- 藪柑子漫談 -

(三十)嵐





 すべてはあらしのようにやってきた。

 さいしょは、みみなりかとおもった。

 しかし、ふおんなひびきのくもからやがて、じぶんをあざわらうかいわがきこえてきた。

 いったんきこえだすと、ふりはじめたあめのようにいきおいをまして、ひどいときは、なつのゆうだちのごとく「ここぞとばかり弱いところがヒリヒリ」と、

 わたしはわたしをあしざまにいうあらしのなかにひとり、こどものようにとりのこされ

なくこともできずゆうれいのようなかおで、それでもやっと くにへかえれる というそのとき、

わたしはうけとった。
みじかいでんぽうを。





+




「瞳孔が開いた…?」
 藪柑子家の居間には関係者が集い、沈痛な面持ちで口数も少なく、めいめいその場に座していた。親類縁者、作家、新聞社文化部の記者、出版社の担当、元同僚、そして猫博士を入れ十名弱。
 遅れて駆けつけた城山書店の編集、箕尾は、文化部の記者からそう聞いて魂が抜けるような気がした。彼らは客に遠慮をして、廊下に出て、こそこそと話をした。
「そうらしい。さっき白井病院の先生が一人、出て来て、そう言っていた。とにかく駆けつけた時には先生は、完全に昏倒して意識はない、脈も切れ切れの状態で、瞳孔も開いてたそうだ。
 それからこもりっぱなしで二時間ほど経ってるが、どうかなあ君。さっきから女中やら書生があっちこっちに電話したり電報を打ったりしてるから、実際もう駄目なのかもしれんぜ。
 うちじゃ、二種類記事を用意してるはずだ。危篤と死亡と。どちらでも明日の朝刊に間に合うように」
 足元が揺れる気がして、反射的に箕尾は一歩引いた。わんわん鳴る耳を押さえるように頭に手をやった時、廊下の向こうにぽつんと、女の子が立っているのに気がついた。
「おっと」
 腹立たしい程の軽さで記者が言った瞬間、胸がずきんとした。
 先生の長女、八重子さんだった。両手を下げて拳を握り締め、置物の人形のように、じっと二人の男を見ている。
 今の会話を聞いたろうか。どうしよう。と汗が出たとき、その後ろからひょいと破れ靴氏が姿を見せた。
「八重子さん、いらっしゃい。お召し替えをしましょう」
 彼はたすきなぞをかけて、家人の手伝いをしている風だった。社に電話してきたのもこの男だった。昼から働きづめだったはずだが、声は普段どおりで、箕尾らを見ても反応は無い。
 ただ少女の肩に手を置いて、後ろから部屋へとゆっくり押した。少女は押されるがまま無言で中へ入り、やがて襖が閉じた。
 思わず息を吐き出した。心臓はまだ動悸していた。
「恐れ入ります。どなたか…」
 その時、玄関のほうで声がした。女中は走り回っていて、付近に人の気配は無い。それで箕尾は代わりに玄関のほうへ出た。
 洋装の紳士が立っていた。見覚えがあった。大学の美学教授である東金祥平氏だ。薄暗い玄関の中で、青白い顔が変に光っていた。
「先生が危篤だと人づてにお聞きしまして…」
 箕尾は、割りに藪柑子家に入り浸っていた方だ。しかし、今に到るまで東金教授をこの家で見たことが無い。意外の念に打たれて一瞬呆気に取られていた。
 その時、後ろから二、三人の足音が聞こえてきたかと思うと、戸が開いて馴染みの面々―――――、紅梅、木之井、甲西女史が現れた。








どろぼう どろぼう
どろぼう どろぼう









「結構血が飛んでしまいましたね。早く洗わないとのかなくなってしまう。ばたばたして中々お召し替えできずに、悪かったですね」
 小さな屏風を立てた裏で八重子が着替える。屏風の足元で血の着いた着物を手早く畳みながら、破れ靴氏は言った。
 まだ夕刻だが、冬だから障子の向こうが悪意のように暗い。しばらく室内には衣が動く音ばかりしていたが、やがて八重子が屏風の向こうから、震える声を出した。
「破れ靴さん」
「はい」
「どうしよう」
「え?」
「死んでしまわれるの?」
「………」
 ふいに、夜のように巨大な黒い恐怖が、少女の熱い喉から湧き上がり、突破を求めて口の中を激しく走り回った。しかも刻々と嵩を増し、頭の先までが、真っ暗闇になった。
 少女は畳の上で、受けきれず呼吸も忘れるほど苦しみ、やがて悶えながらやっとのことでそれを吐き出したが、まるでそれはその父が、どす黒い血の塊を彼女に向かって吐き出したのと同じだった。
「―――――――――――ッ」
 紙の壁の向こうから、しばらく少女の鳴き声ばかりが聞こえた。唸り声でも、嘔吐のようでもあった。声はこもっていた。しゃがみこんでいるらしい。
 破れ靴氏はきちんと畳まれた少女の血の着いた衣服の前で、正座をして黙って待っていた。
 やがて、啜り泣きの声も段々に減り、外が一層暗くなって逆に室内の灯りがはっきりし始めた頃、
「八重子さん。お心を強くお持ちなさい」
青年は常の横顔で小さく言った。
あなたの望みがかなうのです。








