- 藪柑子漫談 -

(三十一)理由





 猫博士が帰ったのが、十時前だっただろうか。音も無い歩みで、先生の様子を見て、子供達と夫人の様子を見て、居間に引き上げてきた破れ靴氏が、客間で少し休むから、よろしくと挨拶に来た。
 居間の火鉢の周りには、若い紅梅と木之井が不寝番を引き受けて座っていた。
「腹が減ったら、勝手で茶漬けなりと作って食べていいだろうから」
「はい。おやすみなさい」
 実際、先生が倒れてから日付の変わるこの時刻まで、破れ靴氏は休みなしだった。普段は無頓着で、洋服を着たところなど見たことも無いが、この人は実は何でも出来るのかもしれない、と紅梅は少し真面目に考える。
 襖が閉まった途端、家全体が沈み込むように静かになった。柱時計の小さな振り子が生き物のように蠢いていたけれど、不思議とそれも夜の中で、遠慮でもしているかのように耳に障らなかった。
 二人の前には丸い青い火鉢があって、中では炎が鮮やかに燃えていた。思わず引き込まれて見つめていると、黒と灰の中に現れるとろける飴のような赤が、紅梅の目に様々な残像を重ねていく。
「寒うないか」
 と、静かにいたわるように、彼は聞いた。
「先も長いし、ちょっと横になってもええで」
 その親切にも、木之井は答えない。膝をそろえて正座したまま、硬い無表情を崩さずにいる。
 紅梅はもう慣れていたから、お義理に小首をかしげて、灰の中に挿してある黒い火箸に手を伸ばした。火の手前、白い灰の海に、意味も無い模様を、砂遊びのように引いていく。
 少々だらしがないかもしれないが、緊張にも限界がある。六時間も七時間も続けられるものではない。
 どう焦っても俎板の上の鯉なのだ。合戦の場が自分の体でない以上、今は待つ他無い。
 それに、また何かが起きれば、否応なく走り回らなければならなくなる。朝になったら休めるとも限らないのだ。緊張は一旦置いて、体力を温存しなければならないと紅梅は思った。
 勿論それで胃が軽くなるわけではない。心は鬱屈し、暗い予感に満たされてめそめそ泣きたいくらいだった。しかし、彼には自分の悲しみの他にも考えるものがあった。―――――隣に座っている、友人のことだ。
 木之井は凝固したきり溶けて来ない。もし藪柑子先生が死ぬのなら、一緒に死んでしまうのではないかと思われるほどだ。
 本郷ではびっくりさせられた。紅梅は、昔からこの澄ました都会的な男の冷静さが憎たらしくて、一度くらい思い切り動揺したところが見てみたいと考えていた。
 だが、実際にそうなってみると、世界が一緒に凍るようで恐怖した。あんなことはもう二度となくていい。無駄かもしれないと薄々分かってはいたが、木之井に少しでも気を抜いて欲しくて、彼は数十分ごとに繰り返し駄弁した。
 特別な理由などなかった。強いて言うなら、そうすると全体がよくなるような気がするからだ。木之井の気がほんの少しでも安らぐなら、何か良いことが起きたような気がするからだ。
 紅梅は取りとめなく、一人で喋った。徳永は今頃神戸で驚いているだろうな(運悪く彼はたまたま講演に招かれて東京にいなかった)。明日の朝一で戻ってくるのだろうが、これは、あの心中騒動の時のかたき討ちになるな。先生がお一人で、俺達二人分の仇を取ってくださるっていうわけだ。
 …『昭光』は春から、廣井達が中心になる。自分も少し編集と駆け引きに飽いた。しばらくは創作自体に集中したい。
 …そういえば北山のやつ…、例の目白の女学生に失恋したらしいぞ…。どうにもあそこの学生さんは一筋縄じゃないらしいな。檜原の千代子さんも相変わらず元気だし…。
 実家の怒りが最近ようやく和らいできた。存外長くて閉口したよ。まああんなことがあったんじゃ当たり前か…。あの時は、お前が甲西に住所を教えたんだろう? よくもやってくれたよ…。
 炭を継ぎ、言葉を継ぎ、温もりを絶やさぬように、紅梅は続けた。じきに迂闊でのん気者の彼は、今この時間を愛し始めた。
 春宵一刻値千金という言葉が、胸に兆した。今は厳しい真冬だが、それでもいい。多分自分は死の間際まで、この時間のことをずっと覚えているだろうと彼は密かに思っていた。
 藪柑子先生は今、どんな夢を見ているのだろう。脈は平常に戻ったと聞いたが、意識はまだはっきりしないで浮いたり潜ったりしているそうだ。
 彼の夢には雲を踏み、どんな人々が訪れてくるのだろう。




