今は冬…。だったはずだ。
ならこの全面の白は雪だろうか。
しかし凍えのかけらもない。
 家にいたはずだ。
近所にもこんな広い場所はない。物音もしない。
子供らの駆け回る騒々しさもない。
 いつの間に外へ出たのだろう。ちゃんと服も着ているし、履物を履いている。…どうにも、覚えがない。

――――どうしたのかしら。

 呟いてみたが、何だか耳に聞こえる自分の声が常と違っている感じがした。ふと切りたての菊の香りがしたので振り向くと、二間ほど離れたところに洋風の椅子と小机があり、振袖を着た女性が一枝、もてあそびながら座っている。
 こちらへ向く彼女の顔を見たとき、笑みが出て、なあんだと思った。
俺はここへ帰ってきたのか。

――――適(かなえ)さん。いらっしゃいな。

 女性が呼ばわるので近づいた。空いた一方の席に座る。これは、東金家の応接にあった舶来ものの、赤い背もたれの懐かしい椅子である。

――――ここへいらっしゃるの、大変だったでしょう。ご苦労様でした。
――――そうだったかな。

 水を掻くように要領を得ない気持ちでその慰謝に答えた。

――――よく覚えていないけれど…。…いや、そうだ。あなたが呼ばれるから、ここへ来たんだ。

 思い当たると、確かにそうであったような気がした。彼女も、否むことなくきれいに微笑んだ。

――――そうね。お呼びしたわ、あまり一人だから、時々悲しくなるの。
――――確かに、ここは随分広いですね。周りがぼうっとかすんで、果てが見えやしない。
――――でもあなたも私をお呼びになったでしょう。
――――………
――――小説の中で、繰り返し、繰り返し。何度も、何度も、私を。怖いお顔のくせ、道に迷った子供みたようだわ。

 そう言われるといい年してと気恥ずかしくなって、もそもそと弁解する。

――――もうお会いできないと思ったんですよ。だから少しばかし、呼んでもいいかと思って。
――――あなたは、本当に、昔から、子供のよう。
――――…? 声が。
――――なあに?
――――泣き声が聞こえます。

 遠くというよりも、頭の上から、雨のように、声が降るのだった。女のもののようでも、若い男のもののようでもあった。

――――誰かが、泣いてる…。

 白い天を見上げてそう呟くのを見て、女性は微笑みの中に淀むような悲しさを一瞬浮かべ、それから、菊の花びらをいじった。

――――まだ世は、人が泣くようなことを続けてるのね。それこそ、繰り返し、繰り返し。何度も何度も。よく厭きないこと…。

 ぶつ、と音を立てて一枚を引き抜くと、床へ放る。

――――無理をした分だけ、血が流れるんだわ。嘘をついた分だけ、どこかで取り返されるんだわ。だから誰だって、自分がそんな痛い目を見ないように、先に勝ってしまおうとするのよ…。

 黙って聞いていると、女性は黒い眼をつとこちらへ向けて、いたずらな調子で言った。

――――あなたは、あなたの嘘が私を殺したと思っておいでなのね。
――――…そうですね、多分。

 だから何度も物語するのだ。どうすればよかったのかと、考えるために。

――――どうしてそんな考え方をなさるの? それだからお腹に穴が開いたりするんだわ。こう考えなくては駄目よ、世間と人の愚かしさが私を殺した。
――――それは、だって、嘘です。

 女性は、気持ちよさそうな顔をして顎をそらした。

――――嘘をついたことを、嘘で説明することは出来ないですよ…。どこかで認めないと。でなければ、今度は僕が、死んでしまう。
――――そうね。人は、どうせ死んでしまいますのよ、適さん。嘘をついたら確かに死ぬわ。でも嘘をつかないで戦い続けていても、いつかは刀が折れてしまう。
――――ええ。
――――私が、祥平さんを夫に迎えても、父の反対を押し切ってあなたと夫婦になっても、いつかはやっぱり死ぬんですわ…。勝っても負けても、誤魔化しても認めても、血を吐いても吐かなくても。
 …でも、それなら…、出来るだけ嘘をつかずに、ついたなら償って、いきたいですわね。
――――ええ。

 二人で、笑っていた。それでいて、立ち上がった。空から、誰かが泣く声が、まだ続いていたからだ。

――――やっぱり、誰かが泣いてる。
――――そうね、しくしくと泣いているわ。
――――やっぱり人はそうやって泣くんですね。
――――きっと百年たっても変わらなくてよ。
――――呼んでるようだ。…行かないと。
――――そう。じゃあまたしばらくお会いしないわね…。
適さん。

 振り向いた。錯覚だろうが、背後に上野の森が霞んで見えた。









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