- 藪柑子漫談 -

(二十七)その気になれば




 師走二十五日、伯父が死んだ。雨が降っていた。家の用人のじいさんらと三人で火葬場まで歩いた時には斎藤緑雨の葬式を連想した。
 父と継母は、家を別けているから喪中の掲示をするつもりはないらしい。二人の手中にある妹は彼が死んだことさえ知らないのだろう。
 年始に向けて家の中は賑やかしくざわめいている。下女がどたどたと無遠慮な足音を立てる度に、心の中に踏み入られているような感じがする。
 ひとり室にあって、このように書いていると、じきに辺りの風景が撓んで来て、赤味がかって意識が曖昧になる。
川上眉山の境地に、それほど遠くはないと思う。



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 いつの間にか姿を消した紅梅君を探すと、この寒いのに縁側に座り込んでいた。もっとも元旦は好天で陽射しに溢れていたので、年末に比べれば暖かい午後ではあったが。
 紅梅君は全く不断着のまま、左足を廊下から下ろして宙に浮かし、右足は立ててその上に右腕を置いた恰好で庭を眺めていた。柱にもたせかけた横顔には黙って次々飲んでいた屠蘇の名残と、新春に似合わぬ欝が混ざり合っている。
 要するに彼は、元日からまずい酒を飲まねばならなかったのだろう。僕もちょっと陽の光が浴びたくなって、明るい場所へと腰を下ろした。
 庭には目白が飛び交っていた。きっと奥のほうに茂った藪柑子の実をつつきにきたのだろうと思う。
 彼との間には、ちょうど一人が座れるくらいの隙間があった。僕がやってきても、彼はちっとも動こうとせずがんばっていたが、やがて愛嬌が出て忌々しそうに言った。
「ありゃあ何の騒ぎです?」
 彼が言うのは、書斎から流れてくる賑やかな声のことだ。先程から客たちに先生が謡をやれとせっつかれ、先生のお歌はまあ見世物の類だから、かえって場が湧いてちょっと宴会の風情になっていた。
「徳永君が、先生に謡をせびってね。それに平井さんが鼓を持ってこさせたりしたもので、勢いが出てる」
「徳永か……。気取った服着よってから」
 気楽ななりの面々の中で徳永君は颯爽とフロックコートを着込んでいた。これにはみんなも驚いて、めいめい一人ずつが「おおっ」と挨拶したものだ。
「金が入って舞いあがっとら…」
「連載は二月十日からだったかな?」
「ええ。先生の『灯明』が載っとったところへ、今度はだらしのない、心中顛末が載るゆう始末です。他にも旧年中に原稿が二、三売れとるようですから」
「どうにも世間様というのは面白いね」
 紅梅君は初めて怪訝の色を浮かべて僕を見返った。
「徳永君のしたようなことは口を極めて非難するけれども、同時にそれが見たいのだね」
「わしにはその気持ちがよう分からん」
「僕には分かるよ」
 陽射しに向かって目を伏せた。
「人が傷ついたり殺されたりするのは面白いことさ。ただ、人は普通、身近な人を傷つけるわけにはいかないから、遠くの人を傷つけるんだよ」
「………」
 紅梅君はふいに侘しそうな顔になり、懐から煙草を取り出した。先生が「朝日」を吸うので、周囲は皆それ一辺倒だ。
「で、紅梅君は徳永君がいい調子になっているのが気に入らなくて、ここでふててるのかい?」
 風がなく、煙が屋根の下で漂うのを嗅ぎながら言った。
「いえ」
と、幾分冷めた様子で紅梅君。
「あんなものは、うらやましゅうもなんも」
唇に紙巻を押し付ける。
「今からもう、あいつがどがいな小説を書くか、目に見えるようですから」
「そうだね」
 微笑した。僕も彼の小説には興味がない。
 先生に憧れて藪柑子家に出入りするようになる青年はたくさんいる。藪柑子先生は鷹揚にそれを許し、教師らしい真似は一切せずに、最大限彼らのやりたいようにやらせる。
 すると、半年、一年。時を追うに従い、青年たちは勝手に数を減らしていく。或いは小説を辞め、或いは理想と自分自身との齟齬に気付き、自然と去っていくのだ。僕はそれを、とても面白いことだと思って眺めてきた。
 勿論先生はその後も、彼らに対して門を開いたままだし態度を変えたりはしない。先生は何もしないのだ。けれども全ては行われ、彼らはいつしか自らの正体をさらし、それを知って、自分たちに相応しい場所へと落ち着いて行く。
 人によってそれを静かにやるか騒がしくやるかの違いはある。徳永君のは一等騒がしかった。けれども大したことが起きたわけではない。
