楽園帰還( 3 )




 調査室の杉の机は、真ん中が少しへこんでいる。劣等生を前にして話しているうち、熱心な調査官殿が激昂してばんばん殴るからだ。
 バートレットが机の前に座ってから、今ばしりとやったのを数え合わせて、五回目だ。ヒゲ面の調査官は血管が切れるのではないかと心配になるほど、首から上を真っ赤にしていた。
「何度も聞くがお前は一体何を考えとるんだ!
 この大事な時期に、これからが本当の両国友好だと、あまつさえ宰相の滞在なさっているという今この時期にトリエントーレの騎士と刃傷沙汰を起こすとは! 公国の名誉に関わる重大事件だぞ!」
 声は裏返って聞きづらいが、彼の言うことに間違いはない。同僚が負傷させられたと聞いて、トリエントーレの騎士達の間に不穏な空気がわだかまっているのだ。
「向こうが挑発し、向こうが先に抜きました。私は自分の誇りを守ったまでです」
 バートレットは低い声で、そう言った。それを聞いて、調査官は嘲りに鼻を鳴らす。
「お前に誇りなどという言葉を使う権利があるのか。臆病に魂を売り渡してのめのめと生き延びている卑怯者のくせに!」
 ……そうだった。
もう自分には、誇りなどという美しい修辞は使えないのだ…。
 そう考えながらも、彼女はどこかぼうっとしていた。気をつけていないと、調査官の面前で、目の焦点がずれてしまいかねない。
「貴様の処分は、騎士団長殿と話し合った後、決める。今までの武勲に免じて前は軽く済んだが、今度こそは放逐も覚悟しておけ!
 ……下がれ!」
 立ち上がった。調査官の言葉が単なる脅しではないと、充分に理解しながら、やはり何の感慨も湧かない。演技者は自分のはずなのに、客席で芝居でも見ているような異常な平静さが、彼女の心を涼しく満たしていた。
 この感覚の麻痺は深かった。トリエントーレの騎士達と川辺で剣を交えながら、相手の腕から赤い血が散って、そこから白い骨がのぞいても、全ての結論は出尽くしたかのように、何もかもがありきたりで真実ではなかった。
 同じように、今までであれば自分の日常に甚大な動揺を与えたであろう言葉が、単なる風として耳元を通り過ぎてゆく。現実の砂粒は指の間から零れ続け、頭の中に立ちこめた霧はあの日から晴れることがない。太陽は一体……、どこへ消えた。
 バートレットは変だった。自分でもおかしいことが分かるけれども、どうにも出来ない。ここから出ていきたいのかも、もはや分からなかった。無感動と、無気力と、彼女の瞳は濁っていた。
 戦場へ行きたい――――。
ただそんなことを考えた。たった一つの現実が、死が、厳然と自分を待ち受けている戦場に戻りたかった。そうすれば、今度こそ自分は何よりも熱い、それでいて冴え冴えと澄んだ、あの光り輝く真実をつかみ損ねたりしない。
 ここにはない。ここにはないのだ。
昔はあった。……それなりに。
 少なくとも自分を取り巻く日常を疑問に思わない程度に様々な真実が、あったはずだ。今となっては何がそれを感じさせていたのか、もう分からないのだけれど。
 半ば呆然と考えながら、ノブに手を伸ばすと、一瞬早く外から、別の手が扉をさっと開いた。
 その向こうに姿を見せたのは、赤い肩掛けを羽織った初老の騎士団長だった。条件反射で踵を鳴らすバートレットに、困惑の一瞥を与える。
 騎士団長と、彼女の死んだ父は、かけ出しの頃からの親友だった。旧友の娘が続けざまに不祥事を起こしたことに、優しい彼は正直困っているようだった。
「……キーツ少尉。もう少しここにいたまえ」
「騎士団長殿。どうなすったのでありますか」
 調査官の驚きには直接答えず、彼は一旦扉の向こうで身を退いた。
 すると、彼の後ろにもう一人、男が立っていることが知れた。
 それが誰だか分かったとき、バートレットは一気に白昼夢の世界から叩き出された。
