楽園帰還( 4 )




 次の晩の舞踏会には、宮廷を一月は飽きさせないような余興が準備されていた。
 かのアルアニス卿が女性連れで現れたのだ。それだけでも人々は諸手をあげて喜んだろうが、長身の卿の腕にぶら下がっているのが十六歳の公女だったことが、ざわめきにさらなる拍車を掛けた。
 公女ゼノヴィアは、自分の欲望に素直に振る舞うことに抵抗のない、そしてそれが当たり前だと思っている甘やかされた娘らしい愛嬌で、彼にべったりくっついている。卿は優しく微笑んで、彼女のしたいようにさせていた。
 その図は、恋人同士と言うよりも、年の離れた兄妹といった方がかなり適当だ。しかし男女の情愛を感じさせないその清潔感が、かえって宮廷の好意を煽っていた。
 父親の公爵はといえば、にこにこと至極ご満悦のていで、この自分と十五しか年の離れていない男と、最愛の娘とを後ろの方で見つめていた。
 あらかじめ聞かされていたので、シバリスは驚くよりも、宮廷の趣味の悪さに内心で舌を出した。お上品に育った人々は時々集団で、庶民もびっくりの俗悪な好みを見せることがある。三十近くの男やもめと十六の子供とを政略でくっつけておいて、清らかなことよため息をもらしたりする、その神経が本当に分からない。
 実際に舌を出したままでいると、ふと遠くの卿と視線が合った。アルアニスは初めて破顔して、彼にだけ分かるように小さく肩をすくめてみせる。彼もまた、同様な感覚に育った人間であるらしい。
 シバリスは皮肉に笑って片手を上げると、壁から離れた。軽薄な賑やかしさに背を向け、奥へと進む。営倉から出て二日目のバートレットが、会場の一番奥にいるのだ。
 彼女は、壁に背をつけたまま固まっていた。目を大きく見開いて、遠くで繰り広げられている、これ見よがしな祝祭を眺める様は、むしろ驚愕しているように見えた。
「よお」
 シバリスがそう声を掛けると、バートレットは初めて彼の存在に気がついたらしく、びくっと四肢を震わせた。
「どうした」
「別に」
 言うや、バートレットはいきなり壁を捨てて足早に歩き出した。シバリスは黙って後を追う。
 大理石の床を蹴り、石畳を蹴り、階段を後ろに砂利を蹴り、バートレットは暗い中庭を進んでいった。
「待てよ、おい」
シバリスの声が後ろから追いかけてくる。
 そして円形の広場まで達すると、奇しくも数日前、アルアニス卿を責め立てた木の幹を右手で叩き、やっと彼女は立ち止まった。
 追ってやって来たシバリスに、どうして自分がここにいるのか説明するように、彼女は吐き捨てる。
「あんまり最低な姿だから気分が悪くなった!」
「何が最低だ?」
 静かにそう尋ねる彼の顔は半分闇に溶けて、残る一つの目がぎょっとするほど冷ややかにバートレットを見つめていた。
「死んだ妻子のことを忘れて締まりのない顔をしているあの姿だ!」
「にこやかにしているだけだ。相手は公女だぞ」
 だが彼女は、まるで彼に落ち度があるかのように噛みつく。
「だいたいそれだ! 十何年も離れた娘との婚姻なんて、いくら公女相手でも断るべきだろう! それが妻子への義理立てというものじゃないのか?」
「お前はあの男に妻のことを思いだして欲しいのか」
