・・終電を逃しても・・








 午前一時時過ぎ、資料を取るために仕方なく会社へ帰る。と、フロアの東の一箇所だけ灯りがついていて佐々木が端末をいじっていた。
「わー、神奈川。遅い」
「お互い」
 俺の席は彼女の座っている机の前だ。引き出しの中にある資料をまとめるために座ると、もう彼女の頭だけしか見えない。
「神奈川、忙しいの?」
「あんたは?」
「締め切り前」
「…他のメンバーは?」
「遅れそうなの私のせいなの。そもそも無理なスケジュールなとこに休んだりしたから」
「ふうん」
 立ち上がって既に沈黙しているコピー機の電源を入れる。ウォームアップする間、暇が出来た。
「休んだってことは」
ちょうど島の真横に立っていたから机と机の間に挟んである壁が気にならなかった。佐々木がボードの上に手を止め、顔をこちらに向ける。
「何?」
「終わったの?」
「―――――――」
 ふっ、と佐々木は噴出すと、端末に視線を戻す。
「神奈川っていつも遠慮なしに聞く」







なにあんた、妊娠してるの?
ふうん、すごいね。誰の子供?







「…うん。終わったよ」
ふうん。
 コピーを始めた。取り込みトレイにまとめて一部置くだけで、後はみなこのでかくて賢い箱が始末してくれる。各部振り分けからパンチ止めまで。
 二十部のコピーが終わるまでの間に、俺は携帯でタクシー会社に電話した。自分が客先から乗ってきたのが終電だったからだ。喋りながらなぜか自然と、窓の外を見る。
「……はい。えっと、二時くらいに、恵比寿一丁目の交差点のところに…。はい。じゃ、よろしく」
 ぴ。と通話を切って振り向くと、コピー機を取り囲む低い壁のところに佐々木が立っていた。
「…何?」
彼女は笑っていた。
「何か言ってくれない?」
「何が?」
もどかしげに首をくねらす。
「…何か言ってよ。神奈川」
 俺は携帯をポケットに滑り込ますついでに、両手を突っ込んだ。
「なに。そんなに悲劇的な顛末だったわけ?」
「ううん」
「向こうが納得してなかったとか」
「ううん。話し合いの末、費用折半」
「体に傷?」
「全然」
「親上司にバレた?」
 佐々木は何度も首を振る。
「ううん」
「メデタシメデタシじゃん」
「………」
 納得しなかったが、俺は出来上がった資料を手に机へ戻った。だが彼女は壁に手をやったまま、視線をこちらから離さないでいる。
「…もっとひどいこと言ってよ、神奈川」
「…はァ?」
眉を潜めて彼女を見る。
「だって私わかんなくなるよ」
 佐々木はどこか照れたようにくしゃくしゃと笑っていた。かわいい唇から漏れる白い歯が、堕胎した母親だなんて言葉を裏切る。
「…傷も無い。呵責も無い。引け目も無ければ変化も無い。メデタシメデタシ。
 だから私分かんなくなる。私が本当は人でなしだってこと。本当のこと、本当の姿。こんなことあったのに、みんな危うい。曖昧すぎて、私馬鹿だから分かんなくなる…。
 …誰かに言って欲しい。あんたのしたことはひどいことで、あたしは人でなしだって」
 彼女は笑いながら近寄ってきた。俺の机の周りを囲む衝立にもたれかかると、
「ね」
と髪の毛を揺らして媚びる。
 俺は鞄を持って立ち上がりながら
「人殺し」
と言って、それからそんなやつが何を言っていやがると付け加えた。
 そして、また一段と重たくなった鞄を持ってフロアを出た。タクシーは約束どおりにそこで待っており、中へ入って行き先を告げるとカーナビが光る。
俺の家の在り処を示す緑の点。瞬くそれを見たとき思った。









 結局のところ俺たちには、解決できない問題など一つも無いのだ。













---EOF-









02.04.03
to be continued


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