- 藪柑子漫談 -

(四) 千代




 大黒教授は酔っていた。
椅子を挟む小机に供された飲み物は月並みな煎茶に過ぎなかったが、それがあたかもヰスキーの類であるかの如く頬を紅潮させ熱弁を奮った。
「…らねえ…、君たち、頑張って貰わないと不可ないよ。
何しろ、木之井君は実に君、頗る高潔で聡明な研究家だし、高田君は既に文士として名があって小菊坂の先生から一目置かれるほどだからね。二人は今や我が文学部の二本柱だよ」
 教授はどうにも親切を窮めている。自分の前に座った二人の学生をそれぞれ取りこぼしがないように一人ずつ持ち上げて、しまいに自分の親切心に悦に入って髭を撫ぜた。
 褒められた方はふんぞり返っているわけにはいかない。面倒でも順に椅子から背を離して一礼を捧げる。
 それを細くなった目でにこにこ確認すると、教授は肉厚な手を広げて続きを始めた。
「そう。君らの働きに我らが『昭光』の未来はかかっておるんだ。久保君らが卒業した今、君達が中心となってだね――――まあ、勉学も大変だろうとは思うが、どうでもがんばって『昭光』を盛りたててくれたまえ。
 そして、私学ふぜいの『早稲田』や『三田』に負けない、立派な文芸誌にしてくれたまえよ!」
「…文学は野球じゃあないですよ」
 終始押し留めようのない軽蔑の念を眉間に漂わしていた紅梅子(高田)は、とうとうそう言って遣ったが、それも廊下に出た後のことだった。二時間にも及ぶ駄弁に草臥れきって、腕をぐるぐる回しながら、暮れ始めた廊下を歩いた。
「いやー。たまらんのう、あの爺さん」
 木之井子は柔和な顔にどうとでも取れるような曖昧な微笑を浮かべて、友人のぼやきに応接した。その静かな顔は、二時間の試練にも緩むことなく普遍であった。
「小説を点取り合戦とでも思うとるんじゃろうか」
「ほとんど皆…、そう思ってるよ」
「そーよのう」
 馴らし終えた腕を頭の後ろに回して、紅梅子は渋々肯定した。
「中川に、湯木に、相馬…。あっちの派もみぃんなそう思うとるじゃろうなあ。藪柑子先生が逃げる訳じゃ。
 美学の東金教授くらいかのお、真っ当な思考しとるのは」
「あの人は独立してるし、先生ともお友達だね」
「にしても、『昭光』を出世争いの道具にするんは勘弁して欲しいわ。あの爺さん、ワシ等や後輩どもの小説を自分の武勲にして中川に対抗する気じゃろうけどが、そがいなつまらんことが一等雑誌を駄目にする…。
 バレるもんよ、そういう色気は」
「そうだね」
 紅梅子は盗人の目で一瞬横に並ぶ学友を見ると、一際無造作な調子で付け加えた。
「…それにあのおっさん、お前のほうばっか見よったで。まあ俺が退屈な顔しよったいうのもあるんじゃろうけど、書生を膝に乗っけるんが趣味の男らしい。気をつけえよ」
 木之井子は前を見たまま、溜息を吐くように失笑した。
 それから口元でちいさく「千代千代」と鳴いて見せたのを、紅梅子は聞いた。



* * *




 木之井子は宅に集まる人物の中でも最も物静かな男であった。殊に人前で自分を語るということが滅多に無かった。
 たとえ酒を飲んでも少し顔を赤くするだけで崩れることが無かったし、ましてや大声で怒ったり喧嘩をするなどは皆無であった。
 ただ、誰かと一対一になったまま三時間も過ぎた頃、何の前触れも無しに卒然と説明を始めることがあった。
 それは見目はいいけれどスンとも鳴かないでいた鳥が、ある瞬間急に一節歌うようなもので、普段が鎌倉の昼のように静かなだけに、こちらが戸惑っているうちに終わってしまうことも屡(しばしば)であった。
「実家に、大変口喧しい女性が一人いまして」
 書斎の隅で、大人しく調べ物をしていたかと思ったら、そう始まったので筆を置いた。ちょうど一休みしようかと考えた矢先だった。
「うん」
 首を返すと木之井子はクロポトキンを手に、一時間前と同じ形で座していた。彼は役者のようによく躾けられた骨格の持ち主であった。
「まあ、母に当たる女性ですが」
 妙な言い方だと思ったが黙っていた。
「うん」
「子供の頃はよく理不尽に極めつけられて、庭に逃れていたんです」
「うん」
「庭には父の飼っていた文鳥の籠がありまして」
「うん」
「真っ白い鳥に真っ黒い目で見られると恥ずかしかったですよ」
 木之井子の視線はクロポトキンを突き抜けて、朧に別のものを見ていた。
「じきにそういうやりきれない時に鳥の真似をして鳴いてみると、人間の声で鳴くよりも気持ちが収まることに気がついて、今でもそのまま癖になっているんですが。
 …今、ふと気付いたんです。もしも、あの人が小鳥だったなら、『千代千代』と盛んに鳴く鳥として、さぞ人から愛でられただろうに」
 木之井子の歌はこれで終わりだった。
私は忘れないようにそれを机の原稿用紙に書き付けた。


藪柑子記





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