 その不躾なほどの率直な問いに、彼女は初めて彼の冷酷に気がついて、急に寒気を覚えた。
 思わず黙りこんだバートレットに向かって、シバリスはにこりともせず、いつもは甘いほどに優しいその瞳が今はかつてないほど容赦しなかった。
「違うだろ。知りもしない妻子のことを引き合いに出す卑怯に逃げ込むな。
 お前は奴に自分に対する責任を思いだして、結婚を思いとどまって欲しいだけなんだよ」
 風が吹き抜けたが、梢の鳴る音は耳に入らなかった。
 シバリスは、バートレットの執着に、一つの名前を付けてやったのだ。
彼女が愕然とし言葉を失うような名を。
 そしてここにきてやっと、彼は彼女を突き動かし、揺り起こし、黙り込ませることに成功したのだった。
 彼女は顔を紙みたいに蒼白に染め、開かれた唇からのぞく暗黒は深く、眉はゆがみ、彼の言葉に全身で衝撃を受けていた。それこそがシバリスがずっとしようとして出来なかったこと、いとも簡単にアルアニスには出来ることだ。
「ち、違う!」
 虚しい叫びが彼女の渇いた喉からほとばしるより先にシバリスはふ、と笑った。
 それは戦場で彼女の叫びを笑ったあの男の、あの嘲笑と同じ強さで、バートレットを狼狽させる。
「私はただ……!」
 彼女は動転して、それぎり言葉が出てこなかった。どうしてシバリスがあの男と同じ表情で、私の前に立ち、憎くてたまらないあの男をお前は愛しているんだなどというのか。
 どうして、どうして、―――― どうして私は彼の言葉を一笑に付すことが出来ない。戦場に出かけてゆく朝、今までの未練の一切をきっぱりと断ち切るように、シバリスのこの微笑を切り倒すことが出来ない。
 この自分は何者だ。こんな自分を私は知らない。そして目の前にいるのは何者だ。こいつもまた、あの同僚のシバリスではないのか。…全てが少しずつ、あの日から変になってしまったのだ。
 まるで死に神に会いでもしたかのように自分を見るバートレットに、彼はたまらず瞼を閉じた。
 この紛れもない沈黙の、失語の中に、アルアニスの暴いたバートレットがいるのだ。王道を一気に掛け昇ってきた実績と自信のゆえに、一度陽の当たる道を逸れると別の道を見つけることの出来ない純血で、美しいけれどもろく、壊れやすい公国騎士の姿が。
 そして虚無から救われるために、過剰にアルアニスへの怒りにすがりついている卑屈な精神が、その姿が。
 今まで誰もそんな彼女を知らなかった。そして死んでいれば知られずに終わったのだ。けれどアルアニスは彼女を生かした。
 今バートレットから彼への執着を抜き取れば、彼女は死んでしまう。
 シバリスの眉間に、苦しげなしわが寄った。
―――― アルアニスを愛せ。そして生き返れ。自分の元にいなくてもいい.。生きていればそれでいい。
 他のことは笑って済ませられる。
どうにでもなることだ。
 人生でどうとでもなることは、自分にはあまりにも多い。自分が嫌になるほどだ…。
 それなのにたった一つ、何をもってしてもその代わりにならぬ心の中の宝石が、他人の冷たい手に握られているというこの苦しみはどうだ。
 それ例えば一つの死とは、こんなものなのかもしれない…。



