楽園帰還( 2 )
「アルアニス卿を知ってたのか」 気合いの声と、サーブルのぶつかる音の響く練習場の中で、手袋をはめながらシバリスが尋ねるので、 「いや」 と、バートレットは短く否定した。 「知っているように見えたぜ。そうでなきゃ、素人に手を出すなんざ、お前らしくもない」 バーレットからの返答はない。 彼は、同僚の頑固な気性を知り抜いていたので、追求しなかった。関係のない方へ少し話題をずらす。 「ああいうのが受けるのかね、最近は。宮廷ではご婦人方にえらい人気だそうだ」 「気がしれんよ」 バートレットは鼻で笑い、立ち上がった。相手を捜しながら、真ん中をゆっくりと歩く。 「死に損ない少尉。お相手を」 声と共に、行く手を遮るようにして、サーブルの切っ先が突きつけられた。足を止め、手元の方へと視線を辿ると、普段からあまり仲の良くない同僚バルカシスの顔に行き当たった。 自分の剣でパシンとそれを弾くと、彼女はマスクを被り、構えた。礼もしないで、 「来い、出来損ない」 シバリスがあーあ、と額を押さえる。 「威勢だけは相変わらずか。だがこれからはもう大きな顔もできんぞ、バートレット。 ……死んだ方が良かったよなあ、どう考えても。どうやって生き延びたんだ、ああ? 敵の男に足でも開いたのか」 騎士はマスクの下で、彼女の怒りを誘うように白い歯を見せ、せせら笑った。 「今まで肩で風を切って歩いてきたお前が、王道から落っこちてやけくそになるのが目に浮かぶぜ。お前の人生もここまでだ。ざまあみやがれ」 だが、彼女は構えたまま、不気味に動かなかった。いつもの彼女なら、こんなことをずっと言わせたりしないのだが。 周りの同僚の騎士達も、バートレットが恐ろしく静かなことにいささか面食らっていた。彼女の周りに漂う拭いがたい静寂と空虚は、なにやら気持ちが悪い程だ。 バルカシスの心の中に、やめとけば良かったという後悔じみたものが生じたけれど、彼はそれをごまかすためにふんと笑い、「行くぞ!」と、切っ先を向け、打ち込んだ。 彼女は難なく受け流して、踏み込む。それをまた彼が受ける。打ち合いが始まった。 ベンチに腰掛けたまま二人を見守るシバリスのところに、同僚のエッシャーがやってきて隣に座った。 「放っておいていいの?」 彼は肩をすくめる。 「どうしろって? 奴は好きにやるさ」 エッシャーは詰め襟をいつもきっちり一番上までとめている部類の騎士だ。昇進も華々しくはないが確実で、こういう連中は長生きする。 「それにしてもなんでバルカシスって、ああいつも彼女を目の敵にしてるのかしら」 「奴がとある女官に懸想してな、ところがその彼女はバートレットにお熱だったんだよ」 「……ああ、それは救えわれないわねえ」 「まったく」 「でも、バートレット冷静じゃない。挑発に乗らないわよ」 「さあね……」 乗らないのか、……乗れないのか。シバリスは、微かに目を細めた。 打ち合いは続いていた。どちらも戦場を十年近くもさまよってきた手練れの剣だ。ときどき火花が飛んだ。周りで対戦していた騎士達も、思わず引き込まれ、いつしか棒立ちになって二人を見ている。 バートレットの脳裏に、昨日の痩せた男の滑稽な立ち振る舞いが、その腹立たしいのんびりとした口調が、あの屈辱的な一時が、代わる代わる蘇った。 少なくとも、これくらいの腕であったならば、卿を切り殺していた。 いや、実際あそこで殺すつもりだった。だが、ああも無抵抗な男を、切り刻むことなどかえってできないではないか? 好きに料理して構わないんですよ。 ――――馬鹿にしやがって……! 私の真剣な心を、嘲笑って、いつでもそうだ! 戦場でも、庭でもあの男は私を笑う。私の生存を馬鹿にして喜んでいる! 今度こそ殺してやる。あのやせ顔を切り刻んで、「料理」してくれる! 喉元がかっと燃え上がり、バートレットはそれを砂漠の水のように貪った。さらに深く怒りたかった。 激怒を期待してバルカシスの挑発に応じたのだが、この男の貧弱な語彙では、そんな気にならない。彼女は記憶をたぐって、自分で火を点けることを選んだ。 段々と、バルカシスの額に焦りと、ほとんど恐怖が浮かび始めた。ほぼ同じ量の経験を積んでいても、技術には差がある。彼女の勢いが増すにつれ、次第に押され始める。 身体近くまでサーブルの刃が届く回数が増し、彼は時々大きくバランスを崩して後退した。