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Shocked at Seductive Scarlet
== 1 ==



 エリクシスはその時、まだ二十歳になったばかりの若者だった。
 見た目からしてかなり真面目な印象を与える男だったが、内実は見た目以上であり、仲間達からは冷やかし半分に「騎士の鑑」などと呼ばれたものだ。
 トリエントーレの軍隊は規律正しさを誇りとしていたが、それでも煙草、酒や女は羽目を外さない程度に容認されており、そのささやかな慰めもなしに、苛酷な任務を続けられる騎士は少ない。
 エリクシスは正にその少数派の最頂点にいる男で、皆その潔癖さに呆れながらも、まあ一目置いていた。
 それでも時々、
「お前、体がどこかおかしいんじゃないのか」
などとからかわれることがある。そんなときには彼はきっと相手をにらみ返し、
「お前こそ神経がおかしいのだ」
と答えるのが常だった。
 仲間内での評判はともかく、彼の職務に対する一途さは上司から高く評価され、彼は出世街道と目されるものに乗っていた。その道の先には宮廷での華やかな騎士生活が、あるいは騎士団の頂上に管理職として活動する、そんな地位が見えていた。
 エリクシスは暇になるとつい将来のことを考える。そして、今から考えてもどうしようもない未来の設計に心ここにあらなくなるのだった。
「私にはどちらが向いているでしょうか」
と、エリクシスは現在、彼が直接遣えている主人、宰相のアルアニス卿に、何かの拍子に尋ねたことがある。
 痩身の彼の主人は何かに笑って、
「前」
と言った。
「それでは僕の妻となる人は、貴族の令嬢でありましょうか」
そう続けたエリクシスは、卿に大笑いされた。
「そうですね。きっとそうでしょう」
 恥ずかしい思いはしたが、彼は卿のその言葉に大きく肯いて、幸せそうな顔をしていた。




 見当はずれなことを尋ねて時々笑われたりもしたが、エリクシスはアルアニス卿のことが好きだった。
 その合理的な思考も、穏やかで慎ましい生活ぶりもまったくもって彼の好みだ。
 またそれよりもなによりも、多分彼が必要以上に卿に傾倒していたのは、彼の男女関係における禁欲に強く惹かれたためである。
 身の回りの世話をほとんど付随の騎士が行う戦場では、上官の生活習慣やその性癖など、意外に重大なことが人に知れてしまうものである。
 例えばあの将軍は昨日の晩、町へ出かけて娼館へ泊まっただの、あの指揮官とまた別の騎士とが今、間に誰々を挟んでやりあっているだのと、そういった情報はほとんど全軍に流れていってしまう。
 その流出には当然、担当の騎士が絡んでいるわけだが、内容が不道徳な場合には特に、彼等の口の軽さを咎め立てするわけにはいかないのだ。
 今、エリクシスは卿の生活についてほとんど全てを知る立場にいる。そして彼は始めの一日から、彼の静かで孤独な暮らしぶりに驚嘆していた。
 彼はエリクシスの厳しい理想に適った人間だったのである。だから、あの女性がやって来た時にもまさか、何か起ころうなどと彼は、思いも寄らなかったのだ。




*




 東のガラティア王国との交戦が行われているナリタリアへ、イステル公国からの援軍が到着したのはようやく夏の暑さが緩んできた頃だった。
 昨年に続く大規模な派兵で、その頭目は常勝を標榜する公国騎士団であり、トリエントーレ側も宰相自らが厳かにその出迎えの先頭に立った。
 両軍兵士の鬨の声が地を震わせて響く中、中央に割れた道を、公国の武人達が歩んで来る。そのぴしりと伸びた背筋、一斉にたなびく緋色のマント。それら全てが若いエリクシスの胸に、言いようのない感動の波を生んだ。
 アルアニス卿が先に歩み出て、白髪を蓄えた騎士団長の両手を、その両手でがっしりと握った。
「よくいらして下さいました。お久しぶりです、騎士団長殿」
 騎士団長は、日に灼けた顔をやさしい微笑に緩ませた。
「おお。戦場で懐かしい顔にお会いできるとは、嬉しい限りです、卿!」
両者が抱き合うと同時に、どっと歓声が踊る。
 ひとしきり再会を祝した後、彼等は順々に握手を始めた。初老の騎士団長からかたく握手を受けたエリクシスは、その感激のあまり呆然としていたので、自分の主人がその最後尾の女騎士と言葉を交わしていることに、あまり注意を払っていなかった。
「お元気そうで何よりです、バートレット。団長殿のお言葉をそのままあなたにもお返ししますよ」
「相変わらずよく回る口ですね」
 その言葉が耳に入った時、普段のエリクシスなら怒りだしていただろう。だが、彼は何か唖然とした感じで、二人を眺めたに過ぎなかった。
 女は騎士隊長の称号をつけていた。身長はエリクシスと同じくらいで女性にしては高い。
 はっきりしたきつい目元に、唇と、それに髪が――― 彼は相変わらず恍惚としていたのだが―――朱い。
 そんな感じだった。圧倒的に朱いのだ。
 女は卿と別れると、自然と隣にいたエリクシスにその手を差し出してきた。
「よろしく。キーツです」
「…………ああ」
やっと彼は答えた。
「エリクシス、です。どうも……」
 ぎゅっと握られたとき、いきなり震えが背中を走り抜けた。出来るだけ冷静な顔で手を解きながら、彼は、
 ――この女はいけない。
なにか直感めいた響きで、そう思った。





