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Shocked at Seductive Scarlet
== 2 ==



 翌日。
動き始めた軍隊の真ん中で、エリクシスは見事に型くずれした顔を歪ませ、前で馬に揺られている主人の背中をにらみつけていた。
 実際、卿は昨日の晩から今現在まで、普段と少しも変わらず平静だった。狼狽し、興奮し、血相を変えているのはエリクシスの方だ。
 これは彼の考えていた図と全く逆だった。普通は現場を見つかった人間こそが、相応しく狼狽えるべきではないか。
 卿の態度は開き直りを軽く通り越して、一種のふてぶてしさを感じさせた。いや、こんな人間を見たことがなかったわけではない。ただ、この人だけは違うだろうと思っていただけに、この裏切りはエリクシスを傷つけていた。



「……なぜあんな女と! 卿はご夫人に貞節を誓っていらっしゃる身ではありませんか!
 年若いご夫人に手もお触れにならないで尊重し、ご自身はひたすら婚姻の誓いに忠実な方だと思っておりましたのに!」
 昨晩、卿の部屋で、青年は爆発した。
「……それは買いかぶりですよ、エリクシス」
 卿の方は椅子に座って、淡々としていた。右手で眉をなぞりながら答える。
「単に今まで相手がいなかっただけの話です」
「相手ならたくさんいたではありませんか!
 今だって、あなたの側近くで働いている女はたくさんいます。でもこれまでそのような興味をお示しになったことは一度もありませんでした。
なのになぜ、あの女だけ……!」
 卿は足を組み直して、つと語調を変えた。
「エリクシス。あなたはもう二十歳でしたね。衝動の話をしましょう」
「衝動……?」
 あまりにらしからぬ言葉が出たので、彼は呆気にとられた。
「言葉もなく突き動かされる、というあれです。ゼノヴィア(夫人)は理性的な敬愛の対象ですが、……彼女は、私にとってそういう対象なのでしょう。
 言うなれば理由はただ、衝動です」
 エリクシスにとって、衝動の種類は一つしかなかった。性欲である。だから彼の発言は、とりもなおさず卿が、自分が性欲の虜になっているのだと認めたに他ならなかった。
 頂点に達した怒りがエリクシスの思考を停止させ、以後一言もかわさないまま二人は別れた。部屋を飛び出した彼は時々訳の分からないことを叫んだかと思うと、廊下の欄干に八つ当たりした。
 そして不甲斐ない卿に、あの忌々しい赤毛の女に、忘れていた疲労にぐつぐつと心をたぎらせながら、彼は無理やり床についたのだ。かといって眠れるわけもなく、――実際ひどい晩だった。




 昼前、軍はそれぞれの配置に付き、そこに再び陣営を張る作業に移った。本営が留まる小高い丘の上にも、にかわの匂いが立ちこめ、木槌が杭を叩く乾いた音が断続的に響いている。
 真っ先に張られた天幕の中で、作戦会議が再び開かれ、エリクシスはあわただしく立ち働かなければならなかった。
 足りなくなった水を補給に外へ出たとき、天幕の前でばったり、あの女騎士に出会った。
「!……」
思わず全身が強張る。
「おはよう」
 女は落ち着き払って挨拶した。その地に足の着いた感じが、卿の平静と酷似していて、彼は共犯者を見た嫌悪感で気分が悪くなる。
 返答もしないで井戸へと向かった。
「また随分機嫌を損ねているな」
 黙々と綱を引く彼の後ろで、バートレットは腕を組んだ。
「当然のことだ」
 本来ならば、年齢も位階も上である彼女に対して、このような口をきくことは許されない。だが、彼女は頓着せず、言葉を引きだしたことで満足したらしかった。
「そうかもしれんな」
「…………」
「君に迷惑をかけたんなら謝るが」
「……何が迷惑だ!」
 振り向いて、エリクシスは怒鳴った。そのせいでせっかく中程まで引き上げた綱がまた落ちていったが、そんなことはどうでもよかった。
「あんたらには、そんな言葉しかないのか! 迷惑だの、通せんぼなどと!
 そんなことを言ってるんじゃない、人間として、騎士として守らねばならないことがあるだろう!
 そこに対する尊敬が、根こそぎ、根こそぎ無いんだあんたには!」
 目の前の生々しい女に対する憎悪があまりにひどくて、そこから先、卿の存在が取りこぼれてしまった。まるで、全てこの騎士が悪いかのように糾弾する。
「あんたは卿に歴とした妻がいることをしらないわけじゃないだろう! あまつさえ、夫人はイステルの公女じゃないか! そうでありながら何故、何故卿を誘惑した!」
「声が大きいぞ」
「大きな声で話せないことをしたのはお前だ! 男なら誰だっているだろう。そんなことが好きな連中はたくさんいる。何も卿じゃなくてもいい!」
 その声はいっそ悲痛だった。
「……なぜ、よりにもよって私の主人を貶めたんだ!」
「…………」
 エリクシスは言葉を切って、しばらく肩で息をしていた。両端ににじみ出した涙を、彼女に見られまいとする。
 女騎士は黙って彼の怒りにつきあっていたが、終いにちょっと下を向いて、
「そうだな」
と呟いた。
「あ?」
 その声が低かったので、エリクシスは引き込まれる。
 と、彼女はまた顔を上げた。燃えるような紅い唇が彼の瞳に直に映って、彼は心密かにぎょっとなる。
「手ひどく君を傷つけたみたいで済まない。
 ……それに、私たちがしていたことの名前や、理由を説明できないので済まない」
「……何?」
 エリクシスは眉根を寄せた。
「私はどうして、あの人に惹かれるのか分からない。昔はその理由もあった気がするが今は分からないのだ。
 だから一層いたずらに君を混乱させてしまうだろう。私には、……申し訳ないが、説明しようにも、言葉がない」
 女騎士は体を反転させた。エリクシスが惚れ惚れした、公国騎士団の緋色の外套と長い赤髪が、一歩遅れて彼女に従う。
 彼等は口裏を合わせたのだろうか?
同じ言葉と同じ困惑。しかし昨晩から一度も顔を合わせていないはずだ。
 いや、偶然だ。考えてみればあの女も、自分が野生のままに行動しているのだと告白したに過ぎない。
 畜生。卿もあの騎士も、両方とも下劣でひ弱な人間だ。もはや俺が心酔していたような人間ではないのだ。
 世の中には尊敬に足りる人間はもう一人もいないのか。ああどうして、なぜ俺がこんな目に遭わなくてはならないんだ……。




