楽園帰還 ( 1 )




 イステル公国は歴史が古く、保守的で名誉に厳格な国風であるがゆえに、負け戦からの帰還者には風当たりが強かった。
 その敷居を跨ぐことすら不名誉だとされる「調査室」から出ると、バートレットは薄い雲の中に光の環をまとわりつかせて浮かぶ、春の太陽を気怠く見上げた。
 自分が調査室などに出入りすることになろうとは思ってもみなかったが、入ってしまえば意外なほどなんでもないので正直、気が抜けていた。
 太陽までもが腑抜けている。ぺらりとした白い円。なんだあれは。あれではまるで、紙で作る収穫祭の飾りみたいだ。
 見つめても見つめても、夢の中の負傷のように、痛くも痒くもない。そのまま、瞬きを忘れそうになる……。
「眼が焦げるぞ」
聞き慣れた声に、彼女は振り返った。
 長剣を担いで、廊下の向こうから歩いてくるのは、同僚の少尉シバリスだ。彼は何でも楽しんでしまえと公言する道楽者で、どうやら彼女の災難まで、それなりに面白がっている様子であった。
「落ち込んでるのか。絞られただけじゃすまなかったろう。どうせ間諜の疑いでも掛けられたか?」
「……もっと悪い。命乞いをしたと思われてる」
 彼は魅力的な目元を細くして遠慮なく笑う。
「はっはー! おまえが命乞いか。一度見てみたいもんだ。
 ……しかし、戦自体は勝ちだったんだ。そう面倒事にもなるまいよ」
 バートレットは微妙に眉を歪めた。
「公の処分は、な」
 さすがに、シバリスの顔からうっすらと笑いが退いた。唇は微笑んでいるが、目はもう真面目だ。
「――まあ。我慢することだな。仕方あるまい」
そう言いながら彼は、剣を肩でトントンやっている。
 闘うときには全滅するまで闘う。これがイステル公国騎士団の不文律である。旗には「勝利か無か」の文言が染め抜かれ、今回の第二隊における敗戦においても、帰還率はわずか十分の一割であった。
 そしてその十分の一割は「調査室」に呼ばれ、取り調べの後、減給、降格、時によっては処罰が待っている。
 今回は連合軍側の勝利ということもあって、バートレットの処分は一月の無給と、軽く済んだ。しかし、それ以外の暗黙の報いが、これから彼女を待っているのだ。
「それにしてもおまえが生きて還るなんて、信じられんよ。 …無論、俺は嬉しいがね」
 シバリスの台詞に、突然、吐き捨てるような返事が来る。琴線に触れたらしい。
「……私だって信じられんし、一体何が嬉しいものか……! 情けない!」
「おお、いきなり燃えるな」
彼女の勢いに、いささかびっくりしてシバリスは顎を引いた。
 バートレットは、公国騎士団の王道をひた走ってきた女だ。これまでの昇進も同期の中で最速だったし、二十七歳にして七つの襟章を持っているのは半端ではない。
 勇猛果敢で知られ、いつもつっこんでいく時は誰よりも早く、そして、必ず最後まで闘っている、という調子だった。だから、よしんば負けても彼女は無様に生き残ったりしないだろうというのが大方の予想だったのだ。
「もし死に損なった時には、自分で自らの始末をつける」というのが、公国騎士団に広く浸透した、一種の美意識とも言える理想である。
 ところが彼女はのこのこと救助されて戻ってきた。騎士の鑑みたいなバートレットが、何故自死を選択せずに生きて戻ってきたのか、あまりにも疑問だった。
 突如バートレットは身を翻し、馬屋の方へ歩き始めた。その背中に、シバリスが声を掛ける。
「おい、今夜の祝賀会、欠席するんじゃないぞ」
 図星を指されて、彼女は立ち止まった。長い赤い髪に遮られて見えなかったが、彼女が振り向いて、 「行きたくない」という顔をしたのが分かった。
「まあそうだろうが、ここで逃げたら、おまえの敵に勢いをくれてやるだけだ。出てこい。そしてなに、恥じることはない毅然としてろ」
返事をせずに、バートレットはまた歩き出した。
 ふう、と鼻から息を出して、シバリスは彼女を見送った。彼は優秀な騎士ではあるが、この騎士団の何が何でも死んでこいという風潮が、全く好みに合わない。
 バートレットには立派に立ち直ってほしい、そしてあわよくばいい前例になればと、そう奇妙な期待をかけているのだった。




 馬を引き出すと、バートレットは中庭でそれにまたがり、激しく鞭をくれて恐ろしいスピードで走り始めた。滴る新緑に目もくれず、彼女はとにかく前へ前へとひたすらに急いだ。
 世界の全てが自分にそっぽを向いてどこかに隠れているような気がした。美しいはずの春の情景が、すべてありきたりのつまらない灰色に見えて、どこまで走っても、そのぞっとするような感覚は拭い切れない。頭のまわりに焦燥の蛇が巻き付いて、バートレットの目を回した。
 彼女の身に、確かに何かが起こっていた。心の中に冷え冷えとした大きな深い穴があって、彼女を青空のように無慈悲で無感覚にしている。
 生還とは、こんなにひどい心地がするものなのか。かつて自分を取り巻いていたはずのあらゆる光が、遠く、なりを潜めつかみどころがない。まるで深く、生ぬるく出口の見えない霧の海の中で、もがいているような気分だった。
 しかし、その霞がかった彼女の脳の中に、ただ一つ、血を吐くように鮮烈な恨みがあった。
――― 殺す! あの男を、殺す…!
