- 藪柑子漫談 -

(三) シャカシャカ




 初夏の昼間は長い。
四時半を過ぎて尚、暮の兆しも見えなかった。
 藪柑子先生はさっきから猫博士と、山城書店が新しく刊行した雑誌について話し込んでいた。二人から少し離れた縁台で、破れ靴閣下がスケッチブックを抱え込み、朝顔の素描をしている。
 鉛筆の音しか立てない彼の後ろで、主人らの会話は雑誌を離れ、段々横滑りして行った。
「先生は音楽は駄目ですか」
「向こうへいた頃、上田君やらに連れられて何度かコンサァトへ行ったが…」
と、頬杖の手を変える。
「途中で寝ちまってねえ。ヘイドンとかいう独逸人の音楽だったと思うんだが」
「彼のは丁寧なんですが少し退屈なんです。宮廷人の音楽なので…。それに定めしお疲れだったんでしょう」
「そうかもしれない。しかしやッぱり日本人には鼓と笛あたりがお似合いじゃないか」
「もう少し派手なものをお聴ききになるとよかったんですよ。能にも素人向けと玄人向けとあるでしょう。ヘイドンはどちらかというと…。
 同じ独逸で同じ世代でもモーツアルトは天真爛漫ですよ」
「書いた人によってそれほど違うかい」
「違いますよ。どうぞ」
 と、猫博士はイヤホンを指の先へ二つ揃えて先生へ渡した。
 先生は大人しくそれを耳にはめると、目を閉じてしばらくシャカシャカと試していた。
 しかしじきに悪そうな顔をして、コードを引っ張る。右からぽろりと丸いホンが外れた。
「やッぱりあんまり面白くない。いい耳がないんだろう」
「そうですか。残念だなあ」
 猫博士は長いコードを巻くと、本体の再生を止めて懐に仕舞った。



 ふと、濡れ縁で絵を書いていた破れ靴閣下が顔を上げて二人を振り返る。
「お二人、今変なことしてませんでしたか」
 先生は無表情のまま空いたほうの手をひらひら振った。
「してないしてない」
「気のせいだよ、破れ靴君」
 博士も小首を傾げて微笑する。



(匿名)




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