*





 その晩の食事はエリクシスにとって大変だった。天幕の中で両軍指導者が集っての夕食だったのだが、彼自身は二人のことが気にかかっておいしい食事どころではなかったのだ。
 もちろん、その席上で何かがあったわけではない。ただ、彼等がまるで申し合わせたように何度か同じ行動をするものだから、その度にエリクシスの働きづめの心臓がまたばくばく働かされるのだった。
 彼等は同じ葡萄酒の銘柄を同時に頼んだ。誰かのハンカチを拾おうとして同時に屈み込んだ(二人は向かいあって座っていた)。パンの入った籠を取ってくれ、という騎士団長の言葉に、両端からめいめい取っ手を掴んで籠を宙に浮かせた。
 三度目だったので、周りの受けることと言ったらない。特に、バートレットをかわいがっている騎士団長ときたらにこにこして、
「そう言えばここのところ彼女の頭脳にも磨きがかかったと思っておりましたが、卿のご影響でしたかな」
 などと、エリクシスの食道を締め上げるようなことを言うのだ。
 軽口で有名なトリエントーレ副総司令が、
「冗談じゃない。卿のような人間が二人出来たらこっちはひどい迷惑ですぞ! いよいよ危なくなったら、どうか一人になっていただきたい」
「恐らく人の悪さも一人で二倍であろうよ」
 誰かがつっ込んで、満座はもう大笑いだ。
 当の二人はただ笑いながら、ちょっと戸惑ったように視線を合わせたりしていた。で、エリクシスは一人、下座の方で息も絶え絶えになっていたのだった。




*





「今日は……その、もうお休みになるのですか」
 卿の天幕の中で仕事を終えたエリクシスは、出ていく前にそう尋ねた。
 作戦地図を眺めながらぼんやりと考えに耽っていた卿はその言葉に振り向いて、ちょっとびっくりしたように彼を見た。
 それから微笑んで、
「灯りは消していただいて結構です。私ももう寝るでしょうし……、彼女は来ませんよ」
 机の方へ視線を戻した。
「……?」
 どうしてそう断定的に言うのかと彼は訝しく思う。
「今夜はお会いにならないことにしたのですか」
「いいえ。別にそういう約束は」
 彼は再び振り向く。机上の蝋燭に照らされて、その頬にくっきりとした影が落ちていた。
「あなたはまるで……」
 エリクシスは断固としてその先を否定した。
「誤解しないで下さい。ただ私は、今醜聞が明るみになって戦争へ影響することだけを恐れているんです」
「ああ、そうでしたか」
「……卿、よく考えていただきたいのです。今は重要な時期ではありませんか。ましてやここは戦場です。
 劣情に流されて大事をおろそかになさってはいないでしょうか。私にはそれが、……気がかりです」
 エリクシスは必死だった。彼はやはり卿のことが好きだったのだ。あんな女のことくらいで、この尊敬を失いたくなかった。
 卿は、額を親指と四本の指で覆うようにして彼の話を聞いていたが、最後に小さく、
「どうもありがとう」
と言った。
 だがそれは、エリクシスの聞きたい言葉とは違っていた。彼は唇を噛んで、卿の部屋を辞した。






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