*





 歓迎の宴と、作戦会議を経て二日後の夜。
明日決戦だという決定が下されたので、兵士達はさっさと床につき、高官達の寝泊まりする宿舎も早くから静まり返っている。
 その静寂の中をエリクシスは書類を手に、疲れ切って歩いていた。彼は下っ端であるためとすぐに前線には立たない分、任される雑事が多く、今夜は特に長引いたのである。
 未来の妻や娘のことなど思い描く元気もなく、ただもうひたすらに寝床の白を夢見ていると、ふと、月明かりの廊下の先、誰かの立ち姿を認めた。
 長いマントが床まで届いている。あれは公国の騎士だが、公国の宿舎は別棟のはずだ。一体誰が、こんなところで何をしているのだろう?
 訝しく思って目を凝らしたが、月明かりが乏しいせいで判然としなかった。通り過ぎるときには挨拶をした方がいいのだろうか、と迷っていると、
「……彼はどう言っているのですか」
 聞き覚えのある声が、エリクシスの足をぴたりと止めた。
「結婚しようと言ってます。酔ったときとか、ものの弾みとか、そんな時にですけど」
 この声は……。と、次の瞬間エリクシスは悪寒の感触を思いだした。キーツとか言う、あの女だ……。
 彼は無意識のうちに耳をそばだて、一体そこで何が行われているのか汲み取ろうとした。
「彼らしいですね。……あなたのことを、とても大事にしているんですよ」
 卿はどうやら柱の側にいるらしい。くぐもってエリクシスへ届くその言葉に影が、大きなため息をつく。
「そう頼んだ覚えは、ないんですけどね」
「そんなことを言うのは……」
「ええ、分かっています」
 しばらく沈黙があった。エリクシスが自分のこめかみに冷たく脈打つ心臓の音に圧倒されそうになった時、また静かに卿の声が尋ねた。
「結婚するのですか?」
 柱の後ろで、彼は自分がそう聞かれたみたいに飛び上がった。
「しません」
 女の答えはきっぱりしていた。彼の方に振り向いて、もう一度言った。
「彼と結婚はしません」
「…………」
 また少し沈黙が流れる。
闇に慣れた目で、エリクシスは女の額に、こぼれた朱い髪の毛が動くのを見た。彼がおぞましいと思った毒々しい紅だった。歯を食いしばる。
「……私が考えていることは分かりますね」
「…………」
「あなたは彼と結婚すべきだと思いますよ」
「ええ、私もそう思います」
「……でも、あなたはしない」
「……ええ、しません」
「…………バートレット……」
 困り果てたような卿の声が響いた時、エリクシスは喜びのあまり、すんでの所で柱から飛び出しそうになった。
 ――― あの人は迷惑している! やっぱり迷惑しているのだ! これは一方的な事態なのだ。
 明日になれば卿は僕に、困った女性がいるのだと苦笑混じりに話してくれるに違いない。
 良かった。やはりこれはそういう……、苦労話なのだ。
 しかし、次の瞬間、安全な物語を作り出そうとしていたエリクシスの両目は、それをぶち壊しにするような光景にもろにぶち当たることになった。
 彼の主人とおぼしき痩せた影が女の元に動いた。と思うと、その首の回りに女の手がするりと巻き付いたのだ。
 はっと青年は息を飲んだ。そのまま呼吸が止まりそうな気がした。卿の体が、やや屈み込んで二三度躊躇したかと思うと、彼の唇がゆっくりと女の唇に、音もなく重なる。そして頭が少し、とろけるように動いた。



 冷や汗で額がひりひりしていた。
エリクシスは目の前でめちゃくちゃにされた一つの物語と一つの尊敬が、十本の指からすり抜けていくのを言葉もなく見つめていた。その力の抜けた掌から、書類の束がぱさ、と床へ落ちた。
 敏感な騎士の体がぴくりと動く。二人はさっと振り向いた。青白いアルアニスの表情に、悔恨や後ろめたさを探そうと、エリクシスは絶望的な努力をしていた。だがそこにはいつもは彼が好ましい、信頼できると思っていた、骨の髄まで冷静な顔、事実を認定する瞳だけがあり、今は彼を途方に暮れさせる。
 金属のように引き延ばされた沈黙の後、
「ああ、エリクシス……。ごめんなさい」
と、卿が静かに謝った。
「……は?」
「ここを、通せんぼしていましたね」






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