バートレットは唇をきつく噛みしめた。
「お前が生きて還るなんて信じられんよ」
 言うに及ばすだ。彼女とて、死のうと思っていた。
 混乱の中、戦況が不利になっているのが肌にひしひしと感じられ、足下に大切な同僚達の屍が重なってゆくのを見て、とうとう自分の死ぬ時が来たと思った。
 身体が自然に動き、騎士である彼女は迷わなかった。出来るだけ相手を多く倒して死のうと、彼女は敵陣へ切り込んでいった。
 肩当てが割れ、籠手が飛び、目の前が何度か赤くなって、それでも一時間は暴れていただろう。やっとのことで、足が利かなくなった。
 地面に片膝をついて、剣で身体を支えたら、そのまま腕が上がらなくなった。
 なぜだか、ため息が洩れた。すると体中の強張りが、空気で注がれたみたいに流れて落ちていった。
  ああこれが私が最後に見る風景だ。
私はやっとここで死ねるのだ。
  目の前に、敵の姿がじりじりと迫り、バートレットはなんだかおかしくなって、笑って目を閉じた。
 そして、最後の激痛を待っていた。頭だろうか、首だろうか、背中 だろうかと。奇妙に平静な時間が流れ、辺りはばかに静かだった。眼裏の暗黒はひんやりと心地よく、けれど確実に彼女を死へと誘ってゆく。
  悪い人生ではなかったとそう思った。走馬燈など流れなかったが。
 それはまるで、幸福な午睡のようで、バートレットはそれに酔い、 渺遠たる草原の幻想を見た。風が渡り、奢りもなく、恥もなく懼れも なく、全ては満ち足り、安らかだった。そしてゆっくりと、雪が音も なく溶けるように、バートレットの精神が、消滅しつつあった、
その時――――


 ぱしん! と、突然その平安は破かれた。何か激しい光の瞬きが起こり、バートレットははっとして目を開いた。
 彼女は自分の周りに張り巡らされた六角の結界を見た。基本となる六つの点から、炎のごとく薄い赤の光が屹立して、彼女を外界から遮断していた。
 境界に触れた運の悪い敵の一人が地面に倒れ込み、火だるまになって転げ回っている。敵の兵士達が気後れして身体を引いたが、彼女はまだ呆然としていた。
 何が起こったのか、本当に理解したのは少し経った後だった。敵が退き始めたのだ。自分にはもはや手出しできないと知って、残敗兵の一人に構わずさっさと退却を始めたのである。
 はじめてバートレットの胸に乱れが生じた。怒りに燃えて後ろを振り返る。初めは味方の骸と、枯れ木しか目に入らなかった。だが、首を巡らすと、少し離れたところで馬にまたがっている、一人の見慣れぬ男の姿が網膜に映った。
 その後ろに遠く、砂埃が上がっている。本隊が応援にやってきたのだ。自分は助かる。
救助されてしまう。
―――― なんということだ……!