「……知っておろうが、トリエントーレの宰相、オッシア・アルアニス卿だ」
 卿の後ろから室内に入った騎士団長は、扉を閉めると重々しい響きでそう言った。
 調査官は慌てて踵を鳴らし、敬礼した。アルアニスは、横に立つバートレットには目もくれず、調査官に向かっていつものようにゆっくりと慇懃に文官の礼をする。
「いきなり押しかけて参って申し訳ありません。今回私どもの軽はずみな騎士が起こした騒動について、いくつか身勝手なお願いがございます。調査官殿にはご多忙の折に、さぞご迷惑でしょうが」
 調査官は驚きのあまり、口もきけないでいた。救いを求めるように、騎士団長の方へ視線を泳がせる。
 騎士団長は自分が主導権を取ったほうがいいらしいことを察すると、咳払いを一つして、とにかく卿を椅子に座らせた。それは調査を受ける問題児が座る椅子だったので、いささか奇異な構図であったが…。
 バートレットは青い顔をして、自分の代わりに腰を下ろしたこの隣国の宰相を見下ろしていた。
 アルアニスの方は彼女のことを空気のように無視していた。冷静で的確な公国語には、生まれた時から話しているかのように不自然なところが微塵もない。
「調査官殿。私のごとき他国の者が、この国の騎士団の内情に口を出すことの非常識を、よく存じております。
 しかし騎士同士の衝突という本件のもたらす影響は、彼らの愛国心と仲間意識が強いだけに甚大です。
 今回のいざこざが、せっかく実現した両国の友好を損なうような事態になるということだけは、絶対に避けねばなりません。この一件については繊細な対応をお願いいたします。
 ……もしも仮にどちらかの処分が片方より重いということになれば、お互いの騎士達の神経に触れ、誤解や悪意が生じるでしょう。ですからもしもですよ、私的な喧嘩をした以上の咎をそちらの騎士殿に課すということになれば、私どももそうせねばならず、ところが処分が重ければ重いだけ、騎士達の不満は増すことになるのです。
 ……お分かりですね。
この一件は、両国の広大な友好の前には極めて微少なものです。軽微なものを、軽微なものに留める努力をどうか、怠りなきよう」
「ということだ、中佐」
椅子の後ろで、騎士団長が調査官に頷いて見せた。
「私的な喧嘩に対する懲罰は、何であるか」
「は……、一晩の軽営倉入りでありますが……」
「では、その通りにするように。分かったな」
「はっ……」
 調査官は明らかに不満げな様子だったが、目の前の二人に反駁するわけにもいかず、肯んじた。アルアニス卿は、すると初めてにっこりと笑みを浮かべ、
「ありがとうございます。調査官殿のご好意には深く感謝いたします」
と、立ち上がって礼を言った。調査官も慌てて、照れくさそうに再敬礼する。
 騎士団長が先に立って扉を開けた。卿はもう一度頭を下げると、一人で部屋を出ていった。残った騎士団長は取っ手を押さえたままバートレットに向き直ると、
「準備をして、昼までに軽営倉へ行きたまえ。自分のしたことと、宰相殿の示された寛大の意味をよく考えるように」
と、どこか厳しくしきれないような調子で言い渡した。
 二度目の調査室を飛び出すと、バートレットは猛然とアルアニスの後を追った。突き当たりの調査室から延びる廊下は一本なので、迷いもせず出口の方へと向かう。石畳に皮の靴底が立てる音が、廊下のドームに殷々と反響した。
 卿は部下の騎士を一人だけ連れて、のん気に歩いていたのですぐに追いついた。騎士が、むっとしてバートレットを牽制しようとしたが、アルアニスが頷いて止めたので、不承不承身体を引っ込める。
「こんにちは、少尉」
 この痩せ男の神経も普通ではなかったが、バートレットは彼の挨拶などまるきり無視して噛みついた。
「どうしていつも余計な真似をする!」