 厠へ行って戻ると、居間に木之井の姿が無かった。少し驚いたが、考えてみれば、先生の様子を見に行ったに違いない。
 再び冷えた廊下を踏んで書斎へ足を向けると、案の定、こちらにぴしりと伸びた背を向けて枕元に座っていた。
 看護婦は遠慮して部屋の隅へ引っ込んでいる。労をねぎらう為に会釈すると、頷くように返してきた。
 木之井は、紅梅が隣に座っても気にもしなかった。意識は一心に師の寝顔に注がれている。
 紅梅も、昏倒した後の先生を見るのは初めてだった。顔色があまり悪いのでぞっとした。青いというより、白だ。彼が死の危機に瀕しているという事実が、水のような冷たさで改めて認識された。
 頬がげっそりとこけて、汚れのように黒が張り付いている。ふと友人を見ると、その整った横顔にそっくり同じ暗さが宿っているのでまた心が寒くなった。
 思わず「おい」と声をかけると、彼はひどく迷惑そうな表情を浮かべ、きっと睨んで彼を牽制した。
 それから立ち上がり、廊下へ出た。紅梅は追った。続きはそこで吐いた。
「お前、大丈夫か…?」
「先生が苦しまれるじゃないか。子供じゃあるまいし、喋るなら、側へ来ないでくれ」
「すまん」
 小声で叱責されて紅梅は素直に謝った。木之井は先にたってすたすたと居間へ戻った。
 柱時計は午前三時を指さんとしていた。世界はいよいよ静まり返り、炭を焚いても追いつかぬ寒さが随所に忍び入り始めていた。
「すまん」
 着座して、紅梅はもう一度謝った。木之井は持ち込んだ廊下の凍えをこらえるように腕を組み、眼を半ば閉じてもう答えようとしなかった。
「何だかお前まで、死ぬんじゃないかいう気がして。…馬鹿じゃのう、わしゃあ」
「………」
「そういや、お前…。伯父さんが亡くなったゆうとったな。いつのことじゃ? 年末か?」
「………」
「わしらは、お前のこと何も知らんけえ、どうもいけんわ。的外れなつまらんことばっかいうてしまう。ほんまじゃ、お前にゃ迷惑かもしれん。
 …じゃけど木之井、今日…、いや昨日か? わしが言うたことは、嘘でも何でも無いんじゃ。じゃけえあまり悪くとらんでくれよ」
 木之井は答えなかった。目も開かなかった。紅梅はまた炭をいじくりながら、止め処なく続けた。
「お前、あれか…? わしら以外に、どっか仲間とか友達とか、おるんか…? そりゃ家族でもええけど、大体親兄弟なんてあんまり信頼できんしのう…」
 彼はほんの少しだけ苦く笑った。
「そうか、お前は『一人でおる』いうたんじゃったのう…。『一人』か。一人もええが…。
 でも、そういや藪柑子先生は、そんなこと言うたことないな」
 ぴくり、と木之井のまぶたに震えが走ったが、誰もそれを見ていなかった。
「先生は随筆やら小説やらで、自分の周りの困った人のことをようけ書かれるが、本気で怒って付き合いを断ったりなさったようなところは、見たことがないわ。まあ昔は知らんが、今はとにかく…。
 それどころか、全く来る者は拒まんよのう。知っとるか? わしが最初にここに来たとき、初夏じゃったが、なんでか縁側で子供に英語教えとるんじゃ。
 わしゃあてっきり先生のお子さんか思うたら、近所の中学生なんじゃと。先生が留学帰りじゃいうことを聞いて、英語を教えてくれえ、いうて入って来たいうんじゃ。
 入ってくるのも入ってくるんじゃが、教えるほうも教えるほうよ。わしゃあおかしゅうて笑うたわ。それから、こんなに気分のええ人は見たことがない、思うた」
 木之井は目を開いていた。血の気が頬を薄く染めていた。胸が苦しそうだった。
 だが紅梅は昔話に捕まって今度は彼の方を見ていなかった。また灰の中に文字を書きながら、言った。
「木之井よう。