それでも彼女は全く攻撃の手を緩めようとしない。 「やめろよ、遊びだろう……!」 彼の戸惑った声が耳に入った瞬間しかし、バートレットは今までで一番激しい力で剣を叩きつけた。 あっ! という声が周りから漏れた。それを受けたバルカシスの右手が、堪えきれずサーブルを取り落としたのだ。拾おうとした先に、彼女の足がそれを蹴飛ばしてしまう。 場には、剣を構えるバートレットと丸腰のバルカシスが対峙していた。彼女はまだ厳しく、だが冷徹な瞳で敵をにらみつけている。 バルカシスが、引きつった笑いを浮かべ、両手を肩まで上げようとした。それで勝負は終わるはずで、野次馬達も思わずほっと一息をつく。 ところが次の瞬間、思いがけないことが起きた。バートレットは剣を投げ捨てるや、相手に降参させる隙を与えず、殴りかかっていったのだ。 全く予期せぬ行動だったので、頬に拳を受けてバルカシスは壁までふっとんだ。そのマスクが見事にへこんでいる。 「―― おい、なにをするか!」 騎士達はざわめき、気色ばんだ。バルカシスは床で顔を押さえ、痛ましくうめいている。 「痛ったそー」 シバリスが目をつぶると、今度は口元を覆う。 なおかつ彼に歩み寄ろうとしたバートレットを、一人の騎士が身体で止めようとした。 「もうやめとけ! バートレット」 彼女は無言で、強引にその騎士の身体を自分の道から排除しようとした。騎士はむっとして、思わず彼女を小突いた。 「やめろと言うのがわからんのか!」 対するバートレットは凶暴だった。その騎士にいきなりものも言わずに張り手をとばし、よろめかせる。体勢を立て直したときには、当然のように彼も彼女の敵だった。 「貴様! いいかげんにしろ!」 大騒ぎになった。 周りを囲んでいた騎士が男女を問わずバートレットに殺到し、暴れる彼女を押さえ込もうとする。練習場の真ん中は、人の押し合いへし合いで、もう何が何だか周りからは分からない状態だ。 「困ったもんだなあ」 シバリスは遠く、一人でそう呟いた。今まで一緒にいたエッシャーも、見るに見かねて止めに入ってしまったのだ。 だが、一旦こうなったら自然におさまるまで収拾などつくまい。彼は無駄な体力を使いたがる人間ではなかった。 バートレットは荒れている。しかしそれを止めたら彼女が逃げ込む道が他にあるか。他人迷惑でも、外に向かって開かれているときにはまだ救いがある。どうせ喧嘩ならいつでも来いという連中相手だ。せいぜいぼこにされるが良かろう。 ……それにしてもあの男は……、とシバリスは眉を歪めた。 いったいバートレットの帰還と、どういう関係があるのだ。 「いったい、あなたは何をしているの!」 シバリスとは違って生真面目な騎士であるエッシャーは、彼女の無軌道に腹を立てていた。階級は下の曹長でも、同期生である彼女にそう言われると、バートレットも多少弱いらしく、お義理にばつの悪そうな顔をして、シバリスの手当を受けている。 騒ぎは三十分ほどしてやっとおさまった。上官がやってきたら、みんな一瞬で元の位置に戻ったのである。上官は何か騒ぎがあったとは察したものの、いつものことだ、特に注意もせず、今夜の夜会の警護任務のことだけ告げて立ち去った。 「昨晩の祝賀会でも騒ぎを起こしたそうじゃないの。アルアニス卿の喉に傷をつけたんですって? 何でそんなことをするのよ、バートレット!」 バートレットは唇を曲げただけで、答えなかった。エッシャーは両手を腰にあて、大きくため息をつく。 「もう。オッシア相手に剣を振るうだなんて、ほとんどいじめだわ」 「オッシアって?」 代わりにシバリスが顔を向ける。 「アルアニス卿の名前よ」 「親しいのかい、君」 「子供の時、オデッススの賢人書院で一緒だったの。もっともあちらは天才様で、私はどうにも学問に向かなくて、出たのだけど」 「へえ、卿はあそこの出身か。なるほどね」 城塞都市のみで一国を標榜するオデッスス市国の中心には、世界中から選り抜きの才能が集まる、賢人書院と呼ばれる研究機関がある。軍隊を持たない市国が外国からの侵略を受けないのは、諸国の政府の中に書院の出身者がぞろぞろいて、実質的に国政を動かしているからだ。 「じゃ、韻術も得意中の得意ってわけだ」 「それはもう」 エッシャーは論外だ、というふうに両手を広げた。 