 するとアルアニスは少しだけ眉を上げる。
「あなたのためにしたのではなく、両国のためにしたのです。もともと喧嘩などなければ、いまいましい私の出番もなかったのですよ」
「私が何をし、どんな罰を受けようが勝手ではないか!」
 彼女の乱暴な言葉に、彼の声は背筋を正した真面目なものとなった。
「……バートレット。
 あなたは、あなたに目を掛けておいでの騎士団長殿に対して恥ずかしくないのですか。自分が人を無用に傷つけたということをちゃんと分かっていますか。
 あなたは、もう少し、自分の人生を大事になさい」
 バートレットの頬にカッと血の気が昇った。
「恩着せがましい顔をしないで! 誰のおかげで大事でもない人生になったと思ってるの!」
「貴様、誰に向かってそんな口をきいている!」
 それまで我慢していたトリエントーレの騎士が、とうとう口を出した。だが、卿は頷くように視線を送り、彼をすぐに黙らせてしまう。
「そのことについては、確かにあなたに余計な真似をしました。しかし――――」
「あら分かってたの!」
 バートレットは燃えていた。この男の前にいると心地よいほどに魂が燃えて、全ての物事は明瞭になる。
 だから彼女は怒りながら笑みさえ浮かべて――、言い過ぎたのだ。
「知らなかったのかと思ったわ! 
 一人無様に生き残っても女に囲まれヘラヘラしているような無神経だから、分からないのかと思ったわ!」




 ―――― しんとなった。
バートレットは、アルアニスの顔からさっと光が取り除かれるのを見て初めて、自らの過剰を悟った。
 心臓を一突きにされて、卿はしばらく言葉もでないようだ。そんな彼は初めて見る。バートレットはさすがにしまったと思ったが、もう遅い。
「―――― き……!」
額に青筋を浮かべて、騎士が剣の柄に手を掛けた。
「貴様ァ!」
 剣の身に金色の太陽が跳ね返った刹那、下を向いたままの男の声が予想もできない程の稲妻で、びしりとその騎士の頬を張り飛ばした。
「控えなさい!! お前の口を出すことではない!」
 頑健な騎士の身体がぎくりと震えて、半分抜かれていた剣は自らの重みで鞘へと戻った。カチン、と音が鳴る。
 共鳴する天井の下、怒鳴ったのがアルアニスだと認識するまでに、しばらくかかった。それほどにそぐわない、突然の春雷のような激しさだったのだ。
 やがて、いつもの落ち着きはらった、だがどことなくびりびりとした声で、卿はぼそりと呟いた。
「誰にでも失敗があります」
 アルアニスは斜め下を向いて、彼女を見ようとしなかった。その肩が、ほんの僅かだが、震えている。耳の下に、自分のつけた赤い線が一本、目に入った。
―――― この男にもやはり爆発が、あるのだ。
 バートレットにとっては永遠ほどに長いその一分間が過ぎると、卿は黙ったまま、卒然と歩き始めた。
 かなり遅れて、騎士がその後をあたふたと追う。それでバートレットは独りになった。
 足下に自分の影が伸びている。仕方なく自分も歩きだそうとして、初めて両手がわなないているのに、彼女は気がついた。
 春の光の下で、一体自分は、何をしているのか。
涙が出そうになった。




+






 営倉の立つ、後ろを林に遮られた一画の夜は深く、重い。時々ヨタカの鳴く声がしなければ、足下が分からなくなるほどだ。
 営倉の中には彼女以外に誰もいない。板張りの床に腰掛けて、背中に夜の冷たさを感じながら、バートレットは目を開けたまま、けれど半ば眠っていた。
 やがてその眉がひとりでにだんだんと歪んできた。何かを振り払うかのように立ち上がる。狭く、薄暗い部屋の中をせわしく行ったり来たりすると、終いに奥の壁を力任せに叩いて、
「うるさい!」
と怒鳴った。
「うるさい! うるさい!」
人生を。