針の絶望が胸を刺した。
 そんなことも知らず、男は馬でのこのこ近寄ってくると、下馬して、結界を解きにやってきた。そして戒めを霧散させると、彼女に向き直り、何か―――― 多分、 「大丈夫ですか」というようなことを、言おうとする。


 「余計なことをするな!!」
遮って、バートレットは怒鳴りつけた。男はひどくびっくりして、身体を後ろへ泳がせ、あっけにとられたようだった。
 それから、肩で息をつく彼女をしばらく見下ろしていたが、そのう ちふっと――――笑った。
笑ったのだ!
 バートレットは奥歯を鳴らした。
許さない。あの男を許してたまるものか! 
 それから後のことは分からない。バートレットは気を失ったのだ。 気がついたら救護院だった。
 ようよう手綱を緩める。馬はほっとして、少しずつ減速した。彼女 も馬ももはや汗だくで、怒りのあまりに赤い世界が回っている。
 こんな情けない話を、誰に出来るものか。調査官にも話さなかった。
 あの男を見つけだし、殺してやる。殺してやる。
口を封じてやる!
 どこの誰か知らない。だが顔は覚えている。一生忘れまい。
 緑色にねっとりとした春の森の中で、その恨みだけがただ痛みであり、ただ一つの太陽であった。他のものは何を見てもみな嘘だった。まるで退屈な絵描きの風景画だ。
―――― 畜生め!
 バートレットは手綱を引いて、首を返した。馬は主人の荒れた心模様を察して、少し困惑気味だった。




+






 大陸と半島を結ぶ頸部に存在する王国、トリエントーレは創立五年という大変若い国だ。だが、元来その地に誕生した国家は、アルベラ海峡の商業利便を狙う各国の思惑にさらされ、長続きした試しがないので、五年という年月は短くはない。
 国家元首は元司祭という異例さであるが、辛抱と忍耐に優れた良君であるとの風評であった。また国王を補佐する臣下も粒ぞろいで、トリエントーレは現在未曾有の発展を見せている。
 このたびの戦役は、もともとトリエントーレが半島のガラティア王国から国境侵犯を受けたことがそのきっかけであり、隣国からの要請を受け入れるかたちでイステル公国も参戦した。
 公国が他国と組むというのは歴史的にも珍しい出来事であったので、この結婚を実現させたトリエントーレ国王の評判は増している。
 勝利の礼にと、彼は大層な贈り物をイステルに納め、今回の両国合同の祝賀会も実はトリエントーレ側が全て自弁しているのだった。
 目の前に居並ぶ将校達の若いことといったらない。公国であればこんな場面に出席も出来ないであろう十代終わりの若造が、自分の前で無用ににこにこきらきらしているので、バートレットは気分が悪かった。
 一番奥に座っている、従って最も年長の将校で、せいぜい三十五にしか見えない。それが六十三の公国大将と並んでいるのだ。奇妙な絵図だった。
「もう少しうまそうな顔をして食えよ。栄養にならんぞ」
 隣に座ったシバリスが、果実酒の入った杯を舐めながら言った。
 まずい料理のはずもないが、舌まで麻痺しているのか、バートレットには塩が足りない。
「派手なことだ。こんな豪華さは公国にない。新しい国とはいいもんだな」
「だったら身売りでもすればよかろう」
「うまいもんを食べながらよくそんな毒が吐けるな。食事を楽しもうという気がないのか?」
 バートレットが口を開く前に、隣から同僚の一人が当てこすりを言った。
「食い物で不名誉がなくなるなら良かったのにな、バートレット」
「やめろ、田舎者」
 シバリスは一言で彼を牽制すると、何かしはすまいかと血気盛んな彼女の反応をうかがった。しかしバートレットは聞こえなかったみたいに平然としている。意外だった。
 皮肉屋の同僚も拍子抜けしたようだったので、親切のつもりで毒づいてやる。
「つまらんことでめでたい席を台無しにするな。宮廷はお前のお里とは違うんだぞ」
 出身地を気にしているその男は顔をかっと赤くして、不満げに黙り込んだ。一帯に、気まずい沈黙が生まれて、目の前のトリエントーレの坊や達は事情が分からないなりになんだか困っている。
「何か不都合でも?」
 馬鹿親切な一人がわざわざ尋ねるので、シバリスがトリエントーレの言葉で答えた。
「いや、いつもの飯がこれに比べてあんまりまずいんで彼女が怒ってたんですよ。あの男が調理係なもんでね」
と、むっつりしている同僚を指した。
「はあ、そうなんですか。調理人はまだ厨房におりますから、話を聞きに行かれては?」
「……寝ぼけてんじゃねえよ、このガキが」
分からないのをいいことに、騎士は悪態をつく。 
 ちょうどその時、奥の方でトリエントーレの将校が、
「あ、アルアニス卿!」
と叫んで立ち上がったので、彼らはそれ以上会話を続けずに済んだ。
 口元を拭いつつ、みなが一斉に立ち上がる。トリエントーレ側の主賓である、宰相のアルアニス卿が遅れて到着したのだ。
 バートレットも立ち上がり、…しかし目線は下に落ちた。
下らない。
 こんなことをしていてなんになる。別段食欲もないときに、ごてごてした料理など見るだけでその欺瞞に胸が悪くなる。その悪徳が自分に伝染する気がして、苛立ちばかりが募る。
 昔、自分は、こういう席でどうしていた?