「並の術師では存在すら知らないような古い大がかりな韻術をほとんど知ってるわよ。一分間で九十五韻の達人ですもの。速さだけじゃないけどね、韻術は」 それまで黙って椅子の背もたれに顎を乗せていたバートレットがふんと、鼻を鳴らして言った。 「ああ、それであんなに性格が曲がってるの。学問のやりすぎなわけね、なるほど」 「バートレット」 エッシャーは今度は呆れたらしかった。 「一体オッシアのどこが、そんなに気に入らないっての?」 彼女はバートレットに、全部、という暇を与えてくれなかった。 「そりゃあ彼は体力はないし強くもないから、あなたの好みじゃないかも知れないけど、でも思いやりに溢れたとてもいい人よ。私は大好きだし、人気者でもあるわ」 バートレットとしては実に異論のあるところだった。思いやりに溢れたとは、どう考えても嘘だ。 一旦立って椅子に座り直すと、彼女は両足を前に投げ出し、顎を上げ気味にして古くからの友人を眺めた。 「じゃ、結婚してないのはなんでよ。あの年で独り者なんて変じゃない。性格に欠陥があるか、身体にあるかどっちかね」 「バートレット」 ごく真剣な顔で、エッシャーは彼女の名を呼んだ。その重い調子に、医療具を戸棚に納めていたシバリスまでが振り返る。 「それはあっちの人の前では決して言ってはだめよ。決闘どころじゃ済まないわ」 「……なんでよ、本当に欠陥があるの?」 エッシャーは首を振る。 「そうじゃないの。オッシアは適齢期にトリエントーレの女性とちゃんと結婚してるわ。そう美人でもなかったけど気だてのとてもいい人で……、それでも宮廷ではもちろん大騒ぎだったけど、それから一年後にもっと大変な騒ぎになったの。 覚えてるでしょ。二年前、半島から新しい型の伝染病が入ってきて大陸で大流行したこと。それが宮廷内にも飛び火して、ちょうど産後で弱っていたその奥さんと、生まれたばかりの赤ん坊が揃って、……死んでしまったのよ。 ……それからオッシアも同じ病気にかかって倒れて、彼の場合は絶対に死なせるなという王の命令で、何とか回復したんだけど……」 「そんなこと」 バートレットはぶっきらぼうに遮った。頭の後ろで手を組んで、背もたれを軋ませる。 「珍しくもなんともない話だわ。この大陸じゃ、毎年五万人が伝染病で死ぬのよ。本人が助かっただけ全くマシな話じゃない」 「まあ、そうだけど……、やっぱりあれは……」 エッシャーは言葉を濁した。 「かわいそうだったわ……」 絵に描いたような優等生の、お優しい感傷に、バートレットは背中で人の不幸を待ち望む、宮廷の浮薄を愚かしく感じる。 どうせ宮廷中がしおしおと悲しげに死を悼んでみたりしたのだろう。もらい泣く「感じやすい」ご婦人方。葬式はせめて盛大に。けなげに耐える不幸な夫。慰めて差し上げなければ。お気の毒に、お気の毒に、おかわいそうに……。 バートレットは青痣の残る右の眉を押さえ、顔をしかめる。甘ったれるんじゃないわ。今はそういう時代よ。 父も、妹も、叔母も甥っ子も伝染病で死んだ。 ……しかし、ああそれで。 馬鹿な女どもが今日もまたわらわらと―――。 わらわらと卿を取り巻いているわけであった。バートレットは警護役であるので、壁に張り付いたまま、遠くきらびやかな女共に行く手を塞がれる彼の姿を、腕を組んで傍観していた。 警護といっても形式的なものであるから、シバリスなどはこれ幸いと、女の子と踊りまくっている。あれだから、彼は功績の割に出世できないのだ。 彼は意外と長生きをしてしまって、年を取ってからろくでもない名誉職に祭り上げられるタイプであるような気がする。今の騎士団長がそうだ。なまじ人付き合いがよく宮廷向けであるために、一番騎士らしくない地位へ持ち上げられてしまうのだ。 逃げ口上もなく騎士であるバートレットは、もとよりダンスの仕方なぞ知らぬ。別段豪華な料理を「楽しもう」という気もないので、こうして仏頂面をして、華やかなだけの会場をぼんやりと眺めているわけであった。 比較的地味なイステル公国の宮廷においてですらこうなのだ。トリエントーレなぞへ行ったら、自分は発狂して百人切りをするだろうと真面目に思う。それとも最近のこの虚しさからすると、宮廷付きの騎士などさっさとやめてしまうだろうか。 それにしても、女に囲まれた卿を見ているのは業腹だった。