「うる…!」
「やかましいのはどっちだ」
 びくっとして振り返ると、男が夜食の盆を片手に呆れた様子で立っていた。ランプに照らされた顔は、シバリスだ。
 差し入れは原則禁止だが、軽営倉であるからこんなサーヴィスも親切と、袖の下次第なのだ。
「おおー、暗い。さすが営倉だ。いい経験してるなあ、お前」
と、こんな時にもこの男は明るい。
 バートレットは向き直って、無愛想に腕を組んだ。
「外とかわりゃしない」
「負け惜しみだ」
「それなら試しに代わってやる」
「あ、またの機会に」
 シバリスは夜食を堅い寝台の上に置いて、そのままそこに腰掛けた。
「おー、ひどい匂いだ。さすが営倉」
 兵士達は営倉に入ることを「臭いとこに寝る」と言う。それは夕方には消されてしまうろうそくが粗悪品だからで、その脂ぎった嫌な匂いが部屋のそこかしこに染みついているのだった。
 大体騎士は滅多に営倉になどお世話にならないから、シバリスは珍しがっていた。
「何しに来た」
 彼女の口調は柔らかくならない。
「それはないだろ。お前がさぞ寂しかろうと思って、様子を見に来てやったんじゃないか」
「今夜は非番だろうが。麗しきラエティア嬢が寝室の窓開けて、お前のおいでを待ってるぞ」
「だろうねえ」
「さっさと行けよ」
「もう遅いさ。時間の感覚がなくなってるだろうが、今、夜明け前だぞ。……ははは、怒ってるだろうなあ、きいきい言ってるだろうな、あの女」
「あほ」
 シバリスは頭の後ろで手を組んで、背中を壁につける。
「お前とはそれこそガキの頃からの付き合いだが、一緒にいてくれとは言われたことがないな」
「それならそう頼む女のところに行けばいい話だ」
すると彼はおどけた顔つきで眉を上げて見せた。
「おー、そりゃそうだ。俺も時々は、そう思うんだよ。
 ……本当になあ、接吻しても喜ばず抱いたところで楽しまず、かわいくも無邪気でも優しくもないお前と、どうして俺は一緒にいるのかね。自分も酔狂だよ」
 バートレットは壁を見ていた。そしてやはり、この友人でもあり愛人でもある曖昧な関係の男の話を聞きながらそれでも、ぼんやりしていたのだった。
「おい聞いてるか」
「え? なんだ?」
「聞こえなかったのか、ここでやろうかっていったんだよ」
 シバリスが笑いながら立ち上がって一歩、二歩と近づき、彼女の前に立ったが、バートレットは彼を見ようともしなかった。
「冗談だよ。……こっちを向け」
 シバリスが言った。その唇から笑みは消えている。
「お前、一体どうした」
「……なにが」
「愛情に細やかだったなんてまさか言わんよ。しかし、こんな扱いを受けたのは初めてだ。少し義理を欠いた行為だと思わないか?」
 それでも彼女が動かないのを見ると、彼は顎を上げ、少しの間考えていたが、屈み込むようにして耳に口を近寄せると、囁いた。
「アルアニスと何があった」
 振り向いたバートレットの唇を塞ぐ。彼女は抵抗しなかったが、シバリスの口元には苦い笑いが浮いて出た。
「あの男の名を出さないと振り向いてももらえないか。屈辱的だな、おい」
 しかし彼がそう言った頃には、彼女の両目にはもう、無関心しか浮かんでいなかった。その視線が、徐々に落ちてゆく。両腕の中に彼女はいて、魂がない。
 シバリスは急に彼女の肩に手を置き、激しく揺さぶった。
「俺といる時にあの男のことなど考えるな。もしも嫌なら嫌と言え! それが礼儀だし、俺は尊重する。
 俺とぶつかれ。素通りするな。聞いてるか、バートレット。お前はどうしちまったんだ。……目の前に立っていて、俺が見えないのか!」
 バートレットの手が、持ち上げられて、ゆっくりと自分とシバリスとを引き離す。彼女は無感動だった。怒っているわけでもなくただ面倒くさく、今は何もしたくないといった感じだった。
