コントラコスモス -14-
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青い室内に、虫の声が響いていた。骨も肉もない、あんな小さな体から発せられる声が、城の壁すら突き破って聞こえてくるのが不思議だった。 応接間のテーブルの上には、手当たり次第に集められた葡萄酒の瓶が五本立てられている。うち二本が既に空になり、三本目も半分ほど乾されていた。それでいて全く酔うことのない横顔が二つ、蝋燭の左右にそれぞれ照らされている。 「――お前がいなくなって一年半くらい後だな」 豪華な刺繍が汚れるのも構わず、別の椅子の上に足を投げ出して、トラスは言った。 「フローラは死んだ。というより、殺されたんだ」 「……」 リップは両手で包み込んだグラスの縁を親指の腹で押したりしていた。 「どうしてだ」 「陛下の子供を産みそうになったからだ」 「――バカか?」 反射的に謗った相手は女性ではない。女性の父親、この城の主、カステルヴィッツの宮廷で王に仕えていたサンジュ卿のことだ。何をするか分からないところがあったとは言え、そこまで短絡思考だったとは思わなかった。 陛下というのは、北ヴァンタス王国国王キサイアスU世のことだ。その権勢は盛んだが教会嫌いで禁欲とは無縁の人物であり、宮廷に多くの非公式な妻を持っていた。 そのほとんどがその体制へ食い込むことを狙う貴族や官僚の娘であって、恥知らずにも妻が「献上」されることすら稀にある。 トラスを愛していた彼女が自分から王の愛人になるはずがない。父親の差し金だ。……恋人と引き剥がして? リップの視線を受け止めると、ふっと息を漏らして、トラスが笑った。 「お笑いさ。あいつは俺を警戒して、屋敷の警備を倍加させてたんだ。フローラが金の卵を宿してからは尚更に。 おかげで手紙が精一杯だった」 耐えましょう、試練だと思って。もうだめです。自分が赦せません、こんなおぞましい罪がこの世にあるなんて。――負けないで、背筋を伸ばしていよう。でもこんな辱めを受けて、何を頼りに心を保てばよいのですか。 では思い出してください。夏の城で過ごしたあの美しい日々のことです。 太陽が輝いていました。私たちは赦されていました。あの時の全てを抱きしめて、自らを赦し、そして産まれてくるあなたの子供も赦すのです。 手紙が届く限り、私はあなたを支えます。手紙が届かなくなっても、あなたの無事をお祈りしています。いつまでもお心の側にあります。あなたを愛しています。この事実はどのような逆境にあっても不変です。 「最後は手紙もダメになった。卿は手紙を渡してくれていた古参の女中を『裏切り者』と怒鳴りつけて首にしたそうだ。 ところが笑えることに、グラン家に買われて彼女の食事に毒を混ぜたのは父親の側近中の側近だった。勿論事件後すぐ、行方をくらましたがな」 「…………」 ――それは、リップが不快げに眉を顰めたくらい、馬鹿げた話だった。まともな人間たちの世界でなら起こるわけがないような、不毛な悲劇だ。 だが、実際に大人になってみれば分かる。世の中の大半はそういう下らない、実に下らない、物語にもならないような幼稚な出来事で満たされているのだ。 逆にいえば、身を持ってそれを知らされるとき人間は否応なしに幻想を殺がれ、大人になる。 自らの見栄や権力のために娘を性の道具として売り渡す父親がいる。あってはならないことだ。けれどもそれはある。 たった一人や二人の利潤のために、大勢の関係ない人間達が戦争で死ぬ。犯罪だ、けれども世界はそうだ。 この世はやり切れぬ過ちを抱えたまま増大する、性質の悪い細胞のような、うごめく不良品だ。たとえ場所が宮廷であろうとも教会であろうとも、何一つ高尚なことなど行われていない。 総出で三〇〇〇歩進み三〇〇二歩後退する壮大な無駄のシステム。悪い冗談のようだが、本当のことだ。 勿論リップはそのことを知っていた。トラスも今となっては骨髄に叩き込まれていた。二人の沈んだ覚醒者達は青ざめた城の応接間でそれぞれにまぶたを閉じる。 「俺は彼女とここで夏を過ごした時、信じてたよ」 暗い世界の中に、トラスの静かな――というよりも、乾いた無感動な声が聞こえた。 「人生には生きるに足る価値があると。 そうして不思議だ。あの信仰は今は、一体どこへ消えたのだろう?」 虫の声が聞こえる。リップはまるで数年前の自分の独白を聞いているかのように、いっそ懐かしく、友人の話を聞いていた。 「生きるということは、美しさを信じるということだな。……俺は初めて分かったよ。 そしてそれが分かったのに、それを信じないことは人間にとって致命傷だと知っているのに、今はもう、信じていない」 トラスは、淡々とした口調でそう結んだ。彼は水の滴るような激情の剣で人を斬りつけてきたのではなかった。動じることも怯むこともない刃先で――それはつまり殺人そのもののような冷酷さで、計画的に彼の仕事を行ってきたのだ。 その無駄のなさは、『人間らしくない』。もう彼はそれを棄てたのだ。多分、女性の死と一緒に。 そして彼は城にたどり着けば終わると言った。結論は簡単に知ることが出来た。 淡々とリップは聞く。 「毒でもあるのか」 トラスはまるで彼のように虚無的に笑った。 「いやあ、好みじゃないな。それに毒と思うと彼女を思い出してさすがの俺も動揺するかもしれん」 左の肩に右手を回して俯いた。 「――恐らく蒼騎士隊のお歴々が、じき追いついてくるだろう。陛下にも恨み骨髄だからな、少しお相手をしようかと思ってる」 そして彼は、静かな泉のような目で側にいる同志に問うたのだ。 「お前はどうする?」 |