それなりに楽しんでいたのか? 考えられない。こんなことは、時間の浪費だ。人生を悪趣味と怠惰に染めるだけだ。
 バートレットは今すぐこの場を辞して帰りたいような気分だったが、そんなことができるわけもなく、やっとのことで気力を振り絞って顔を上げた。
 ……この無気力にいつまでも留まっていてはいけないはずだ。ここからとにもかくにも抜け出さなくては。
 しかし抜けた先に何か、光り輝く何かが、約束されているのか? そう思い当たると、首筋が寒くなった。
 苦い虚しさを噛みしめながら、無理やりに首を動かして、奥の方へと視線を向ける ――――。



「!!」
 その瞬間、一番奥の席で、にこやかに将軍達と挨拶を交わしている男の顔を見て、バートレットは息を飲んだ。
 その短い砂色の髪と、痩せた体躯と、斜めに切り取られた灰色の瞳に見覚えがある。
 あれは、そうだ―― 覚えず全身が震え上がった――、間違いない、あの男だ!
「へーえ、あれが噂のアルアニス卿か。人をたらし込む才能があるというが」
 右耳に、シバリスの呑気な声が聞こえた。薄ら笑いを浮かべながら、ずけりと言う。
「貧相な男だ。戦場にも出るそうだが、あれじゃまるで死神だな」
聞こえるぞ、と笑いを含んだ声が飛んだ。
 そんなやり取りをよそに、バートレットは瞬きもせずその男をにらみつけていた。アルアニスはあちこちに気を配りつつ話をしていたが、席に着く瞬間、何気なしにふと奥へ目をやる。
 二人の視線がもろにぶつかった瞬間、バートレットは彼の目がほんの少しだけ、ぴくりと反応したのを見た。
 覚えているのだ、向こうも。
拳を握りしめた。
 卿が座ったので、またぞろ全員が一斉に腰を下ろす。ただ一人、バートレットだけが立ったままだった。
 満座の怪訝な視線が、震える彼女に集まった。
「何をしてるバートレット」
そう言うシバリスの言葉も耳に入らぬようだった。
「キーツ少尉、座りたまえ!」
 とうとう上官の叱責が飛び、バートレットはやっとのことで席に着いた。顔は青ざめ、強張っていた。
「どうしたんだ」
 幾分真面目な表情でシバリスが尋ねたが、彼女は首を振った。
「なんでもない」
 それから彼女はもう一度、アルアニスに視線を投げた。卿は前に座る公国の行政長官と話していて、その表情にはもはや動揺のかけらも見られなかった。
 しかし、自分が見られていることには気がついているらしく、時々ちらりとこちらに視線をよこした。その都度彼女が鼻を反らすと、そのまましばらくじっと見ている。
 奇妙な目線の駆け引きが始まった。もはやバートレットは退屈などしていなかった。全神経を緊張させて彼の一挙手一投足を見守り、復讐の興奮を押さえ込むことばかりに苦慮していた。
 やがて騎士達はテーブルを離れ、おのおのが固まって雑談をしたり、椅子に腰掛けて音楽を聴いたりと流れ始める。互いに近づかず、言葉も交わさないまま、けれども相手の存在を背中を引っ張る引力と感じながら、二人は流れの中をそれぞれに動いていった。
 バートレットはずっと、彼に付かず離れず一定の距離を保ったまま、辛抱強く機会を待っていた。アルアニス卿が一人になる時をだ。
 ついに、しつこく側に張り付いていたトリエントーレの騎士が彼の元をふと離れ、卿は一瞬一人になった。