 シバリスには、営倉の中の空気が急に冷え込んだような気がした。微かに湯気が立つ夜食の盆ばかりが虚しい。
「なるほど、帰ろう」
 しばらく流れた後、シバリスの言葉がぽつりと、涙のように床に落ちた。
 それからはもう一言も交わすことなく、彼はこの狭い部屋から出ていった。扉が開いて、閉じた後も、彼女はそっちを一度として見なかった。
 喉から、嘔吐のようにどうしようもなく虚しさがこみ上がってくる。
ああ、死にたい。
バートレットは頭を抱えた。
 ……どうしてもどうしても、生きなくてはならないのか。
こんな肉体を抱えてまで。




+






 卿の泊まっている迎賓館は、公邸に隣接して立てられ、その間を広大な庭園が取り巻いている。珍しい平屋建てで、ゆったりとした作りのこの優雅な白亜の館は、宮殿と並んで公爵の自慢の一つだ。
 朝早く、白く光る日射しが庭から差し込むテラスの先で、アルアニスは寝間着姿のまま散髪をしていた。彼は椅子の後ろで鋏を振るう男に全てを任せきり、目まで閉じて、浴槽に身体を浸すように春の朝に溺れていた。実際、今なら暗殺も簡単そうだ。
「散髪か」
ふと、そんな声が卿の鼓膜を打つ。
 ゆっくりとまぶしい瞼を開けると、目の前に見覚えのある男が立っていた。近づいてくる足音は聞こえなかったが。
「おはようございます、シバリス少尉」
 彼の無類の丁寧さを、シバリスは慇懃無礼と見なしていた。口の端を不敵に曲げて、頭も下げずに答える。
「こいつはどうも、ご丁寧に」
 よくここまで入ってこれましたね、という卿の言葉に、シバリスは肩をすくめて見せた。何事にも抜け穴というものがある。建物にせよ人生にせよ、彼はそれを見つける名人だった。
「話があったんだが、そいつの前じゃな」
 彼は、理髪師のことを言っていた。アルアニスは微笑んで、心配のない旨を教える。
「この男は耳が聞こえません。宮廷理髪師の必須条件ですよ。お話とは?」
 その間にもまだ年若い理髪師は、公国の騎士など目の前に存在しないかのように黙々と作業を続けている。
 了解したシバリスは、テラスの中にまで新芽を伸ばした椿の葉を力任せに一枚むしり取ると、いつもとはうって代わって真面目な面持ちで振り向いた。
「バートレットを助けてやってくれ」
 じょきり、と鋏が鳴いて、砂色の髪の毛が微かな音を立てて床に落ちた。
「あんたのおかげで俺は恥かいたよ、みっともないったらありゃしねえ。あんたもてるから、女抱いてるつもりで霞抱いたことなんかないだろ」
「大きな水枕ならあるんですけど」
「ざけんじゃねえよ」
「ああ、すみません」
アルアニスは慌てて冗談を取り下げる。
 円形のテラスを囲む塀に浅く腰を下ろして、彼は呟いた。
「あいつ、病気だ」
アルアニスの灰色の瞳が、シバリスを見やる。初めてこの男に興味が湧いたふうだった。
「死の病だ。
 最初は、生きて帰った不名誉がただ奴には深刻だったのかと思っていた。なにしろあいつは優等生だから、そういう失敗に耐えられないで暴れているのかと思ってた。
 …もちろんそれもある。しかし、おかしい。それだけじゃない。
 あいつは今、どこか夢でも見てるみたいだ。…あんたと向かい合っていない時にはまるで、それこそ…。死んでいるみたいだ」
 シバリスは首を鳴らした。それから回り込むように、卿の痩せた顔に一瞥を投げる。
「……一体、何があったのかな。あんたとあいつは」
「…………」
 だが、卿は無言だった。彼も、彼と彼女を結ぶ妖しい赤い糸を、シバリスに広げて見せてはくれないのだった。
 一切の事情から疎外された騎士の口元が、ほろ苦い笑いに歪む。
「そ、一旦起きた過去に俺の入り込む余地はないよな。…悔しいから腹いせに」
シバリスの目に、青白い殺気がひらめいた。
「あいつの代わりにあんたを割ろう」
