- 藪柑子漫談 -

はじめに




 随分昔の話である。
私は二十歳そこそこの学生だった。
だから本当に、随分昔の話である。
 藪柑子先生の家は小菊坂の上にあった。勿論藪柑子というのは本当の苗字ではない。そのお庭に矢鱈と株が植えてあったからそう呼ばれていただけである。
 からくりは簡単で、奥さんが藪柑子が好きで引っ越してきた時多量に植えたのだそうだ。だから、本来ならその名前を戴いて藪柑子夫人と呼ばれるべきだったのは奥さんのほうであった。
 知っての通り藪柑子というのはそんなにぱっとしない植物であるから、呼ばれ始めた当初先生は少々不服そうだった。「藪柑子なんて貧乏くさくて厭だ」と言っていた。そう言いながら、新聞の読み物では「今年の冬は薪が幾らかかって云々」と書くのだから、当人が抵抗したにも関わらずこの呼称は定着した。
 最近は文壇でも教育の場でも妙に先生のことが持ち上げられて、何だか立派な聖人みたようだ。だが私達にとっては、あの人はそういう藪柑子な先生だった。お顔は恐ろしかったが敷居は存外低かったと思う。
 実際、藪柑子家には多くの人間が出入りした。この先へ進む読者ために、主な常連を何名か上げておこう。

 数学者の猫博士
 明確な変人、破れ靴閣下――――絵描きである。
 私と同じく文学部の学生であった紅梅君
 田舎出の、引っ込み思案の文学青年、徳永君
 城山書店の編集箕尾(ミノオ)氏
 それに私こと、木之井である。

 みんないい年してネジのおかしな男どもだった。先生には女性の知己や来客も割合にあったけれど、常連と言うに難しいのは、やはり時代によるものである。
 尚、ここに上げていない人も、必要に応じて随時記憶から引っ張り上げられるであろう。執筆者名は題名の後に括弧書きで注記することになっている。内容によっては、匿名も有り得るだろうが。
 最後に、この漫談は明確な方向性を持たずてんでばらばらに、興味の赴くまま進むであろうことをお断りしておきたい。読み物として一貫した作品の方が愛されやすいのは無論である。源氏物語しかり、金色夜叉しかり、読者は長く長く続く物語が好きなものだ。
 だが、その無造作が何より藪柑子家に会した人間達の生態だったと飲み込んで頂きたいのである。
 私は何より、あの日々を虚飾に飾るに忍びない。
我々はそれぞれがそれぞれの性(しょう)と嗜好を抱きながら、本当にてんでばらばらに、何一つまっとうな議論などすることもなく、ただ何となく―――――強いて言うなら藪柑子の赤い実に惹かれて――――そこへ集まり、満足し、やがてはほどけていったのだから。



木之井 正吾
東京西ヶ原にて




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