コントラコスモス -それについて-
ContraCosmos |
(コーノスの昔話) 私が最初にそれを知覚したのは八歳の時だった。 母が場末の不潔な宿屋の一室で肺病で死んだ。 腎不全だったのかも、妙な堕胎薬のせいだったのかも 別の病だったのかもしれない。 結果は同じことだ。 女は死んだ。自分はまだ生きている。 生きている以上、何とかせねばならぬ。 私は既に葬式の存在を知っていた。葬儀屋という人間のことも知っていた。最低でも銀貨二枚が必要なことも知っていた。 どうしたものだろう。母が死ぬまで臥せっていたせいで金がない。一番薄っぺらな銅貨が二枚。 これを何とか増やさねばならないわけだが。 現状も分かる。たどり着くべき結果も分かる。 しかしその間に開いた距離をどのように埋めるべきかが見えて来ない。 私は母の寝台の側に背をつけて座り込んだ。 どうしたものだろう。どうしたものだろう……。 考えながらも意識がぼんやりしかけていた。いい智慧が浮かばないのは飢えのせいだと私は思った。 その時突然、それは前触れもなく訪れた。 「死んだか」 と男が言う。断りもなく部屋に入って来た男が言う。 上等な衣服に、きれいな靴。手入れされた髭。 客だ。 私は言った。 「すみません。おかあさんは死んだので今日はお相手できないんです」 男が私を見た。 私には美男とか醜男とかの感覚が欠如している。男はその男の顔をしていた。他に言い様はない。 「うん」 と男は言った。 「葬式を出さねばならない」 そんなことは知っている。私は関心を失って目線を床に落とした。 「足りません」 「では足りない分を私が出そう。待っていなさい」 「――」 砂遊びを止める要領で私は男が出て行くのを見送った。 所詮子供の頭で大人の速度には追いつかない。 適応したようなつもりでいても飽く迄遊びだ。 男は、宿の管理人と葬儀屋を連れてすぐ戻ってきた。 彼らの態度は見たこともないくらい丁寧だった。 私を見てももう蹴ったり嫌味を言ったりしなかった。 その理由はすぐにわかった。 男は彼らに指示しながら時折ポケットから光るものを取り出しては与えていた。 そこには教会の祭壇のきらめきがあった。 金だ。 小説を読むと、こういう場面で(よし金持ちになろう)と考える子供が多量に登場する。 そうは思わなかった。 私はただぼんやりと、力を感じた。 私一人では決して動かすことの出来ない大人の男たちを、母の遺骸を、私の運命を、男はぴかりぴかりと金属を閃かせて動かした。 人が人を動かす力。 今までも漠然と感じたことはあった。 だが、言葉として意識したのはそれが最初だった。 母の葬儀の代金は九割九分九厘まで男が出した。 だが男はそれに触れることはなく、泣きもしないで葬儀を終えた私を自分の家へ引き取った。 眠る前、メイドに言われて寝巻きのまま彼に挨拶しに行った。男は部屋にいて、独りで濃い酒を飲んでいた。 私がどれほど状況を正しく理解できていたのか記憶が曖昧だ。どのみち二三日先のことまでしか想像できなかったに違いない。まさか男の保護がその後二十年弱続くなどと思いつきもしない。 とにかく一宿一飯の礼を言った。すると男はメイドを下がらせ、笑いながら木綿の寝巻きから突き出す痩せこけた私の頭を撫ぜた。 「君は今日からここで暮らすんだ。明日も明後日もずっと。君がこれから眠る部屋で。感謝する必要はない。君は飢え死にの心配は無くなったが、引き換えに色々と失うものも多いだろう。君の人生は変わる。私が変える。私のエゴが」 男は酔っていた。 私はそのことに、十年も経ってからやっと気づいた。 「君のお母さんは、私の手を拒んだ。私の金も拒んだ。前からずっと、君と一緒に私のところへ来るといいと、言っていたんだが。 私はお母さんを馬鹿だとは思わないよ。仕方が無い。ただ残念なんだ。こんな結果にしかならなかったのが残念でね」 男は泣いていた。 私は目の前で母に泣かれるのと同じほど即座に何かせねばと思った。しかし会ったばかりの彼に抱きつくわけにはいかない。言葉が出た。 「あなたのことを、どう呼んだらいいですか?」 私は既に、何と呼んでもいいような気分になっていた。子供は後先のことなど考えられない。 男は子供のその単純さを利用した。 私はそのことに、十年も経ってからやっと気づいた。 「お父様と、呼びなさい」 それから男は私の「父」となった。 その晩、私は奇妙な夢を見た。 死んだ母が一人で部屋にいて、化粧をしている。 そこに「父」が近づいていく。 両の拳からはぴかぴか光る金貨がはみ出している。彼の後ろには葬儀屋や宿の男がつき従っている。 そうか。私と同じように、自分の屋敷に迎え入れようと母を連れに来たのだ。 「父」が敷居をまたごうとした時、一心不乱に化粧をしていた母が振り向きもしないで一言 「入らないで」 と言った。 瞬時に「父」の体が止まる。 夢はそこで落ちた。 私はぼんやりと、ぼんやりとそれを知覚したに過ぎなかった。夢の中では薄々分かっていても、現実があまりに忙しくてゆっくり考える暇も無かったのかもしれない。 事実その日を境に私の生活はせわしくなった。私は出会う全ての人間に気に入られようと絶えず張り詰め、父に見限られないように勉学に励み、メイドのみならず庭師や馬丁の手伝いまでした。 私は想像できる限りいい息子でいようと努めた。時折くたびれることはあっても、父が微笑を浮かべてくれるとそれだけで前進出来た。 健全な親子関係ではなかった。と後から反省するほど私は常に父の顔色を伺っていた。子供の私には大人が泣いたりする場面が耐えられなかった。父のあんな悲しそうな顔は二度と見たくなかった。 やがて長じて、ああこれほど私を動かしているものも、あのぼんやりしたものの一つなのだと気づいた頃、私はその「力」をもっと利己的に、もっと享楽的に振り回す恐ろしい女性に出会った。 それがサラシャ。 チヒロの母親の名である。 -了- |