- 藪柑子漫談 -
(五)恐ろしい顔
女性は瞳がちの大きな目をしていた。彼は一緒に歩きながらみんな彼女のことを美人だ美人だと言うけれど、それにしては少々鼻がぼやけていると思った。 それよりも彼女の慎ましい態度が気に入っていた。世の中には気さくを売りにして恥さらしに笑いながら男の腕をぴしゃりとやったりする女がいる。そういうのは大嫌いだ。 確かに彼女は頭がよかった。服装や持ち物に至るまで、派手でなく実に趣味もよかった。また、用の無い時には黙っている。一緒に歩いていると、心が静かになり、小川のようで、気持ちがいい。 彼らはようやく二人連れと分かる距離を保ちながら、うねる坂を歩いて大池のほとりへ出た。同じ制帽の学生とも幾人かすれ違ったが、気にしないことにする。 大池には蓮の葉が群がっていた。暑くなってくると毎年水面が見えぬほど広くて硬い、それでいて柔らかい色の葉を広げる。重なり合う葉陰から、まだ小さなつぼみが所々突き出していた。 「今日は意地悪をなさらないんですね」 自然とほとりに立ち止まり、並ぶ格好になると女が言った。 「意地悪なんかしませんよ」 弁解に日傘の下の顔が笑う。 「なさるわ。この間お家にいらしたときなんか、三上さんや祥平さんのまえでさんざ悪い口をおききになったじゃないですか」 「あれが意地悪になるんですか。私は私の意見をはっきり述べただけですよ。気位の高い、頭がかちんかちんな女は嫌いなんです」 「あの場に女は、女中のすずと私しかいなかったんですよ」 「………」 そういやそうだったなと男は思った。彼は最初から彼女にあてつけようなどと言う気は全く無かったので、今の今までその状況に気付かなかったのだ。 後追いで困ってきたので苦い顔で解説した。 「あなたのことを言ったのではありません」 「はい。分かってます」 女はあっさり下がる。彼女のこういうところが楽だと思ったが、すると先ほど「悪口を言った」と苦情したことが分からない。 「ご存知だったなら恙無いじゃありませんか」 女は目を閉じてまた笑った。 「それはあなたが分かってらっしゃらない証拠です。私は分かっていても、他の方々はそうじゃありませんわ。 三上さんたちは、今もきっと私が攻撃されたと思われているはずです。だから、それは、実際に意地悪されたことと一緒なんですわ」 「下らないなあ」 失笑が唇に躓いてまろび出る。 「人の考えなんかどうだっていいじゃありませんか」 本気でおかしかったので笑いながら珍しく直に彼女を見た。彼女は黒い瞳をじっと注いだかと思うと、最後に呟いた。 「ええ、あなたはそういう方です」 二人は大池の周りをつらつらと歩き始めた。行けども行けども蓮の葉。太陽は白い。彼方に弁財天の祠が見えた。 「ある絵描きの方が仰ったことがあるんです」 後ろから女の下履きの音が砂利を踏んで着いて来る。 「『あなたは、別段、見目のいい男子を夫にしたいなどとは、思われないでしょう』」 「へえ、何故です」 「『あなたはお美しく生まれていらっしゃる。毎朝、鏡を見ては、美しい顔を眺めていらっしゃる。だから強いて、別に美しいものを求める理由が無いのです』」 「どうも随分気障ですね」 「『それに、美しい顔に生まれた方はご存知なのです。必ずしも、美しい顔と、美しい精神とは、同居しないものなのだと。 だから、あなたは見目のよさに価値を感じません。あなたはご自身の中身をよく見ることを強いられる、学があって不幸な女の先達です』」 それきり黙って、ぐるりと歩けば二十分もかかる大池のほとりを半周した。あらかじめ浅草へ出るのだと聞いていた彼は、彼女の為に、通りへ出られる緑の切れ目の前で足を止めた。 ではここから。ええ。と互いに言い交わしたものの、女は何故か動かなかった。なんとなく待っているとやがて地面へ目を遣ったまま彼女が口を開いた。今まで以上に、低くて社交の無い声だった。 「あなたはそういう方です。ご自身の考えやお心を偽らない方です。相手がどれほどたくさんいても、どんな人間でも、時には怖い顔をして、時には決裂も辞されない方です。 だから父はあなたが恐ろしいのです。私は女一人ですから、私の夫となる人が私の家を継ぐのです。父はその目的で男の方を吟味します。 私は、本当に美人なのかどうかは知りませんが、確かに怖いお顔は恐ろしくありません。意地悪なお言葉も恐ろしくありません。 でも父には、恐ろしいのです。私の父は相応に地位があって、いつも威張っておりますけれど……」 く、と彼女の眉間に一筋影が生まれる。饒舌を止める苦笑いになった。 「…ここで辞めますわ。何だか不毛なことを申し上げてしまいそう。…時刻ですから、もう参ります」 傘と裾が翻る。 "然様なら。"
「――――藪柑子先生!」 耳朶に湧く蝉の声から現が戻ってきた。うごめく桜の梢が大波のように足元を揺れている。 いつの間にか少し前かがみになっていた背を正し、それから声のほうへ振り向いた。坂の方から、二人連れの学生が早足でやって来る。 高田と木之井である。学校が引けたか、怠けているらしい。 「お散歩ですか、先生。今日も暑いですねえ」 斯くのたまう高田は夏の似合う男である。ただでさえ色濃い地肌が、腕といい顔といい潮湯治に出かけた子どもの如く真っ黒になっている。 対する木之井は育ちのいい男だから、連日の暑さに辟易した様子で、 「こんな暑い盛りに歩き回られて大丈夫ですか」 気が知れないという顔をする。 それでも、彼ら二人の周りをきらめいて零れていく、言いようの無い風と光が、あの時の自分達にもあったのだろうかと彼は顎を引いた。 「ああ。まあね、うん…」 随分経ってからなされた意味のない返答に、学生二人は顔を軽く視線を交わした。高田が笑いながら頭を掻く。 「どうも邪魔しましたね。先生、物思いの最中でしたろう」 「……ん…?」 「夢から覚めたようなお顔をなさってますよ」
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