 計ったように、彼はすっと振り向いて、バートレットをぴたりと見た。彼女がどこにいるか、あらかじめ分かっていた様子だ。
 バートレットは顎をしゃくり、会場に背を向けると、廊下へと歩き出した。
 あの男は来る。揺るぎない確信が彼女を一度も振り返らせなかった。
 庭園はもうすっかり夜だった。廊下を出ると、月明かりが居並ぶ石柱を青白く照らしていて、それはまるで古代に滅んだ海底都市のような眺めだ。黒い梢がざわめいた。バートレットのわななく指のように。
 石畳の広場の真ん中で彼女は足を止め、振り返る。
 少し遅れて、アルアニスは確かにやってきた。公人の証である黒い、半身を覆う肩掛けが闇に溶けて、彼は骸骨のように細身に見える。
 バートレットは剣を抜いた。先日血を吸ったばかりの白刃が、月光に映えて闇を払った。アルアニスはまだ棒立ちだった。黙って、バートレットを見ている。
「抜け」
 初めて、彼は戸惑ったような顔を見せた。彼は文人であるが帯剣はしているので抜く剣はある。もっとも、振り回したことなど一度もないお飾りだろうが。
 バートレットはぴくりともせず待っていた。卿は、しばらく無言でいたが、やがてその黒い肩掛けを抜き、横にのろのろと下ろした。応じる気らしい。
 不器用な手つきで腰にある剣を引き抜くが、そのひどい不協和に、バートレットは思わず失笑をもらした。
 足下まである白い長衣はいかにも学者的で、戦闘には全く不向きだ。間抜けのように隙だらけで、そこにぼんやりと立っている彼を見ていると、今度はふつふつと、怒りが沸いてきた。
 前置きもせずに、剣を呻らせる。
「そら左ががら空きよ!」
 バートレットのその銀色の切っ先の、容赦のない速度に卿は思わずびくっと身体を震わせて、素人らしく反射的に顔をかばう。剣先は左袖をかすめた。
 残酷な笑いが、バートレットの唇に赤く弾ける。
「なんだ打ち合いにもならないのか!」
さらに一歩と踏み出す。
「右! 右! ほら左!」
 時々、刃同士がかろうじてぶつかったが、その度彼は後ろへ後ろへと押された。性差こそあるが、手練れのバートレットと、事務官であるアルアニス卿とでは話にならない。林の夜の静寂に、金属同士のぶつかる冷たい音が鋭く突き刺さった。
 バートレットの剣の勢いは衰えるどころかどんどん激しさを増していった。ただでさえ足下の危ないアルアニスに、力任せに剣を振るう。
「目をつぶるな! 脇! 右! 右だって言ってるでしょ! 今度は左!」
 とうとうアルアニスは木の根っこにかかとを取られ、後ろに転げた。手をついた拍子に右手からおもちゃのような剣が飛ぶ。
 彼は、ぜいぜいと呼吸を弾ませながら、逆光で黒く浮き上がったバートレットを見上げていた。
「……ええ、話にもならん!」
 彼女は激しく吐き捨て、屈み込むと左手で卿の襟首をつかみあげた。彼は信じられないほど軽く、たやすく引き上げられ、そのまま幹へと押しつけられる。
 う、と声の漏れる頸動脈に、ぴたりと剣先が突きつけられた。何という不甲斐ない男だ、まるで、まるで春のように手応えのない。
「どうして私を助けた……!」
 バートレットは噛みついた。
「おかげいい生き恥をさらしてる。貴様みたいに戦場をろくろく駆け回ったこともないような男に情けなくも助けられて私が喜ぶとでも思ったのか!