 シバリスは、そのままゆっくりと、身体を反転させた。そして、頭を垂れた惨めな姿で、バートレットの前から静かにいなくなった。
 青い春風に煽られてざわめく林の声が、ようやく耳に聞こえてきた。バートレットは自分の手がどこにあるかも分からないような痺れた身体を、ずるずると、木の根本に埋める。
 瞬きが出来なかった。目が、ひんやりと痛くなってくる。
 やがてからからに渇いた喉から、押しつぶされ掠れた叫びが手の甲の上に落ちた。
「恥知らず……!」
一緒に、涙がこぼれた。
「恥知らず、恥知らず……!」
 バートレットは、長い謎めいた白昼夢からようやく覚めたのだった。
 霧は晴れ霞は去り、自分が何者であるか彼女は知った。
 それから死ねばよかった。本当に死ねばよかったと、取り返しのつかない恥を歯にかみしめて、そう思った。




+






 宮廷はそれから二日間、公女の婚約式の準備にひどく忙しかったけれど、騎士団の方は極めて静かで、繊細な団長殿はほっとしていた。
 いたる所に神の祝福が溢れる春は、やがて来るめでたい式にふさわしい季節であるように思われる。
 その香りに手もなくだまされて、誰もが二人は幸せなのだと決めてかかり、公女の方は自分の感情すら欺かれて、自らは無上の愛情を抱いて結婚できる幸福な娘だと思いこんでいた。
 アルアニスはもっと覚めていた。公女の誤解を一生の誤解として、終わりまでだましてやってもいい。
 それが親切というものなら、何も知らずに死ぬのも一つの幸福だ…。
 残酷な彼の胸の内を、誰一人として知らなかった。無知という幸せの上に宮廷は華やぎ、儀式は多くの人を楽しませる余興となる。アルアニスは政治家であるから、演技者だった。それも不幸なことに、名優であったのだ。
 祝宴につぐ祝宴の夜を重ね、婚約式の日はあっさりとやってきた。アルアニスは儀式を済ませるとその足で帰国することになっていたので、どちらの準備もぬかりないよう、使用人達はてんやわんやだった。




 朝、突然シバリスが非番である(いざこざを恐れて外されたのだ)バートレットの部屋にやってくると、派手な儀式用の肩掛けを渡してこう言った。
「ラエティア嬢と逢い引きするんで、任務を代わってくれよ」
バートレットが変な顔をすると、
「大丈夫。入れ替わったって誰にもわかりゃしないからよ。一時間ほど聖堂の北口に立ってりゃいい。
じゃ、頼んだぜ」
と、けらけら笑って出ていった。
 なんだか要領を得なかったが仕方がないので、その祭事用の肩掛けを羽織って、昼、バートレットは聖堂へ出かけた。
 聖堂は三つの出入り口を持つ正方形の建物で、ふさがった東側一方には、荘厳な祭壇が陽の昇る天を指向してそびえ立っている。騎士団出陣の折りにはここで祝福を受けてから出かけるのが慣例となっているので、バートレットにも馴染み深い建物だ。
 少し早く来すぎたのか、北口にはまだ誰もいなかった。ここまで来る通路には沢山の騎士達がそれぞれに正装をして持ち場に着き始めていたのだが……。
 時間ぎりぎりに来ればよかった、とバートレットは舌打ちした。暇ができると物思いに沈んでしまうので、それがうっとおしいのだ。
 落ち着かなく、そわそわと歩き回る。このまま一時間もこうして一人でいるなんて拷問だ。押しつけられた任務など放り出して帰ろうかと、そう思った時、聞き慣れたのんびりした声が彼女を仰天させた。
「おや、あなたには最後までお世話になりますね」
 バートレットは飛び上がって振り向いた。言わずと知れたアルアニス卿が、トリエントーレの騎士を一人連れて、立っていた。
「あなたもご苦労でした。ここまでらしいですから」
卿が言うと、連れの騎士は頭を深く下げて退散する。
「わ、私の任務は……?」
 バートレットは泡を食って彼に尋ねた。卿はこともなげに、
「ああ。式が始まって、鐘が鳴るまで私の警護をお願いします。あちら側には公女が、トリエントーレの騎士に守られてもうそろそろ準備してるでしょうね」
と、答える。
 自分の婚約式だというのに、卿は人ごとのようにあっさりしている。誰も見ていないことをいいことに、手すりに腰を掛けて、「ああ、疲れた」とか、相変わらず情けないことを言っていた。
 バートレットもやがてその落ち着きに引き込まれ、恐らく奇跡のような静けさの中で、黙って彼の側に立っていた。