 突如、シバリスは野獣のバネで跳ね上がり、瞠目する暇すら与えぬ速さで細身の剣を一気に抜いた。アルアニスの口が呆然を頬に刻んで開かれる。
 踊るようななめらかさでシバリスは腕を振り上げると、
「しゃっ!」
間髪入れず卿の脳天めがけて一筋に斬り下ろした。理髪師が恐怖に息の飲む音が、零れるまま刃にあたって二つになる。
 ばん! と激しい音がして、風が止まった。
剣は、顔の前にひらり構えられた卿の白い右手の前、その薄皮一枚ほど手前で止まったまま、アルアニスは無傷だった。
まるで掌で受け止めたみたいに見える。
 白刃がシバリスの顔を二つに割っていた。アルアニスの顔は手に遮られて、鼻から上しか見えない。そのままの姿勢で、二人は数瞬の間にらみ合っていた。
「……ああ、びっくりした」
 口元を緩めて、先に声を出したのは卿の方だった。
「速いですね」
「一分間九十五韻とは本当らしいな。切り込んだ相手に赤色結界を張られたのは初めてだ」
 言いながら、彼もようやく剣を下ろし、さやに収めながらにやりと笑った。
「……いいね、本当に速いねあんた。戦場をかなり駆け回ったクチだろ。学士面して人殺すのも結構好きなんだろ」
 卿は唇の両端を少し持ち上げてみせただけで、別段否定しなかった。
「賢人書院には二百韻という化け物もいますよ」
「世界は広いことだ。しかし、これで確信した。…あんたがあいつを生かしたんだ。違うか?」
 アルアニスはうっすらと微笑んで、逃げた。…頭のいい男だ。公国騎士団にはもったいない。と、このいささか人の悪い術師は胸の中で考えた。彼は人から思われているほど優しく謙虚な学者ではない。
「……あなたは彼女を愛していますね」
「性処理の相手に入れ込むなんてと笑いたきゃ笑え。全てのことを笑い飛ばすつもりで人生を織ってきても、こればかりは、…どうにもならん」
「本当に」
「あいつはあんたが好きなんだよ。自分では気づいていない大馬鹿者だが」
「…………」
 アルアニスは片眉を上げた。それはどうだろう、という感じだ。シバリスは言い直した。
「とにもかくにも、執着してる。だからあんたを殺れないんだ」
「ああ、それなら……」
それを無視して、彼は一気に踏み込もうとする。
「あんたはどうなんだ」
「そうではないでしょう」
「そうかい。では、そもそもなんで助けた? あいつのことを。
 たかが公国騎士の一人が死のうが死ぬまいがあんたには関係なかろう。
 そして今もかばい続けているのは単なる国策か? それとも、なんらかの償いのつもりか」
「しばらく」
 つと卿が手を上げて、話を中断するように求めた。散髪が終わったのだ。
 理髪師が身体についた髪の毛を布で素早く叩き落とすと、アルアニスは立ち上がった。もともと短かった彼の頭髪は、まるで聖職者に見えるほど刈り込まれてしまっている。これ以上人をだましてどうする気かと、シバリスは唇を曲げた。
 アルアニスは、座っている彼の隣まで滑るようにして近づいてくると、椿の青い芽に触って、そのまましばらく考えを巡らしていた。
 ゆったりした綿のローブから、東方系の香りが仄かに流れ出ている。この男の東方びいきは有名で、彼はあの暗黒の地とは敵対するという従来の政治慣習を見事に破って、国交と交易の開始を決定した初めての執政官だ。
 そしてまた、東方の人間のように彼も一体何を考えているのか分からないようなところがあった。やがてこのつかみどころのない男は、何事か決意したらしく、口を開く。
「そのお話の前に、言っておきたいことがあります」
「何だよ」
「私はイステル第三公女ゼノヴィアと結婚します」
 シバリスはあっさりと告げられた重大な秘密に、思わず唖然と開いた口を、手で覆った。
「ああ……!?」
それからやっと、大きな声を出す。
