- 藪柑子漫談 -
(二十九)青年A
人づてに、青年Aの家の不和について聞いた。都会とは云っても、古くから東京にいる人間たちの間には、切れそうで切れない縁故の網があるものだ。早春、後輩の女学生のお宅で新年会があって、そこで葡萄酒に酔ったある商家のご夫人と話すうち、青年Aの室について、聞かされたのである。 あまり愉快な話ではなかった。青年Aの母親が少し思慮の足りない女性で、嫁いだ先でこともあろうに夫の出来の悪い兄と関係を持った。以来夫婦仲は冷め切り、終いに女のほうは不審な病死をした。その後父親のほうが後妻を迎えて、元は商売女に過ぎないくせに、子供を産んだ今では中流の奥様然と彼の家に居座っている。という、そんな話だ。 真偽の程も怪しいと思う。ただ、脳裏の記憶のうち幾つかが、その話と連動するかのように蠢くのは止めようがなかった。 その新年会があった三日ほど前に、私は偶然青年Aを訪ねていたのだが、大きな家なのに、恐ろしくしんとしていた。玄関に入ると、四十ばかりの女中が対応してくれたが、何だか非難がましい目で私を見る。 正月飾りが寒風にカラカラ鳴る中で暫く待つと、廊下の奥の暗闇から溶け出すように青年Aが現れた。 私は来意を告げ、預かった菓子を彼に渡して、それから得意の何も知らない振りを発揮して――――、聞いてみた。 「ご家族様は? 皆さんお留守なの?」 「みんなで初詣に出てるんですよ」 青年Aの狼狽したところを目にしたことがない。だが、その場ではかえって平静さが胸に堪えた。あなたはどうして家に残っているのかとさらに尋ねてみたかったが、脇に立ってずっとこちらを見ている女中が邪魔だった。 長居することが彼を窮地に立たせることのような気がしたため、私は早々に立ち戻った。早春から凍えている家の空気に驚きながら。 噂話をどの程度信じるかはともかくとして、彼があまり穏やかでない環境に育ったのは嘘ではないのだろうと思う。 青年Aは優しい顔立ちをした人間である。私は彼に会った時、能面の『童子』を思い出した。詐欺的だとは思わなかった。能丈夫に対して「このペテン師」とやる人はいないだろう。第一、一人前の大人なら普通人前では面くらい被るものだ。 けれど学生なら、大人でも、仲間といたり酒を飲んだりした時くらいは、覚えずそれが剥がれたっておかしくはないのに、彼にはそれがない。 私は新時代の要素のうち、はしたなさだけに多量に水をやって育ててきた女で、彼の色っぽい姿も見てみたいし、面の下も覗いてみたい。必殺知らない振りで友人をダシに使いつつ、追々肉薄するつもりでいた。 だのに、色んなことがあったせいか、ここしばらく彼は一層きつくその面を固持しているようなのだ。それどころか、面の端を両手で必死に押さえているようでもある。 さっきも言った。能の演者に対して嘘つきと呼ばわる人間はいない。青年Aは真剣であり、必死である。だから、私も、嘘つきとは言いたくない。 それに、実のところ、零れ出ている。 もう少しで、届きそうだ。 彼自身の必死さには申し訳ないけれども、本当にあと少しなのではないかという感触に骨を炙られながら、私はその場に座っていた。 「ええけえ、お前いっぺん挨拶に来いや。先生も奥様も気にしとってで。去年あんだけお世話になって、新年のご挨拶にも行かんのじゃかえって失礼なろうが」 ここは、何度か使ったことのある本郷の西洋料理屋である。青年Bと待ち合わせをしていたのだが、彼は学校でようやく青年Aを捕まえてここぞと一緒に連れてきた。 彼は例の一件後、藪柑子家に出入りできなくなった青年Aを何とか復帰させたいと常から周囲に漏らしていた。 「猫先生と会うんが気詰まりなら、おらん日に連れてっちゃるけえ。今、先生があんまし具合よろしゅうないけえ、もともと人が長居せん。心配せんでも大丈夫じゃ」 親切のつもりでとりなす青年Bの言葉を聞いて、私は腹の中で莫迦だなあと思っていた。彼は南国の男らしく仁義に厚く一直線で素面(すめん)であり、その誠意の真贋は疑う必要もないのだが、青年Aの性向については、一向わかっちょらんと思う。(うつった。) 青年Aは誇り高い男なのだ。罪人じゃあるまいに、こそこそ先生に挨拶に行くことなどしないだろうし、他人に、しかも青年Bにとりなされることなど望まないはずだ。勘所を外している。 案の定、青年Aの反応は冷淡なものだった。別にそんなことは必要ない。自分はあの一件について自分のとった行動が間違っていたとは思っていないし、これからも思わないだろう。僕はそれ故に縁切りを食らったのだ。