 ――――お前が、色んなことに腹立てるんは、分かるわ。もっともじゃわ。この世はなんか知らんけど、えらい席に行くほどずるくて不愉快な奴が座っとるしな。下らん奴も多いし、そのくせみんなよう喋るし。
 …じゃけど、もし藪柑子先生が気持ちのええ人じゃ思うたんなら、わしらは、そういう人にならんといけん。わしらの嫌いな奴らのようになったらいけん。先生みたいにならんといけんじゃろう。
 …それなのにわしらは、どうしてか、ふとすると嫌いな奴らの真似ばっかしてしまう…。
なんでかのう、分からんが。
 …木之井。じゃけえ、わしらじゃのうてもええけえ、仲間見つけえよ。確かにお前が自分で言うたんじゃけえ、お前はわしらと合わんのかもしれん。
 じゃけど、なら『一人でおる』いうのは、やめえや。何かそれは、つまらんけえ」
 と、言葉を切って久しぶりに友の顔を見ると、彼は変な顔をしていた。歯痛をこらえる人のような表情だったが、紅梅にはその意味するところが分からず、ただ驚いた。
「木之井?」
「いい加減、黙ってくれないか」
 注意深く体を御しながら、押し付けるように、彼は言った。声はやや掠れていたが、眼光はそれを補うように鋭く、攻撃的だった。
「君こそ、先生を見習って、自分の考えを他人に押し付けるのは大概によしてくれ。君の何が迷惑って、そういう田舎じみた押し付けがましい態度だよ。何も知りはしないくせに、いい気になって人に説教をするのは偽善の極みだ」
「―――――」
 紅梅はちょっと声が出なかった。確かに時折、短命な優越感に浸りながら他人に説教もどきの演説をすることもある。
 大抵後から死ぬほど恥ずかしい思いを―――だが、今言った言葉は誓って本心から出たもので、自分を売ろうとか威張ろうとかそんなつもりは微塵も無かった。
 だが木之井は激しく怒っている。正直に無防備でいただけに、紅梅はその迫力に気圧されて狼狽した。
「そんな悪いことゆうたか? すまん。気に障ったらすまんかった。じゃけど、何がいけんかった?」
「下らんことをべらべら喋るのは、いい加減止めてくれと言ってるんだ。
 大体、君は何も知らないんだ。君みたいな育ちの人間に、本当の孤独なんて分かるはずが無いんだ――――。
 君のような人間の知ったふうな態度こそが、僕を苦しめ辟易させるのに、そんなことにもまるで気付かないんだろうね。幸せな連中ってのは、迷惑なものだ…!」
「―――――」
 ざっと、紅梅の顔から血の気が引いた。木之井は充分にそれを知っていた。けれど火は深く炭を侵食し、止まらなかった。
 自分が無茶苦茶な、あまりにも僻みっぽいことを言っているのも知っていた。けれど、止まらなかった。
 彼は自分が人間として不完全で、片輪で、震えるほど最低の男で、それについて家族から受けた仕打ちがもう、何の説明にもならないことを知っていた。
けれども止まらなかった。
「わしゃあそんなにおかしなこと言うたか?」
 紅梅は困り果てて尋ねてくる。ただ聞かれただけだった。それなのに木之井は一段と追い詰められ、顔は歪み、切羽詰った口調になった。
「みんなが他人を貪って生きてるんだ。誰も心から大事になどしない。利用するだけだ。
 君だってそんな面して自分のために何でもかんでも利用するんだ。他人の不幸だって、僕の孤独だって」
「木之井。落ち着け、悪かった。…わしはただ―――」
 手が伸びてこようとした。
いつか、
死んだ男が膝の上の拳にいきなり
触ったように。
 木之井の眼は引きつって恐怖を映した。けれども体は粟を出すばかりでまるきり動かず、
「触るな。君は――――」
自由な口だけが、死に物狂いで反射的に、自らを防御した。
「人の弱気につけ込み、親切ぶって僕を手に入れるつもりなんだ」




