような気がするが、彼はごく素面の顔だ。 「もちろん、正確にはどうにも確かめる術がないのですが、とにかく我々は東方の人間の常識や生活を知らなすぎるということなんですよ。 しかもこちらの世界だけが神に祝福された文明の地だと思いこんでいる。自分達の尺度で彼を測ろうとしたら大きな間違いをすると言うことです」 オッシアは組んだ手の上に顎を乗せ、能弁を続けた。その目は、遠い明星を眺める憧れの灰色だった。 「今現在漏れてくる東方の情報は極わずかですが、それでも驚嘆するような話もあります。彼は多分そこに産まれ、その世界の中に生きている。今は生活を一にしていても、我々とは根本的な部分で違うのです。 ……きっと東方には、我々が悪魔の地と呼ぶあの彼方には、我々が知りもしないような思想や、概念があって人心は穏やかであり、……迷信も愚考も遙かに離れた文明世界が広がっているのに違いない。 特にあの子を見ていると……、そんなふうに思うことは少しも不自然ではありません。私は彼を眺めながらあれこれと考えるのが好きですよ」 そこで言葉を切って、何気なしにヴィオレリの方を見ると、彼女は何かに打たれた獣のように、深い懼れにとらわれていた。驚いて尋ねる。 「……何か、おかしなことをいいましたか?」 「……え? いいえ。ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてしまって」 「何か遠くでも見るような目でしたよ」 宙でとまったままだった薬を乳鉢の中へ落とす。機械的に笑いながら、彼女は何よりも、自分の直感をごまかした。 オッシアは、必死になったことを恥ずかしがるように、微かに苦笑しながら近場の本へ手を伸ばす。自分の話の荒唐無稽さとそこへの執着に彼女が驚いたのだと思い、話を元に戻した。 「……ま、それはともかく。……サラフのことですけれど、よく考えてみて下さい」 と、分厚い専門書の表紙を次々に彼女へ見せる。 「彼はここにいる間中、この本も、この本も、……この道の名著を、苦もなくずっと読んでいたんですよ」 そう言われれば、ヴィオレリには返答が出来なかった。 サラフは、普段通り部屋でオッシアに会うのも、どこかから帰ってくるオッシアに会うのも嫌だったので、やはり彼の場所にいた。しかし、夜が進むにつれ寒さが酷になり始めて、仕方なく安全な揺籃を立つ。 それでもまだぐずぐずと、森の中をさまよい歩いた。彼は産まれてこの方、彷徨しないで済んだことがない。 もう悲しみにくれるのも疲れてしまった。また、自分に許されているのは諦めだけだということも、彼はよく分かっていた。やはり今回も、どうしても彼女を思い切らなくてはならないのだろう。以前父や母を諦めて自らの臍帯を断ち切ったように。 けれど、尚残念でならなかった。またずるい、という激しい怒りがあった。ずっと前から、自分はただ彼女だけを愛していたのに。 それが、きっと些細な、例えば肌が黒いとか、まだ成人しきっていないとかそういう理由で素通りしていってしまうことが耐えられなかった。ましてや彼女が隣のオッシアへ向かうとなるとなおさらだ。 彼はえこひいきをする神を、心底憎んだ。そしてこれから先ずっと、発展する二人の恋愛を眺めて行かなくてはならないのかと思うとたまらなかった。 サラフはふと、数個の足音を認めて顔を上げた。森の入り口の方から奥へとやってくる、ゆっくりした四人程度の靴音だった。 隠れようかどうしようか、と思ったところへ彼等が姿を見せた。 男女の四人連れだった。上機嫌で歩いていた先頭の男が、サラフを認めて足を止めた。少年も、その彼の隣にいる女性を見て軽く驚く。 「サラフ……」 狼狽えた声を出したそれは、レナンだった。 仕事を終えたヴィオレリの胸の中に、今夜は長い、眠れぬ夜になるという不吉な予感がわだかまっていた。彼女はまた、しかも今度はより複雑に、躊躇し始めていたのだ。 けれども彼女の中のひ弱な部分が、その懼れを否定し続けていた。それはあと少しで解けてしまいそうな謎の終わりを、ほんのちょっとでも先延ばしにしようとする虚しい努力だった。 「そう言えば、レナンはどうなったの?」 焦りをごまかそうとするようにゆっくりと茶を飲みながら、ヴィオレリは尋ねた。 「……今日は姿を見せませんでした。どうするつもりなのか、ちょっと分かりませんねえ。 噂を小耳に挟んだだけですが、あれから、別の術師のもとへ行ったみたいです、同僚の。