でも僕も正直にやったことだから曲げようがない。だから 「だからこれまでのことだ。もともと僕はあの場にそぐわない人間だったんだろう。それが今回のことではっきりしただけじゃないか。僕も徳永の仲間だなどと言われるよりもいっそすっきりしたし、君がやかましく騒ぐ必要はないよ」 やかましく、などといわれてさすがに青年Bも傷ついたようだ。むっとした顔で煙草を口にくわえた。 「そりゃ、えらいご挨拶じゃのう…。人を足りん奴みたいに。わしも別に騒ぎとうて騒いどるんじゃないわ…。 …じゃあ聞くが、お前はわしらの仲間じゃなけらんにゃ、誰の仲間なんな」 「!」と私は思った。私の心も、青年Aの心も叩く質問だった。思わず強い光をたたえる青年Bのまっすぐな眼差しを見る。 「お前が大黒らの仲間じゃいうんなら、こがいなことが起きてもわしもどうとも思わんわ。徳永が自分じゃ一層藪柑子先生に近づいたつもりで、一気に別もんになったんもうるさく言う気はせん。 じゃが、お前は結局孤立じゃないか。藪柑子先生のところを離れて別に寄る辺があるんか? わしにはお前が独りで危なっかしくふらふらしとるようにしか見えん。 お前は自分のことをあの集まりに相応しくない、いうて今言うたが、そんなこともない。お前はあそこに馴染んじょったじゃないか。藪柑子先生に懐いとったじゃないか。 そりゃどうしてもお前が戻りとうない、いうんならもうわしも何も言わんが、じゃあ次にどこへ行くんか聞かせえや。大黒と仲良うするなんて嘘っぱち抜かすな。お前はあんなんに馴染む器じゃない」 彼は立て続けに、私にはとてもそうは言えないだろうと思われるような速さで言ってのけた。私も、おそらく青年Aも、数瞬遅れでそれを追った。 静かになった。三脚の椀の中から冷め切った珈琲の匂いがのろのろ流れ出て、テーブルの上を滑っていた。 「僕はな、紅梅」 青年Aが言った。両手がしっかりと面を押さえているのが見えるような表情だった。 「独りでいるんだよ」 口を開きかけた青年Bを制して、彼は続けた。 「それに、年始の挨拶は必要ない。家に不幸があって、僕は今喪中なんだ。父方の伯父が死んだ」 「えっ?!」 思わず小さく叫んでしまった後で、下手をやったと思った。私も青年Bと大差ない。 もし噂が本当なら、死んだ伯父とは、本当は「伯父」ではないことになる。真偽の程はともかく、私はその噂を知っているということを、勘のいい青年Aの前で暴露したも同然だった。 彼が私を見た。一瞬だったが、目の奥に羞恥の火花が流れた。私は苦しい表情で、叫び出したいような気分で、ごめんと思っていた。 「喪中…?! そうだったんか? 聞いとらんぞ? 甲西、お前正月に、菓子を届けに行ったんじゃろう。喪中だったんか?」 何も知らない青年Bが発言した時、青年Aがまぶたを閉じて私から顔を反らした。私は救われたようにも、一人氷室に取り残されたようにも思ったが、本当に辛かったのは無論彼の方だっただろう。 丁度その時、料理屋の玄関に一人の学生が飛び込んできた。私も何度か会ったことのある青年らの後輩で、「昭光」の編纂にも携わっていると聞いた。 その日は制帽の下の顔色が違っていた。 「大変です!! 大事です!」 迷惑そうなボーイの脇をすり抜けて走ってくる。 「なんな? 廣井」 「今、大学に電話がきて…! こちらや思うて走って来ました!! ―――――小菊坂の先生が危篤やそうです! 昼過ぎに大吐血なさって、そのまま前後不肖が続いてるゆうて…!」 その学生が運んできたものが、空気の全てを変えてしまった。青年Bも、私も体に命じられるかのように立ち上がった。 体調が悪いとは聞いていたが、まさかそこまでとは考えていなかった。どうせねばならない、という咄嗟の知恵もなかったが、とにかく、行かなければ。 「勘定してくる」 青年Bが吐き捨てて出口へ向かった。私も巾着を手にとって椅子を片付けようとしたその時、一人、座り込んだまま凝固している青年Aの姿に、気がついた。 彼は目を見開いたまま、驚くほど真っ青な顔をしていた。まるで藪柑子先生の命を代わりに終わろうとしているかのようだと刹那とんでもないことを考えた。 それから、ああ。という音が私の頭蓋の中で共鳴した。 ああ―――――。 その手ごたえに私はうめいた。 捕まえた。とうとう捕まえた。 「木之井?!」 背後で彼の異状に気付いた青年Bの声が聞こえた。 (深山甲西) |
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