 深夜であることを思い出した。鉄の振り子も炭の火も、何もかもが一気に沈黙した。その中で、随分長い時が流れたようだった。
 紅梅のさし伸ばされた手が中空で死んだ。
それからいつの間にか、下ろされる。
 座っていたのに、世界がぐらぐらと揺れて、木之井は堅く目を閉じた。
「――――木之井…」
 紅梅が囁くように自分の名前を呼ぶのを聞く。その声が震え、草臥れ果てていることに今更胃がねじれた。
 馬鹿げたことだが、木之井は、彼に下心などないことを知っていた。未だに冷然と座しながら、内心取り返しがつかないという思いから暗闇の中へ逃げ込んだ。
 だが次の瞬間、紅梅の、魂を吐くような悲痛な言葉が耳朶を打った。
「――――なんでじゃ…!!」
 ぶるりと木之井の体が震え、顔が下を向く。その脇を立ち上がった紅梅の体がすり抜け、襖を開いて室から出て行った。
 無念すぎて堪えられない高い足音が段々と消えていく。やがて玄関の扉が閉まる音を聞き届けると、木之井は、緩慢な動物のように、長い時間をかけて、前に両手をついた。
 喉が辛く痛み、苦しいので音を立てて呼吸していると、とうとう涙が鼻筋を伝い、畳の上に落ちた。
 ぼつ。
と、雨の滴のような音がした。
一度ほとばしると際限が無かった。
冗談のようにぽたぽたと、幾つもの涙が後を追った。
 何ヶ月も、何年も、何十年も抱いてきた長い長い緊張が挫折し、頭を芯まで麻痺させ、灰にしていた。今や何もかもが彼の必死をすり抜けて落ちていった。
 目茶苦茶だ。と思った。
自分は間違いなく狂人だ。
 だが紅梅は愚か者などとは言わなかった。
理由を聞かせろと言ったのだ。
 どうしてお前はそんななんだ。張り詰めて、善人ぶって、大嘘つきで、助けも呼べず、許しも乞えず、緊張していて、
「独り」で――――
「独り」でいるその理――――――




どうして。




 そう叫びたいのは、本当は彼自身だった。けれども、彼は自分ではそれが言えなかったので、紅梅に言わせたのだ。
 彼の誠意につけ込み、真摯さに泥を塗り、自分の代わりに傷つけたのだ。
 そして今や、望みどおり部屋に一人になった。炭を継ぐ者もなく、話し掛けてくる者もなく、空気は段々に冷えていった。
 痛む目で沈黙の中、ただ左右に仮借もなく動いている時計の振り子を見たとき、頭の中で、汽車の車輪が進むように、猫博士の問題が解けた。








 どこへ行ったか――――、紅梅は帰って来ない。
もう帰って来ないかもしれない。
 五時頃、まだ暗い廊下を看護婦がやってきた。彼女は部屋の隅で草臥れ果て、足を投げ出して座っている木之井の姿を見ると、何故か優しく笑って言った。
「今、白井先生が起き出して診ておられますが、患者様の容態は安定したということです。じきに目を覚まされるでしょう。
 もう皆様も起きておいででしょうから、お休みになっても大丈夫ですよ」
 そう聞いても馬鹿みたいに座り込んでいたから、彼女の後ろに、少しずつ白み始めた空が見えた。





(−)




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