イクよ。
そう知らせてもう我慢するのをやめた。
「いいよ、イけッ!」
男の得意げな声が聞こえた次の瞬間、突き抜ける性感があたしの顎を跳ね飛ばす。
口が開いていたから叫んだのかもしれない。
どっちにしてもあたしには聞こえない。
ほんの一瞬にただ飛ぶことしか考えていないから。
両肩が自然に持ち上がってく。
その瞬間、男に跨って重たいあたしの体はもうどこにもない。
だって飛んでいるの。
飛んでいるんだもの。
高く投げられたボールの気持ちが解かる。
きっと同じような気持ちよさの果てに、がくんと脱力して――――、今度は撃たれた鳥のように、あたしは落下を始めた。
頭から。
「あ―――ん…」
落ちていくときは自分の声が聞こえる。そしてあたしは名実ともに、男の胸板を避けてシーツの上に落ちた。
「つッ!」
その弾みでどこか当たったんだと思う。男は苦しそうに眉を歪めて喘いだ。
「……」
謝りもしないであたしはただ息をしながら、たった今まで浮かんでいた中空の、あの感覚。
飛翔の感触の余韻を貪っていた。
「君は本当に気持ちよさそうにイクね」
髪の毛をかき回す男の手が邪魔だった。
邪魔しないでよ。
ああほら、消えていっちゃうじゃない。
あの感じ。
あの感じが―――――。
「このまま寝ちゃう? 会社大丈夫?」
続く小うるさい言葉に、あたしはぞんざいに手を振った。
「携帯、目覚ましセットしてるから――――」
掛け布団を被り、それ以上会話を続けまいとする。
「おやすみい…」
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あたしはアレ依存症かもしれない。
たまに欲しくて欲しくてたまんない時があるし、欲望のためというよりも逃避の手段としてセックスとは長い間お友達だ。
ストレスがたまった時、食べる人も買う人も眠る人もいるだろう。
あたしは「する」。
そんで「イく」っていうか、飛んでしまえば、結構さっぱり忘れられるのだ。
裏を返せばそれ以外のことはほとんど求めた覚えがない。好きでたまらない人との愛の営みっていうの、あんましピンと来ないんだな。
大体、人を深く愛するってこともあまりない。多分、もともとそんなに恋愛に長けた造りになっていないのだろう。向き不向きって、あるもの。どんなものでも。
あたしは相手もよく変える。
顔が良かろうが不味かろうが、性格が善人だろうが凶悪だろうが気にしてない。
あたしを飛ばしてくれるなら相手は別に女でもいい。いや、マジで。
その代わりどれだけあたしのことが好きでも、上手じゃないと絶対にダメ。他の人がどうだか知らないけど、あたしはただ一筋に、飛びたいのだもの。
「早苗ちゃん。ねー、こっち来てビール注いでよ」
はーい。
「ありがとー。俺ずっと早苗ちゃんとお話したかったんだー」
えー、そうなんですかぁ?
「いつも仕事がんばってるよねー。一生懸命な女のコ、俺好きなの」
ありがとうございまーす。
「なんか困ったことあったら俺に言ってよ。すぐ助けたげるからねー」
はいっ。
「早苗ちゃんって、土日何してんの?」
えーっ? うーん。特には何も…。お買い物とかー、友達とお茶したりとかー。
「料理とか?」
あー、しますねー。
「へー。いいなー。早苗ちゃんの手料理食べたいなー。やっぱ女の子は料理上手なのがいいよねー」
そうですかぁ?
「早苗ちゃん細いよね」
そうですかぁ?
「早苗ちゃん白いよね」
そうですかぁ?
「早苗ちゃん無邪気だよね」
…そうですかぁ?
早苗ちゃんかわいいよね。
早苗ちゃん素直だよね。
早苗ちゃんやさしーよね。
早苗ちゃん純情だよね。
早苗ちゃんがんばるよね。
早苗ちゃんすごいよね。
早苗ちゃんえらいよね。
早苗ちゃんこれくらい我慢できるよね。
許してくれるよね。
早苗ちゃん。
早苗ちゃん。
早苗ちゃぁん。
アア僕はもう…、もうすぐダーーーーッ
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自分の名前がわからなくなるくらい飲んだ。終電の二三本手前で駅についた。
頭がぼんやりしてて、定期でもなければ改札通れなかったかもしんない。ずしりと重い額をなんとか抱えてエスカレータに乗った。
飲みが始まってからずっとあたしに付きまとっていた上司は、あたしがあんまり飲むので途中から裏切られたような顔をしていた。
「早苗ちゃんって、思ったよりも飲むんだねー…」
引いたような口調でそう言ってたっけ。
ふん。
あなたたちがあんまりあたしを苛めるからよ。
あたしを仕事も出来る視姦相手にするからよ。
アホみたい。
あんたなんか性器がついてるだけの役立たずじゃない。女と見れば、抱くことしか考えてない下品な猿…。
そのくせ目の前の女が雌猿だってことにどうして気がつかないの。自分だけは生物として妄想の餌食になっていないってなぜそんなことが信じられるの。
あんたもう32でしょ? バカじゃないの。
もう一生その檻から出てこられないわね。そんでそんな檻の世界に自分から入っていった、あたしが一番バカだ!!
あたしは不愉快で危険だった。
目の前に誰かいたら、蹴飛ばしてしまいそう――――。
ふと視線を上げると、長いエスカレータの先にぴかりと光が見えた。それが、まるで差し招くように瞬くので、
「……」
あたしは思わず一歩進んだ。
すると、
あたしの体はふわりと、浮いた。
今までのどんな一歩よりも軽く、爽快に。
あたしは全身がいつもよりも軽くなったのを感じた。さらに一歩。
ふわり。
一歩。
ふわり。
光景が、信じられないほど早くあたしをすり抜けていく。斜めに痛みなく流れて、まるで電車からの眺めか、そうでなきゃそう、
離陸する飛行機の……
…瞬間、あたしはわけもなく爆発的に思った!
飛べる!
飛べる!
…あたし今なら、飛ベル!!
執り付かれた様に、あたしはエスカレータを駆け上がり始めた。
映画みたいに疾走するBGMを追って。
踏みしめるごと、膝に新たな力が漲っていった。
あたしは人間でないみたいだった。
すんごい気持ちよかった。
イッちゃうと思った。
とうとう今日、超えて行けるような気がした。
いつもいつも超えて行きたいこの、両手を握り締めたくなるような、悲鳴をあげたくなるようなこの―――――― 尋常から!
その時、エスカレータの階段が終わった。
そして気の狂ったあたしがそこに見たものと言えば人のまばらな、荒涼とした灰色のプラットフォームに他ならなかった。
「……」
そしてあたしはまた、頂点を手前に落下せざるを得なかった。
頭から。
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あたしはどっかりとベンチに腰を下ろした。そして俯いてがんがん脈打つ頭を抱えて、ため息をついた。
そうだ。解ってた。
「飛ぶ」と言ったって「イク」と言ったって、結局のところはここへ、このそっけない汚い駅へと戻ってくるしかないのだ。結局あたしはどこにも、どこにも行けやしないのだ。
ここには電車が着くけれど、
会社行きー。
そうでなければ、お家行きー。
最終電車でーす。
気をつけて、お乗り忘れの無いように……
…神様……。
あたし行きたい。
あたしは魂からその言葉を絞り出した。
外面には涙となって目の端から零れ落ちた。
あたしはこんなにも行きたい。
行ってしまいたいのだ。
家になど帰りたくない。会社にも行きたくない。
けれども他にどこに行くというの?
あたしがたまらなくセックスしたくなるのは、こういう時です。
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