- 藪柑子漫談 -

(二十八) 夢の中




 霜の季節に彼女と出会い、菊の季節に彼女と別れた。
「あんなことを言っていながら、結局あなたは穏やかな顔の青年を夫になさるんですね」
 笑みを浮かべたのに、思うような笑みの返礼が為されなかった。心の中で落差に焦りそうになった時、彼女が言った。
「何かご意見がおありですの?」
 言い様からすれば不満があるのは彼女本人に思われたが、
「まさか」
と押し出されるように答えた。その瞬間には、その言葉以外に存在しないような気がしていた。
「あなたと大平が結婚するというのに、そんなはずないでしょう」
 彼女は大きな黒い目ではっきりとこちらの目を見ながら要求した。
「では、おめでとうと言って下さらなくては」
 …そういえばそうだ。不躾者というのはどうにもならないものだ。
「おめでとうございます。あなたのご多幸をお祈りしています」
 その時の彼女の顔は忘れることが出来ない。もしこの顛末に裏切りというものがあるのだとしたら、それをしたのは自分だと今では思う。
 追いついてきた世間に、私は萎縮していた。永遠に学生時代が続くものと考えていたわけではないけれども、一つ一つをこうやって負けながら、いつか大きな流れに飲み込まれて行くんだなと漠然と諦めていた。
 跳ね返ればよかった。どうしてあの時自分は負けたのだろう。いや、あの頃の自分と今の自分は同じではない。
 何も知りはしなかったし、若くてまだ取り返しがつくと思っていた。学問を身に付け、この上昇する気流の中で国家のために役に立つ人間になろうと本気で考えていた。
 心の中には頑是無い気性を飼いながら、私はまだ、約束を信じていたのだ。見えない約束。あると言われる約束。人を喜ばせねばならないと思っていた。その意味で私は級友たちより―――――大平より、莫迦正直で、分かっておらず、お坊ちゃんだった。





「よく…ありませんな、どうも…。お正月がいけなかったですかな? やはりあまり消化のよくないものをたくさん食べますからね。
 しかし今はもう、連載のお仕事はお休みなのでしょう? あのお弟子さんが書かれてる小説は、面白いと評判ですな…。ああいうのは新浪漫主義とか言うとか…。
 とにかく以前よりもゆったりお過ごし頂いているはずですが…。ううん…。寒さのせいもありますかなあ…。
 もう少し暖かくなったら、湯治に出かけられるのもいいかもしれませんな…。伊豆でも箱根でもどこでも、ご都合のよろしい場所で…。
 後は普段の食生活を整えて頂いて、節食気味にして頂いて、どうしようもない時はお薬を…。ご心配な時には、すぐにこちらまでお電話をください…」






 この世のほかに、もう一つの世界があれば、そこにはもう一人の自分がおり、もう一人の彼女がいるだろう。その世界へ飛んでいって、もう一人の彼女をこちらの世界に連れてこられたらいいのだが。
 世界に彼女は一人しかおらず、彼女の代わりになる人はいないのだ。と、気付いたのは、就職後自分も婚期を迎えて女性を何人か紹介された頃だ。
 たくさんの写真とたくさんの顔があった。それを選り好みしていくと、同じ一つの特徴を持った顔ばかりが残された。
 私は粟立つほど狼狽して、自分は莫迦だと思った。だが別に彼女が大平と結婚して悪い法があるわけじゃない。彼の人柄は自分が一番よく知っている。
 それでも積み重なっていく辛さがあった。それは直接、彼女が人の妻になったという辛さではなかった。
 おめでとうございます。
私は嘘をついた。私にも、彼女にも嘘をついた。これでいいのだと飲み込み、飲み込ませた。そして嘘を踏んで歩いてきた。歩いていけるものだと思った。
 それでも追いつかれる予感に私は逃げた。まず東京から師範学校の教師を辞めて、縁もゆかりも無い仙台へ。最初はよかった。私は教師という職業が嫌いでない。
 しかしじきに疲労してきた。悪いと胃が痛むようになり始めた。年をとったせいだと誤魔化しながら、本式に見合いをした。娶った。
 留学の話が来た。行きたくもなかったが強いて断る程のこともなかった。当時の私は誤魔化して逃げるのが癖になっていた。逃げるたびに胃がおかしくなるのに、それに気付こうとしなかった。そのくせ自分を追い込むことに余念がなかった。
 幻聴を聞き、幻覚を知る自分が狂人なら、最も狂っていたのはあの頃だと思う。私は自分を守ろうとしなかった。やたらと自分を苛めていた。だのに頭は変に真っ白だった。自分が何をしているのか分かっていなかったのだ。
 渡英の船出の時には、たくさんの友人に混じって大平も来ていた。
 いや。その時にはもう、大平ではなく、東金になっていたが。
 私は出発した。船というのは、世間のようなものだ。私はいつかこれで一つ書きたいと思っているが――――乗ったら、進んでいく。行き先はどこどこだ、と知らされているけれど、その約束が履行されるかどうか誰も知らない。身を任せて、時折これは夢かもしれないと不安になりながらも、運ばれていくしかない。
 大勢の人がいる。けれどもみんな自分のことだけで精一杯な上、狭いところに閉じ込められて一層苛々している。自分に微笑みかけてくれる者は稀だ。
 勿論、その船から下りることも出来る。下りたら命がなくなるが、その気になったら誰も止められないだろう。
 私は時々、不眠の寝床を抜け出して、夜霧の渡る欄干に両手を載せ、考えた。乗り越えることを。
 しかしそれは私の望みではなかった。私は別に、死にたいわけじゃあない。それくらいは分かっていた。
 さりとて、では何がしたいのかと聞かれると、途端に頭の中にも霧が広がり、思考が進まない。
 誤魔化しはいけない。
一時ではないのだ。
後にも残る。
延々と歪みと距離を生み続ける。
 私は半病人のまま英吉利の港へ運ばれた。そして彼の地で、本物の病人になった。
 後半はさすがに自分でもこれは危ないと薄々分かっていた。幻聴や幻覚のせいで、人前で明らかに奇異な行動を取ってしまうことが増えたのだ。
 それでいて自分は狂っていない、という奇妙な防御も瞬間的に湧き立ち、自分の身に起きた異常を必死に説明し、隠匿し、体面を取り繕おうとするのがやっとで、もうその原因が何なのかなどと考える余裕もなかった。
 私は狂ってなどいない。これは狂気ではない。幻聴ではない。自分は一等国の文明人である。自分が狂うはずなどない。人が私を陥れようとしているのだ。
 そんなふうに、異常を否定しながら汗を流して街を歩くのは、…実に苦しいことだ。
 そんな尋常でない私を目にした日本人の一人が文部省に通知をし、回りまわって、帰国命令が出た。
 糸が切れたような気持ちがしたことを覚えている。そうか。もういいのか。と思った。
 その奇妙な虚脱感の中で、私は、一通の手紙を受け取った。