 ……どうせ不名誉は、墓場の中までも消えはせん…。このまま貴様をぶっ殺してやろうか……!」
 その時ふいに、冷たい卿の手が、襟首をつかむ彼女の手に添えられたかと思うと、力も込めず、不可思議なやり方でするりと刃の方向を変えた。
「こっちです、動脈は」
 ぎくっとした彼女の瞳を真っ向から捉え、アルアニスは初めて口をきいた。低い、極めて静かな声だった。
「はやくなさい」
 その声に押されるみたいにして、バートレットは柄を強く握りしめた。……逃げない。……殺せる。
 力を込めれば、皮膚は破れ、血潮が散り、この男はもはや生きず、私の苦しみは終わるだろう。爾後自分がどうなろうとも、それでこの猛り狂った怒りはおさまるだろう。
 ところが彼女はどうしても、最後の一押しが、容易なはず決断にどうしても踏み込めなかった。
 …そうするとやがて、追いつめているのは彼女の方であるはずなのに、バートレットは自らが脅されているみたいに胸が苦しくなってきた。
 どうしてこの男はこんなにも、こんなにも――――。
なかなか切れないのはそのせいだ。無抵抗だからだ。
 灰色の目が、異様な情熱を込めて、じっと自分を見ている。
……見るな、そんな目で見るな。
もっと怯えた目をしないか、この野郎!
 白い刃を手まで伝ってくる卿の脈拍が、そのこもった音が、いつしか自分の鼓動と重なり、死に瀕しているのは自分自身なのだと、終いにはそんな訳の分からない考えが出でた。するとますます手は動かなかった。
 そのまま長い時間が流れた。卿はまだ、じっと待っている。バートレットは自分の情けなさに動揺し、地団駄を踏みたい程だった。
 身体が震え始めるのを押さえることができない。
「どうしました?」
 とうとう卿が言った。その表情にうっすらとあの、微笑が浮かびそうに、なる。
「好きに料理して構わないん ――――」
 びしっ! と樹皮が割れる音が語尾を遮った。バートレットの剣が糸ほどの線で、彼の喉を切る。その姿勢のまま、彼女は怒りに顔を真っ青にして、夜にこだまする大声で吼えた。
「馬鹿にするなァ!!」
 その時、後ろの方でざわめきが聞こえた。卿の不在に気づいた騎士達が、彼を捜しに出てきたのである。
「おい! なにをしている!」
 バートレットは剣を下ろした。ため息をついて、アルアニスは昆虫標本でなくなる。
 ばらばらと、数人の騎士達が走ってきた。館の方でも騒ぎになっているらしい、人だかりが見えた。
「卿! ご無事ですか!」
 血相を変えて飛んできたのはトリエントーレの若い将校だ。
「貴様! なんの真似だ!」
 続いて飛び出してきた騎士が二三人、剣のつかに手を掛け、辺りは緊張した。自国の宰相に加えられた侮辱に彼らは興奮している。せっかくの結婚が破棄になりそうな雰囲気だった。
 そして一体なにが嬉しいのか、バートレットの顔ににやりと狂気じみた笑いが走った時、
「―――― よしなさい。遊びですよ」
アルアニス卿の声が、かなり場違いなことを言った。
「は?」
 騎士達が気の抜けた声で振り返る。
「剣のことを少し教えてもらっていただけですったら。あの、そこいらに私の肩掛けが落ちていませんか」
 きょとんとする騎士達を後目に、卿はゆっくりした動作で芝の上に置いてあった布を拾い上げると、右肩にするりと羽織りながら言った。
「ごらんの通り、私人としての遊びですから。怪我したのは私が下手をやったからです。
 ……少尉殿、色々と教えて下さってありがとう」
 そう振り向いたときだけ、彼は瞳に力を込めた。受け止める彼女は眉間にしわを寄せて、……自分の敗北を知った。
 アルアニスには、自分を安らかに死なせる気がないのだ。どんな形であれ、そんな情けなど掛けてくれないのだ。この男は自分の行為を遊びと呼んだ。遊んでいたのだと言った。自分は死ぬ気だったのに。
「貴様はものを喋る人形だ」
 まだ納得しきらない騎士達をなだめつつ、背を向けかけたアルアニスに、バートレットは言葉を投げた。
「死にたいと思う私の気持ちなんか絶対に分からないんだ。
 だからこんなに、……人を馬鹿に出来るんだ」
 アルアニスは横顔を見せて、振り返る。
「……すみません」
 微かに笑ったように見えた。それは、あの時戦場で見せた笑いとはどことなく違って、彼女を怒り立たせるものではなく、反対に自己嫌悪の情を催させ、全身を急激に弛緩させた。
 卿は顔を戻すと、勝手な真似をしてはこっちが困ると今度は怒りだした騎士達にいいかげんな言葉を返しつつ、館へと帰っていった。
 バートレットは剣を手にしたまま、ひどい喪失感と疲労に、半ば呆然となっていた。
 ―――― ここは地獄だ。





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