 「いい天気ですね」
卿の呑気な声がそう言った。どうしてこの低い声があれ程までに憎かったのか、バートレットはただ、「まあ」とだけ答える。他に言葉もなかったのだ。
「……あの日も、こんないい天気でした。婚約日和でもなければ、……死に日和でしたね」
 バートレットは顔を上げて、アルアニスを見た。彼は聖堂の入り口を見てはおらず、あさっての方向を向いている。
「昔、一度大病をしましてね」
 卿の話は右往左往した。少し気ままに喋りたいらしい。緊張しているようにもあまり見えなかったが。
「……ま、簡単に言えば、私は死にかけたんです。でも、助かってしまった。良かったんです、そりゃ。
 ……でも、実のところ、私は死にたかったんです。
 ですから、自分が助かると知ったとき医者に向かって、……余計なことをするなと、そう言ったんです」
 振り向いたアルアニスは微笑んで、バートレットの見開かれた両の瞳を受け止めた。
「だから、バートレット。私があの時笑ったのは、自分を思いだして思わずだったんです。あなたを馬鹿にしたからじゃあないのです。でも、もしあなたの名誉を傷つけたのなら、……それは、許して下さい」
 それはいつもと違う、不真面目な謝り方だった。礼儀正しさを売りとする彼が、欄干に腰掛けたまま頭も下げずに笑いながら侘びを言うのだ。
 悪いとは思っていないような感じに、彼女は口ごもる。どうも馬鹿にされているような気がするが、困ったことに腹が立たない。
 彼女が答えないでいると、急に今まで見せたことのないような誠実な表情をひらりと浮かばせ、卿は続けた。
「自分を美化するようですがね、あの瞬間、――――余計なことをするなと言わなければならなかった瞬間が訪れるまでの、自分の澄みきった、平安な心を思い出すと本当に、……あの時ほど、私の心がなにかしら美しかったことはないと思いますよ。
 それは一種安堵にも似た気分で……、ああこれで自分は死ねるのだ。全てのことがとにかく終わるのだ。
 そして後には、ただ愛する者との静寂だけがあるのだと―――……」
 ふと言葉を切って、皮肉な笑いを見せた。
「これは、なんとも私には似合わない言葉ですね。けれどあの瞬間には確かに似合ったのですよ。ねじれ曲がった私の心すら、それほど美しくなった刹那だったんです、分かるでしょう?
 ……本当に世の中には、あれ程美しいものはあそこにしかきっとない。現世にあるその他諸々の事物は、あれに比べたら子供の玩具みたいなものです」
 卿の顔に嘲笑が浮かびかかったが、失敗して悲しげな影に落ち着いた。
「……私は助かってから、現実が疎ましくてたまりません。今もです。
 生存こそが幸せだなどと抜かす愚かな人間達が、そのくせ時間を浪費しているのをみると腹が立つ。
 その中にいることによってまた、自分ばかりが汚されてゆく気がする。沢山の声が自分をそそのかし背中を押すけれど、本当のものはどこにもない。確かなものは、……なにもない。
 そしてまたどれだけ嫌がっても、私は勝手に堕ちてゆく。見苦しい現実に、身体が自然に適応していってしまう……。私はいやでたまらないのに。
 ……だから、私は自分があなたに何をしたのか、よく分かっているつもりです。
 私の『余計』が、あなたを汚したのです。あなたは死にたかった。それは恐らく、正統性を持たない異端の望みですが、そのさっぱりした、何ものでもない美を、私は知っていました。
 それなのに、私は思わずあなたを助けたりしてしまった。心無い医者の独善のように、あなたを汚しました」
 卿は一度、言葉を切った。欄干から立ち上がって、バートレットの前に立つと、ゆっくりと、そして深々と、頭を下げる。
「本当に、本当に申し訳ないことをしました」
「…………」
 同じように死に損ない、同じようにのっぺらぼうの現実に苦しんでいる人間が二人、聖堂の手前で向かい合った。
 死のもたらす真実に比べれば、目の前の神の家が保証する現世の幸福などなんだろう。永遠の現世などが実現すれば、人間はみな発狂してしまうに違いない。
 生きている限り、人はどうしても堕ちてゆくから。
どうしようもなく下っていく。どんな事情があろうとも。
 いつか卿は妻を忘れ、別の人間をどうしても愛する。どうしても死の美しを忘れる。
 バートレットもいつかきっと力尽きて、現実に甘んじる日が来る。どれだけ嫌でも必ず、その堕落は来る。
 だから死にたいと、神を見上げながらそう願う。
死にたい。ここまでやめたい。もう堕ちるのは沢山だ……。