私も知っている男ですが、いいんじゃないですかね」 「いいって?」 オッシアは眉を上げる。 「お似合いですよ」 それが、付き合いの長い、また自分が拒絶した助手に対する言葉の全てだった。 どうしてこんなに、彼は冷たいのだろう。彼女はその答えを既に知っていた。また、もっと奥底に眠る、本当の解も、もう手を伸ばせば届くような気がした。 「…………」 ヴィオレリはとうとう黙り込んでしまった。これ以上知らぬふりをして続けていくことが、もう出来そうにない。 「どうしたんです?」 オッシアには一体彼女が何を知っているのか分からなかった。また今から何が起ころうとしているのかも到底知り得ぬことであった。 「どこか具合でも悪いのですか?」 無邪気な問いだった。ヴィオレリは結局うなだれる頭に、一人でヴィンの賢しさを引き受けるしかなかった。 「……だめだわ」 「え?」 「やっぱりだめ……」 彼に分かったのは、言葉通りの意味だけだった。そうして彼女は情緒的で、自信がないのだろうかと思った。 「どうしたんです。急に不安になったんですか」 ヴィオレリは差し出された彼の優しい手を拒んだ。そして力を振り絞って、顔を上げる。口は堅く結ばれ、瞳には潤みが宿っていた。オッシアはその人ならぬ美に軽く圧される。 三度目だ。そう思いながらオッシアは狼狽えた声を出した。 「ヴィオレリ……?」 きっぱりと、ヴィオレリは言った。 「やはり私はあなたと、恋愛はできないわ」 隣の男は、サラフにも見覚えがあった。レナンと同い年の二級韻術師で、……ただそれだけの目立たない無骨な男だ。 レナンは、彼と一緒にいるところを少年に見られて、ひどく恥ずかしげな顔をした。今まではオッシアと連れ立っている場面しか見られたことがなかったのが、一気に自分の価値まで急落した気がしたのだ。 「お、あの男の飼い猫じゃないか。逢い引きなんで追い出されでもしたのか?」 そんなことも知らず、男が言って、笑った。サラフの黒い瞳が、彼の愚鈍なたるんだ目元を見、それからまたレナンの暗い表情へと戻る。 そこに宿ったほんの微かな憐れみが――、レナンに火を点けた。 「!」 いきなり、彼女はサラフの横面を思い切り張り飛ばした。少年は受けきれず倒れる。灼けるような頬を押さえて彼女を見上げると、ぎらりと光る両目で 「あんたに同情なんかされる筋合いはないわ、何様のつもりよ!!」 と、怒鳴りつけられた。 彼女の連れはみな、笑っている。 「…………」 地面のサラフは黙って、切れた唇を舐めた。慣れっこになった血の味だ。どうってことはない……。 「お? これはなんだ?」 と、男が、闇に光る首飾りを拾い上げた。はっとしてサラフは胸元を見る。転んだ拍子にどこかに引っかかって金具が飛んだらしかった。 毛色ばむ少年も知らず、三人は好きなことをしゃべり続ける。 「ぼろいぜ」 「これ、昔ソマス老師が持ってたものじゃないの?」 「なんでこいつがもってるんだ?」 レナンが顎を向ける。 「きっと盗んだのよ。見せて」 と、何かの権利でも行使するかのように、手を水平に突き出した。 サラフは、その中で微笑む女性と共に、そこに込められた自分の気持ちを彼等に暴かれるかと思うととても我慢できなかった。弾かれたように立ち上がると、それを奪いに飛び込んでいく。 「あっ……!」 少年の手が触れるより一瞬速く、レナンは反射的に身をよじった。けれどもその弾みに、首飾りは鎖の重さに引き寄せられて彼女の手から地面へと落ちる。 衝撃で蓋が開いた。けれども誰もがそんなことよりも首飾りの所有だけに注意を奪われていた。 レナンの手は、サラフの俊敏に勝てなかった。それでもほとんど意地のように、彼にそれを渡したくなかったので、彼女は咄嗟に足を出して、上から思い切り踏みつけた。 ――――金具の割れる音がした。 サラフの指は虚しく、またも菫色の瞳に届かなかった。きっと本当は誰にも責められない理由のためだからだ。年齢が釣り合わないとか巡り合わせが悪いとか、あるいは単に彼女が知らないためだとか。 けれど、それが実体を持って踏みつぶされることは、いつも誰か他者によって行われる。昼にはオッシアの優しい顔をしていた。それでサラフは、彼を恨むに恨めなかった。けれど今無残な他者は、憎しみに焦る目をした、意地悪なレナンの顔を持っていた。 サラフはじっとレナンの足を見たまま、動かなかった。むきになるから悪いのよ、と汚い韻律が鼓膜を震わしたが、そこで立ち消えてしまって、脳まで届かなかった。 