彼が情けないくらいにこにこしているのを見ると、胃がむかむかする。 一体何がそんなに楽しいのだ。生存とはそこまで嬉しいものか。 自分を地獄の生に追いやった者が、同じその無神経な感性で人生をむさぼっている。今更ながら、やっぱり刺し殺せば良かったとこの過激分子は思った。 一度ならず、二度までも、あの男は自分を生かし、善いことをしたと独善に浸っているにちがいない。 あちらの教会法では、自殺は厳禁。自殺すると「明日の王国」に入れてもらえないという宗旨だそうだから、公国騎士団の早死にの美学など、とんでもない部類の思想ということになる。 そう考えれば、彼の思い違いはその文化のせいとも言えるのかも知れないが――。 いや! 知らないはずがない。賢人書院を出た男が、騎士団の独特の生死観を知らなかったはずがない。それなのに、彼はそれに敬意を払ってくれなかったのだ。 その美学を愚かと思い、―――― 笑ったのだ。 「思いやり」が聞いて呆れる! 口の中で散々毒づいていると、その「お節介野郎」と偶然視線が合った。どういうつもりなのか、彼は貴婦人連を振り払って、こっちまでわざわざ歩いてくる。 一体この男はどこまで無神経なのかと、バートレットはうんざりしてそっぽを向いた。 アルアニス卿は直接彼女とは対面しないで、すぐ隣のテーブルに並べてあった杯に手を伸ばしながら、 「こんばんは、ご機嫌いかがですか」 と、目下のバートレットに向かって馬鹿丁寧な挨拶をした。 「あんたのおかげで最悪だ」 私の痣を増やす気か、とこっちを睨んでいる女達を眺めながら、口の中で付け足した。 「あなたは踊ったりしないのですか?」 「公務の最中だ」 「彼は?」 卿の指さす先に踊り狂うシバリスの姿が、バートレットを気鬱にさせた。 「あれは例外」 「いたた」 少し遠くにある、蜜を取ろうとしたアルアニスが、ぎくりと身体を強張らせる。 「何だ?」 「昨日打ったんですよ」 と、老人みたいに苦笑いして彼は答えた。 「腰を」 「…………」 バートレットは軟弱な男が嫌いだ。眉をひそめる。 「情けない」 「全くです。少し運動したりするとすぐに全身がきりきりしましてね、今も実は、腕やら足やら筋肉が痛くてたまらないんですよ。あなたは、こんなことないでしょうね」 彼の愛想には応えず、彼女は冷淡に語尾をさらった。 「アルアニス卿、あちらでご婦人方が待っておいでだ。行かれたらどうだ」 アルアニスは、ちらっと今までいた方を面倒くさそうに眺めた。 「戻らなくちゃいけませんかねえ」 「ここにいても話すことなんかないだろ」 素っ気ない彼女の言葉に、アルアニスは黙った。杯の中の赤い葡萄酒に目を注いで、しばらくじっとしていたが、ふいに気取りのない調子で口を開いた。 「私たちは、お友達になれないでしょうかね」 あまりの言葉に口が開いた。無論、呆れたのだ。 自分の立場が分かっているのだろうか。一体私のことをなんだと思っているのだ。 「お断りだ……!」 バートレットは初めて彼の方を向いて、せき込むような口調で言った。この男はふざけているのか、と思う。 「そうですか。では、退散します」 アルアニスは静かに頭を下げると、最後にもう一言、 「残念です」 と加えて、立ち去った。 急にざわめき始めた空間の中、一段と厳しい表情で、彼女は宙を睨み続ける。 一体あの男はなんなんだ。こちらの憎悪が分からないのか。 友達だ? どこからそんな発想が出てくる。 話す度にかき乱される。自分にはオッシア・アルアニスの手が読めないのに、自分だけが一方的に影響されているような気がして、損をした気分だった。 あの男には自分の考えていることがみんな分かっている。白い手で、頭を押さえつけられているような感じだ。 馬鹿にしやがって。 舌打ちをし、目線を大きく反らすと、いきなり視界に三人の男の姿が飛び込んできた。何とも不穏な目つきをした、トリエントーレの若い騎士達だ。 バートレットは、たじろぎもせず、自分を囲む三人を冷たい瞳で見返した。 「キーツ少尉、いくつか尋ねたいことがある。外へ出られよ」 一番年上らしき男が、へたくそな公国語でそう言った。他の二人は押し黙ったまま彼女を見ている。 バートレットはしばらく無言で三人とにらみ合っていたが、やがて無表情のまま、壁から背を離した。 険悪な雰囲気を発散させながら、四人は賑やかな宴会場を出る。 |