- 藪柑子漫談 -
(一) 泥棒泥棒
夕方頃、学校のひけた紅梅君がやってきて俄かに書斎の方が賑やかになった。薄暗い廊下を越して四畳一間にまで彼の明るい声が届いてくる。 これでは先生も、もう仕事は止められたろうと思い、私も辞書の前を立って書斎へ行った。書斎には先生と猫博士と紅梅君がいた。 思ったとおり先生は机から身をずらして、肘掛を前へ回してそこへ頬杖をついていた。 博士は例のごとく洋装である。正座しないで足を前に立てている。そしてそれを両の腕で抱え込んでいる。靴下の白いのが何だか愛嬌だ。 紅梅君は―――――よッ徳永、生きとったか! といつもながらに乱暴な挨拶を呉れると、すぐまた話のほうへ戻った。 南(みんなみ)の人だからだと思うけれど、彼の声は実に大きく、張りがあって響く。魚屋か八百屋のようで、ややもするとやかましいくらいである―――――いずれにせよ、私のような寒い地方の出の者には決して出せない声である。 世間話であった。小菊坂の下にある荒井という歯医者がという話である。先生もかかったことのある、割合に腕のいい医者であるが、悪いことに女癖がよくない。看護婦に手を出しては、度々揉めて、院内や家庭内の雰囲気を悪くする。彼は子どもも三人ある立派な一家の主である。 「まあねえ、どだいあまりええ奥さんじゃあないんじゃろう思うんですがねえ」 疑いの余り奥さんが用も無いのに医院の方へ出てきては、看護婦と夫の仕事振りを監視する。見られてるほうは当然遣りにくくてしょうがない。疑いをかけられた看護婦は気を悪くしてやめてしまう。患者だって何だかびっくりする。 そういう感じだからかえって周囲が勘ぐってしまって、噂が噂を呼んで、もうこの町内の大人はほとんどがその医者の女狂いを知っている。奥さんが鬼みたような形相でうろついているのも恥さらしな常識になってしまった。 それでも御大、女をやめない。さすがに職場の看護婦を物色するのは憚るようになったが、どこでどう知り合ったやら見知らぬ女を一人巣鴨の方へ囲い始めた。それも三味線を弾くような女ではなく、単にそこらで、勤まらない女中なんかをしていた女だそうだ。 「今じゃ巣鴨の方から直に医院へ出勤してきよるそうですわ。お金をそっちへやってしまうもんだから生活まで苦しめられて、奥さん発狂寸前でね、一回は別宅へ殴りこんで『泥棒泥棒』と大騒ぎしたらしいです。 その後、体がおかしゅうなって寝付いとるそうで」 「気の毒にねえ」 猫博士が普段から困っている眉を一段と困らして夫人に同情した。 「囲ったりするならせめて、奥さんの面子を潰さないようにしてあげればいいのに」 「確かに、非道い話ですねえ。当人は誰に知れても平気の平左で、反省もせんなら隠しもせんらしいですよ。男なら浮気をするんは当たり前だとか抜かしくさって…」 「僕には理解し難いなあ…」 そうだろうな。と私は俯き、黙っていた。二人の前で先生が憮然としているのが気になった。 「そういえば今の話を聞いていて思い出した。先代の大先生も女に関してはだらしがなくて、色々始末の悪いことをしてたようだよ」 「そうなんですか?」 「うん。僕は元々この辺りの人間だから大先生も知っているんだけれど、子供の頃、浅草でその先生を見かけたことがあってねえ。 明らかに奥さんじゃない、若い女の人と連れ立って歩いていて、あれは誰かと母に尋ねたらお妾さんだと教えてくれたことがあった。僕にはまだよく分からなかったんだがね。 …してみると、血筋かな」 「それにしても、手を出すんがみんな素人いうのは感心しませんよ。お座敷遊びとはワケが違う。奥さんが騒いで噂立ったら、相手の女の家だって不都合でしょう」 「一生囲われているものでもなかろうからね」 紅梅君と博士はその後しばらく、その不身持な医者と奥方と愛人の行為や未来について様々と意見を披露しあっていた。 しまいに紅梅君が、ずっと黙っている先生のほうへ焼けた額を向けて「先生はどう思われます?」と尋ねた。 私は本音を言って、紅梅君は分かっていないとひやりとした。先生はさっきからまるで白けたような顔をしている。話があまりに俗すぎて、気に入っていないことは明らかだった。 元来、不真面目が嫌いなお人である。ましてや嫌いな下世話で執筆を邪魔されている。話題を変えるべきだと思いながらも口を出せないでいた私は、息を殺して先生の顔色を伺った。 「まあ、なんだな」 と、先生はいかにも興が乗らないといった風に顔を歪めた。 「そう大して面白い話でもないね」 ここで紅梅君が恐縮しない理由が私には分からない。彼は目をきょろつかせて、「そうでしたか、すみません」とさばけているだけである。 先生は体を机へ戻しながら、 「悪いが、そろそろあれを書かんとならんから…」 と言い、それで座はお開きになった。そもそも今日は、面会日と定められた木曜日ではなかったのである。 紅梅君は何もなかったかのように派手な挨拶で去って行くし、猫博士は普段どおり、礼儀正しく静かに辞して行った。 私はほっとして、早くもペン先を紙の上でさらさらいわせている先生に深々と一礼し、再び英語の辞書とテキストの前へ戻った。 無駄な時間が悔やまれる。部屋の中はすっかり暗くなっていた。台所の方から味噌汁のうまそうな香りが漂い始めていた。 * * * 二週間後、先生がその時書いていた連載小説の原稿が新聞に載った。ところで今先生が書いているのは、人の妻に恋慕を抱いて、不本意ながら奪い取ってしまう男の話である。 その回では過去に、幼い主人公が浅草で父と見知らぬ女が連れ立っているのを偶然目にしてしまったという箇所があった。そして主人公の父親は、女中上がりのその女を駒込に囲っているのだった。 四畳一間で読み終わり、物書きというのは盗人のようなものだと私は思った。今しも玄関から、紅梅君の大きな挨拶が聞こえる。 徳永 栄一
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