そしてゆっくりと、ゆっくりと少年は顔を上げた。黒い前髪の下で、瞳が光った。そこにはかつて人の認めたことのない、危険な獣性が渦巻いていた。 「……どうしてなんです……」 オッシアは彼女の言うことが分からなかった。 「……あなたに、みすみすソマスと同じ道を歩ませるわけにはいかないもの……」 眉が歪む。彼と似ていると言われることが不快だった。 「私はソマス老師ではありません。性格だってまるで違うし……」 「私に求めているものが同じなのよ」 ヴィオレリは断固とした調子で遮った。 「…………」 「……あなたが私を好きなのは愛ではなくて、私がヴィンだからだわ」 「……ヴィオレリ、そんな……。そんなことは。私は、初めてあなたと会った時から……」 「一目惚れなんて有り得ないと、あなたが言ったのよ」 「…………!」 オッシアの心臓が肋骨の下で冷たく跳ねた。そして、彼は深い罠にはまったみたいに、突然ものを言う自由を奪われる。 「……あなたは私じゃなくてもいいのよ。ヴィンなら誰でも。……いえ、そこまでいかなくてもいいわ。サラフみたいに、明らかに人と違うものであればそれでいいのよ。 あなたはそして人から抜け出したい。別のものになりたいのよ。私はてっきり、それは人の愚昧が憎いからなのかと思ってた。 ……けれども違うわ。あなたが本当に愛しているのは人間の方よ。……あなたがヴィンになるのは、人間の浅ましさを許すためなんだもの……。 ……そこに恋慕がなければ人は恨んだり苦しんだりしないって、もっと早く気付くべきだった。……でも本当は、とっくに、気付いていたのかも知れないわ」 そうだ、自分だって同じなのだから。人の社会を愛するのは、ヴィンを憐れむためなのではないのか? 「……同じように東方に憧れているでしょう。そこはあなたが人を憎まないで済むような未知の楽園よ。本当はあなたはそこへ行きたいのでしょう。そして人を慈しみたいでしょう? あなたは、こんなものは本当の人の姿だと認めたくない悲しい甘えん坊よ。 ……それは、あなたの人生なんて短いのだから、お終いまでつきあってあげてもいいわ。でも、もしもこのまま深い仲になっても、そう遅くないうち、この矛盾に気がつく日が来るのよ。気がつかないで済むほどあなたは気楽ではないもの。 そしてそのことに、周りに人の屍が積まれた状況で気がついてももう遅いのよ。あなたはもう戻っていけなくなってしまうわ、……ソマスと同じように。 ……だから今、思い知って」 ヴィオレリは、青ざめたオッシアの両頬をその両手で挟んだ。そして涙色の瞳で彼と向き合う。その瞳孔には謎があるのだけれど、答えはないのだと向き合う。 「……オッシア、とても悲しいことだけど、世の中に楽園なんてないのよ。東へ進んでも、そんなものありはしないわ。 そして私も同じことを言わなくちゃならない。あなたが期待するような答えを、私持っていないもの。 誰も、世界中のどこにも、そんな答えはないの。ないのよ! それは儚い白昼に浮かぶ夢よ。すぐに破けて誰を救う力もないわ。 そんなことにも気がつかず、世の中の全てをよろしく認識できてると思いこんでいるあなたは幸せ者よ。 そして、その盲目さときたら、人間の愚かしさそのものよ……!」 ヴィオレリは話しながら、ぼろぼろと涙を流した。こんな形でオッシアを傷つけたくなかった。けれどだめだ。もうだめだ。 オッシアの方は、愕然として言葉もなかった。自分の地と定めていた足下を一気に覆されて、彼は今度こそ、素っ裸だ。 「ごめんなさい」 ヴィオレリは彼を離し、両手に顔を埋めた。自分にもっと強さが、孤独を恐れぬ強さがあれば。ここまで話がややこしくなる前に。 「もう、戻りなさい。戻って。 ここには、もう来なくていいわ。私に会っても微笑まないで、挨拶もしないでいいわ。だから、人間の世界へ還って。人の現実と闘って。私は偽物の救いなのよ。だから……」 ちゃん形をなすものを、考えることができなかった。二、三度首を横に振ったような気がしたが、自覚がなかった。 オッシアは、ただ、何かに命令されたように扉を開けて、薬草房を外へ出た。閉めることは忘れる。 独りになって、ヴィオレリは唇を噛んだ。 ――――結局、自分も「公爵」と一緒ではないか。物好きに人間の世界へ余計な首を突っ込んで、かき回すだけかき回して。 ……ただ涙を流すだけで、同じように「遊戯」をしているのだ……! |