 節食が大事だと医者は言う。私は食いしん坊な性質であまりそれを守らない。
 悪いのかもしれないが、ここまで苦しむ理由はないようにも思える。
 ここ四、五日は胃の中身を盛んに戻す。中身がなくても戻す。血が混じっている。ふらふらする意識の中で妻が先生に来てもらわなくてはと言っている。
 夢かもしれない。医者に電話をすると言っていたから、そういう夢を見たのかもしれない。
 寝すぎて一体何日めだか訳が分からない。薄く明るいが今は朝か夕方か、それとも天気の悪い昼か。
 新聞はどこだろう。徳永の小説に目を通さなくては。だがあれは的外れな作品だ…。そう言ったのに直らない。
 腹が減った。けれども吐き気がする。口の中が酸っぱくて臭い。心臓がごつごつと唸っている。こうなっては人間の尊厳も何もあったものでない。
 とにかく、白湯の一杯でも飲みたい。
おうい。
 声を出そうとして驚いた。喉が掠れてまるで音にならない。胃液なんかで焼けたのかもしれない。
 仕方がないので、起き上がり、立ってみる。胃から上は気色悪いけれど、その他の場所は存外平気だ、と思いながら、襖を開いた。
 運良くすぐに破れ靴が私に気付いた。彼は男子のこだわりのない男で、台所仕事だろうが繕い物だろうが進んで自分から引き受ける。今もきっと家の用事を手伝っていたのだろう。
「どうしました?」
と、足早に寄ってくるのに白湯を頼んだ。承知しましたといって彼は引き返す。
 私も寝床に戻ろうと体を回しかけたその時、廊下の先に女が立っているのに気がついて手が襖を打った。







郁 緒 さ ん







 上野で別れたときの姿だった。
あの時の若さだった。
 定めし棒立ちになり、青ざめて、大きな目を開いて私は彼女を見ただろう。
 次の瞬間猛烈な嘔吐感が、留めることが出来ないと初手から分かるような勢いで私の体を突き上げた。
 顔をゆがめるのとほとんど同時だった。
突破は今までのどれより早かった。
 次の瞬間前のめりになった私は、吐いたこともないような音を発し、吐いたこともないようなものを思う様吐いた。途端にびかりと白い光が脳内に爆発し、それが消えていくのを見ながら、一緒に全ての制御を失い、硬い廊下へ昏倒した。どんという音が聞こえたところまで、覚えている。










 大きな音がしたので破れ靴氏が急いで戻ると、藪柑子先生が大量の血を吐いて廊下に倒れていた。
 先生の体と血溜りの向こうには先生の長女である八重子が茫然とした表情をして立っており、その着物の表には父の黒い血がべったりと届いていた。




藪柑子記





<< 戻る 藪柑子漫談 次へ>>