- 藪柑子漫談 -

(二) 山吹の繁み




 破れ靴君は変人である。
絵描きという職業についているくらいだから変わっているのは当然かもしれないが、恐らく彼はその中でもかなり根本的に変人である。
 私は別に数人の絵描きを知っていて、確かにみなそれぞれが変わり者であるが、彼のような種類の異人にはついぞお目にかかったことがない。
 それでいて一向才気迸るという感じでもない。尋常でない異彩の引き換えに異常である、というわけでもなく、ただ地味に変である。
 いつかこんなことがあった。



 藪柑子先生のお宅には、東西に横たわるお庭があった。中央の辺りには松や百日紅、梅やこぶしの木があったけれど、端っこには羊歯や山吹や菫が繁って地味ながらもかわいらしい一隅を成していた。
 先生がお仕事をなさる書斎は建物の東で、そこからお庭に面した長い廊下を座敷、居間と見ながら進んで行くと突き当たりが厠であった。
 木曜日、その六畳の書斎に若い人達が大勢集って、鍋をつついては愉快に酒をおごられていた。私はしばらくして手水を使いに座を立った。
 その日は木之井君や紅梅君の他にもう六人ばかり集まっていたろうか。ほろ酔いで立ち上がると、坊主頭が線を引いて波打って、黒雲の上に突き抜けた塔になったような気がしたものだ。
 冷えて心地のよい廊下を進んで厠へ向うと、向かう先に誰かが背中を丸めて座り込んでいる。灯りも乏しい夜だから、墨で塗りつぶした達磨みたようだった。
 酒飲みとは奇妙なもので、特段それを目にして驚きはしなかった。そのまんま歩いていって、彼の後ろをすり抜けるときに、それが破れ靴君だなと気付き、そのまんま厠に入って用を済ました。
 出て、手を洗おうとしたとき、初めて彼の位置に困った。彼は石盥のまん前に蹲(うずくま)っていて、横から手を出そうにも到底柄杓に到達できなかったのである。
 そこで初めて私はここで何をしているのかと彼に問うた。彼は闇の中で光る目を前に投げやったまま、ごく簡単に私の問いに答えた。
「見ている」
 破れ靴君の物言いは大抵このようなものであって、誰にでも分かる簡潔さと誰にも分からない脈略の無さを具えていた。ごく簡単に言うと、理解に足る人は稀であった。
 私のような頭でっかちはとても止まらない。勢い、
「何を?」
と重ねて尋ねた。
「あのあたりに」
 破れ靴君は、まるで文の手習いに朱をつけるように、掌で一回闇を撫ぜた。その丸の中には二、三株の山吹の繁みがあった。
「なにかいる」
 私は失敬して手を洗うと、そのまま書斎に戻った。後ろで破れ靴君は変わらず闇を凝視し続けていた。
 戻った書斎は暑かった。これ以上飲み食いする具合でもなかったので、鍋の前には戻らず、濡れ縁の方へ逃れて膝を抱え、気楽に座を眺めていた。
 学生の一人が席を立ち、十分ほどして珍妙な顔つきで戻ってきた。今一人が立ち、困惑した態で帰る。私は一々それを観察して黙って楽しんでいた。
 今しも戻ってきたのは木之井君である。彼は生来の優しく上品な顔立ちに、女人のような曖昧な苦笑を浮かべていた。
 やがて、大いに勢いづいて大いに酔っ払った紅梅君が立った。何人かにからかわれ、支えようとする手を振り払って、よたよたと廊下を歩いて行く。
 私は耳を大きくしてここぞと様子を窺った。
すると、じきに廊下のほうから、
「何しょうるんです、こんなところで?!」
 紅梅君のお国言葉が響いてきた。対する破れ靴君の返答は聞こえなかったが、定めしおんなじことを言ったのだろう。
 向こうは一瞬静かになった。が、次の瞬間、
「おおお!! 確かにおるわ!!! 確かにおる―――――!!」
という大声が書斎中の人間の頭を振り向かした。
 二人は段々興奮してきたと見えて、普段大声などを上げない破れ靴君までが、
「な?! いるだろう?! いるだろう?!」
と言い始め、それに酔っ払いの紅梅君が呼応した。
「おるおる! 確かになんかおる!!」
「いるよな?! 何かいるよな?!」
「おるわ――――!!」



「何やってんだ、あいつらは」
 さすがに藪柑子先生が呆れて尋ねたが、誰にも答えられなかった。
 やがて台所の方から奥さんがいらして、子どもが怖がって泣くから辞めさせてください、と苦情をおっしゃった。
 それでみんなして二人をずるずる引っ張りに行った。



小西 豊松(猫)




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