 彼は、異端児として人から騒がれつつ生きたいという自らの願いを実行し、今その地位を得て満悦した。新連載は世間を驚かす事件性に溢れたものになるだろうが、それ以上ではない。理論においては強気だった彼も、実際には百年を生き延びる真実性のある、そして寂しい文学など望んでいなかったというわけだ。
 彼はもはや同じ土俵にはいない。だから紅梅君も本気にならないのである。
 では何を納得しかねて不機嫌を極め込んでいるのか。眺めると彼は寂しげな顔をして、
「木之井のことが気になって」
と呟いた。
 木之井君が来なくなった顛末については、猫博士から聞いていた。先生は何も言わず了解したから、博士の行動を妥当と認めているのだと思う。
「彼を責めたのは間違いだったと?」
「いえ…。そうじゃあないです。わしも、あいつの性格はどっか変じゃと思うとりましたから。いつかは信頼できる目上の人が、きちんと叱ってやらんといけんかったろう思います」
 紅梅君は煙草を砂利の上に捨てた。そして左足を引き上げると右足と同じように立てて、それぞれ膝頭をつかんだ。
「――――でも、悲しいんですわ。しょうがないことかもしれんけど、みんなが年賀で楽しゅうしとる今この時に、木之井は一人で苦しんどるかもしれん思うと、気楽に騒げんのです。
 当の徳永でさえこの場所におるのに…、皆さんはもう、あいつのことなんか忘れとってんかもしれん。あれは性格の悪い奴じゃけえ、もう二度と来んでええ、一人で好きにやったらええ思うとってんかもしれん。
 でも、あいつも傷ついとるはずです。あいつは冷めた奴じゃったけど、ここに来る時だけは素直に楽しそうにしよったんです。
 …ああいう男じゃけえ、強がって一人で我慢しよるでしょうけど、内心は相当辛い思います。皆さんは…、何と言うたらええか…『仲間』じゃ思うとったのに、今は一人足りんでも、ああして騒いどる。
 何とかしてやりたい思うとるのは、もう、わしだけなんか。苦しいのはわしだけなんか。そう思うと何やら…、寂しゅうてたまらんのですわ…」
 感情の飽和が見えたらしく、彼は口を噤んだ。紛らわすように顔を何度か振って、双の二の腕の間に伏せる。
「破れ靴さん…。わしゃあ、どうしたらえんですかねえ…」
泥を吐ききり、静かになった。
 僕は彼の話を真面目に受けとめた。本当だ。真面目には受けとめたけれども、気を引き締めて頬が笑みそうになるのを懸命に堪えねばならなかった。
 馬鹿げた話だけれども、僕はその時、いい絵に会した折のように嬉しかったのだ。嬉しかったから笑いそうになった。
 でも長年の経験から、本当にそうしたら失礼になることは分かっていたので、がんばって我慢した。
 紅梅君はこちらの葛藤など知らないでしょげている。僕は咳払いを一つして、震えの最後を押し込めた。
「元気を出しなよ、紅梅君。
 先生たちも今はやかましい客が来てるから付き合ってるだけさ。あんなことがあった後で、そんなに楽しい気持ちなはずがないよ。
 その上、若い君までが座を外して外で拗ねてたら、先生たちも困るだろう。
 木之井君のことは、焦らず追々手を打ったほうがいい。彼自身の気持ちもあるし、それに時間がたたないとどうにもならないことだってあるんだからね。
 色んなことがあって厭になる気持ちも分かるけれど、元旦だよ、紅梅君。くさくさしていないで、君はいつもみたいに、あっちで先生を助けてあげなくちゃ」
「………」
 すると、紅梅君は顔を上げた。何だか感心したようなびっくりしたような、変な顔をしている。
「なんだい」
「破れ靴さんも、その気になればちゃんとまともなことが言えるんですなあ…」
 失敬な。



 それでも鬱々とした紅梅君と一緒に書斎まで戻ると、深山甲西女史が包みを抱えて出て行くところに会った。
「なんじゃ甲西、どこ行くんな?」
 問いかけに女史はにっこり笑う。
「お客様がたくさんお菓子を持ってきて下さったから、木之井さんのところにお裾分けをしてこいって猫さんが」
「――――」
 紅梅君はちょっと棒立ちになった。
「一緒に行く?」
「い、いや……」
 尋ねられてどもりながら地黒な手を振る。
「待っとるわ…。あいつに『また学校で会おう』ゆうて、言うとってくれ」
「うふふ、了解。じゃー、行ってきまーす」
 僕らがいない間に大分客が引けたらしく、書斎は今は、穏やかになっていた。




(破れ靴)




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