わたしはうけとった。
みじかいでんぽうを。
あなたがシンダッテ。



 そのしゅんかん、すべてのおとはなりをひそめ、
 あくむはみみなりからちじょうへとていちゃくし、
 わたしは
 きくのにおいのするにほんへ
 いまさらかえりたくもないのに




ばかばかしい。
りゅうがくなんて。
そんなかねがあったら、
じょうとうなせっちんでもこさえたほうがましさ。




「今のうちに子供に会わせた方がいいんじゃないですか」



こどもに? なぜ?
こどもになどあいたくない。



「…いかん!」


な に…が……?



 痺れながら、裏面に薄く布団の感触を覚えていた四肢が、再び闇に投げ出された。








 淵における一進一退の状態が継続したまま夜も更けたので、甲西を含めほとんどの客は疲労を抱え、一旦引き取った。最後まで残った猫博士が俥の手配や挨拶をして回った。
 藪柑子夫人はさすがに消耗して頭痛を訴えたため、看護婦が来ると同時に休んでもらった。その後の家中のことは破れ靴氏が引き受けた。
 また深夜に容態が悪化した時に備えて、紅梅と木之井が残り、不寝番をすることになった。
 猫博士は凍てついた表情をしたままの木之井を一瞥した後、「では僕は今日は帰ろう」と言って静かな玄関へ向かった。
 廊下の終わりに右手を見ると、主人の部屋にはまだランプが灯っている。今夜は枕もとに看護婦が一人、また客間で医師が眠るはずだ。
 結局、持ち直すか逝ってしまうかは、本人の体力と運次第だと言いにくそうに医者は言った。
 破れ靴氏が見送りに来て、従者みたいに帽子まで差し出す。さすがに彼ももうたすき掛けを解いて、しわくちゃな袖を振っていた。
 今日は誰もが狂ったように働いた。
会議も授業も放り出して。
賃金など求めず。
猫になりたいなどと思わず。
 そういえば、突発事に当たるために深夜までここに留まって仕事していたことはこれが初めてではない。それどころか、あれからまだ二月も経っていない…。
 突如、奇妙な感情が胸元に湧いて出て、博士は帰りたくなくなった。気がかりだと言うことではない。
 現実に先生の体は書斎で臥しているというのに、今日の濃縮され翻弄されはしたけれどもどうしようもなく充実した時間に奇形な愛着を覚え、離れがたくなったのである。
「こう…、変な心持になるね」
 たたきに下りて道まで送ろうとする連れに言った。
「………」
破れ靴氏は知らん顔をしている。だから続けた。
「こういうふうに、異常な事態が続くと、何だかどちらが大事なのだか分からなくなってくる。
 …本当は、僕はずっとここにいて、何百年もの間、先生の事切れる瞬間を待たされていて、家や勤めや日常など、その合間に見た、夢かもしれない」
 物憂い笑みが、博士の薄い唇に浮かんだ。
「いや、益体も無い妄想だと頭では分かっているが……、僕に本当に家などあったのかしら?
 朝、家を出るときには確かにあった。でも僕が背を向けているときも、本当にあるのかしら?
 こんな子供の遊びがあるけれども、僕が木に顔を伏せている時、彼らは、楽しそうな顔をして、役割を抜け出して、別のものになっているかもしれないよ」
 風の鳴る道まで共に出た。空には星が瞬いていた。破れ靴氏は博士の向かう暗い坂下へ手を差し向けて挨拶する。
「お気をつけてお帰り下さい」
 猫博士はまだ動かなかった。微笑の名残が消えていなかった。
「君は普段と変わらないように見えるね」
「そんなことはありません。あなたの言われることは分かります。僕はこの事態を嗜んでいます」
「………」
博士は青年の顔を見た。
「徳永君の騒動も嗜みました…。
 戦争も裏切りも人死にもないなら、この世はどんなにか退屈でしょう」
 僅かに冬の夜の堅さが猫博士の頬へ紛れ込んだような気がした。それを認めて、破れ靴氏は煙を吐き、僅かに笑む。
「だからこんな人間に帰る場所が無いのは当たり前のことです。しかし僕が思うに、あなたはそうではないはずです。
 ―――――魔がさしますよ、博士。家路を疑ってはなりません…」


 猫博士は、三十秒ほど相手の顔を見ていた。それから一瞬狼狽した面持ちを引き締め、大人の顔になって、歩き始めた。
 それを見送り、破れ靴氏は今、その主が生死の境をさまよっている黒い家へと、きびすを返して戻っていった。
足音も立てずに。




(−)




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