「ここの公爵家とは縁続きに」
 アルアニスの方は、むしろ淡々と天気の話でもしているみたいだった。
「今日辺りに発表、……三日後には婚約式を行って、私は一旦国元へ帰ります」
「ああ、それで散髪か……」
 イステル公国では婚約式は清潔を第一に行われる。婚約式はこちらの形式で、結婚式はトリエントーレのやり方で行うということになったのだろう。
「しかし……、随分と年が離れているだろう」
「十三年ですね。ですが公爵のたってのご希望で……」
 親バカめ、とシバリスは不敬にもため息をつく。そのまま、両腕で身体を抱え込むようにして、少しの間、目を閉じていた。状況の把握に努めているのだ。
「ですからね、私にはもう、彼女を好きとか嫌いとか、言ったところで意味がないんですよ」
 つまり、そこは聞くなということであるらしい。興味はあったが、シバリスは譲歩した。
「……なるほど、あんたはもう死の淵から歩き出しているってわけだ」
 彼は口元から手を離し、顔を上げた。
「だがあいつはまだだ。行くならかたを付けてから行け。…あいつは弱い。あんたとは違う。
 命を助けたことで責められるのは割にあわん気分だろうが、…とにかく、あいつに働きかけることが出来るのは、今のところあんたしかいないんだ。
 救いが必要だって分かってるだろ。バートレット相手には結界も張らずにやりたいように暴れさす、あんたには」
「でもシバリス、それはあなたの役目では」
「俺に出来りゃあ、誰があんたなんかに頼むか」
 そのきっぱりとした、少しだけ八つ当たりのこもった言葉に、目を地面に向けたのはアルアニスの方だった。バカなことを聞いてすまなかったと思っているようだ。
 それにしても彼が考えている姿は、賢人書院でのかつての彼を彷彿とさせるものがあった。塵芥にまみれた現世の政治に携わり、自ら政略結婚の駒となっても、彼はあくまでも学者であり、恐らく自分でも嫌になるほどどこまでも冷静なのだ。
「言いたいことはこれで全部だ。じゃあな」
 シバリスは話が終わると、やってきたときと同じように、さっさと引き上げようとする。卿はまだ考え込んでいて、すっかり哲人の風情だった。
 テラスを出て、椿の茂みに消えようとしたシバリスは、そこで足を止めて、振り返った。
「……おい、大きな水枕って何のことだ?」
 シバリスの立っているところからは、卿は緑に囲まれているように見える。その新緑をまとった哲学者はゆっくりとこちらに視線を送り、奥歯を食いしばるようにして、微かに笑ったようだった。
 そうか。と、シバリスは再び彼に背を向けながら思った。
 あれが、妻と子をなくした男の浮かべる微笑か。
 バートレットにとってアルアニスが火薬であるように、彼もまた心の中に火薬を、癒しきれないかさぶたを、抱え込んでいるのだ。




 すばしこい騎士の背中はすぐ見えなくなった。小鳥が鳴いている以外は、とても静かだ。一日こうしていたいものだが……。
 どうして私を助けた、と、彼女も言っていた。
なぜ助けた。
 なぜ ―――― なら。アルアニスはまぶたを閉じた。
 うずくまった流れる髪が、あの燃えるような紅い髪が私に有り得ない夢を見せたので。
 何をおいても守り抜こうと、思っていたものが確かにそこにあったのに。
 ……幻覚だったのだけれども。
 卿は自虐的な微笑みを浮かべた。
やれやれ……、私はさっさと結婚してしまわなくては。どうかすると、あの美しい騎士の中に、膨れるばかりの無言の幻に、妻の面影をまた何かしら上手に見つけだして、うっかり愛してしまうかもしれないから。
 厳しくなり始めた日射しに背を向けて、卿は準備に部屋へと戻った。





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