 アルアニスは長い時間を掛けて、ようやく上体を起こした。
 その時には、彼の柔らかい唇は引き締められ、その喉はもう愚痴をこぼす穴ではない。口調はいつものようにゆったりとしていたけれど、放つ光はがらりと変わっていた。
「……けれどバートレット、死よりも生が地獄であっても、生が敗北であり、その辱めが永遠の責め苦であっても、どうか、生の方を選択して下さい。
 生きることは間違いなく汚れてゆくこと、下ってゆくことです。また実際生存は死よりも手間も金もかかります。面倒くさい。
 さほどに救いもないし、無慈悲なことに、チリほどの真実もそこにはない。
 ……しかしそれでも私は生きると、あなたは言ってくれませんか。
 仕方ないからでもいいでしょう。でもできれば、美しく勇敢に、……あなたにふさわしいように。あなたは」
 遠くで、二人の気も知らずラッパの音が鳴った。じきにきっと鐘も鳴る。現世は遠慮なく、この悲しい人をせき立ててゆくのだ。
「自らの立場を忘却し、かつて私人としての死を愚かしくも切望した私です、残りの人生は公務のために費やしましょう。
 ……あなたは任務に殉じようとなさったのだから、私人としての生を、これからはどうか」
 頷くように、瞳を閉じる。そして、またゆっくりと開いた。
 もはや、アルアニスは戦士の面構えを完全に取り戻していた。視線はもの柔らかだけれども深く、油断なく、唇は少し皮肉に、自らの生存をあざけるがごとく、現実を激しく憎悪しながら、それにおもねらず、蔑視せず、自分を守り抜く。
いつかまたあの完全な静寂へ還る日まで。



 とうとう祝福の鐘が鳴った。彼らにとっては別離の鐘だった。
「……あ、これ脱がないといけませんでした」
 アルアニスはそう言って、黒い肩掛けをするりと外した。婚約の場には、たった一人の人間として望まなくてはならない。俗世での身分証明になるようなものは、全て取り除いて行かなくてはならないのだ。
「すみませんがこれ、どうにでもしてくださいませんか。どうせ、この格好のまま国へ帰らなくちゃいけませんから」
 卿は、そう言ってまだ温かい肩掛けをバートレットに渡した。そして、少し急ぎ足で扉へ向かったけれど、
「ありがとうを」
という彼女のか細い声に、ぴたりと立ち止まった。
「言うわ。あなたに。初めて」
 彼は振り返らないままに、再び歩み始めた。扉が開いて、中から晴れやかな音楽と歓声がバートレットの骨髄に響きわたった。振り向くことができなかった。
 けれど分かる。
卿の細い身体が段々遠くなっていく。
そして獅子の口が閉じるように、両側から扉が閉まって、彼の白い背中を浸食してゆくのが。
 思いやりのない銅の扉が、彼を飲み込んでしまう刹那、バートレットは肩掛けを空に放ると、剣を抜き、それを中空でまっぷたつに切った。
 切れ目から太陽が生まれ出て、両目をぎらりと、まぶしく刺した。
やっと刺した。
涙が流れる。
 目を押さえながら、彼女は神の祭壇の前に婚約者と立つ、闘うオッシア・アルアニスの姿を思った。
 彼の目が、若き公女に優しく微笑む。
その口が、誓いの言葉を重々しく紡ぎ出す。
細い指が少女の頬をなぞり、唇がその熱い額に触れる。歓声に応え、彼は手なぞ上げてみたりする―――。
 その一つ一つの行為が、一時安らかであった彼を乱してゆく。永遠の安寧の代わりに、せわしく、厳しく報いのない現実が、ため息にまで影を落とす。
 そうして刻一刻と、彼は死から遠ざかってゆくのだ。死の病から、否応なく立ち直ってゆく。彼はそれを受け入れ、唯一つの真実に背中を向けて、そして見知らぬ彼方へ、……行ってしまう。





 分厚い銅の扉の隙間から、人々のさんざめく声が漏れ響いてきた。短い婚約の儀式は、無事に、あっさりと終わったらしかった。
 シバリスが黒い布を踏みつけてやってくると、そこに立ちつくすバートレットの肩を静かに抱いた。
「私も随分あそこから遠くなった」
 彼女の言葉に、彼は目尻に涙をためるように、微笑みを滲ませる。
「いつかまた還ってゆくさ。お前はきっと、生まれる前にいた楽園をのぞいたんだよ。
 もう少し遊んでからゆっくり、出直そうじゃないか」






(了)


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