scene 1
「ジャン・バチスト。分かってる? 私たちのせいなのよ。彼があんなふうに追い詰められたのは。 彼はヨシプに向かっていったけど、彼に悪さをしてたのはヨシプじゃない。オーギュや、彼の太鼓持ちや、私や、あなた。みんなで彼を苦しめたの。 もう二度と遅刻しないで。約束を破らないで。破ったら私、あなたを軽蔑するわ。付き合いをやめるとは言わないけど、二度と一緒に仕事はしない。(M)」 危惧されたが、全員が、午後からの稽古に集まった。アキの顔にはまだ湿布が貼りついていたが、表情は予想外に明るく、一夜越しに心配していたスタッフや他のメンバー達をかなりほぅっとさせた。 集合時間の十五分前、ヨシプがデミトリの前に出て声をかけたときには、稽古場の隅だったにも関わらず、ほとんど全員の注意がそこへ釘付けになった。 ヨシプは、デミトリの顔を目にした途端、息を呑んだ。彼のあまりの憔悴ぶりに驚いたのだ。彼は昨夜一度の殴打も受けていないはずだ。だのに、揉めた三人のうちでは一番ダメージを引きずっているように見えた。 頬がこけるとまではいかないが、疲労を示すべっとりとした影が泥のように張り付き、夜の長い苦悶は顔色の悪さとなって現われていた。 「……デミトリ」 胸を突かれたように、ヨシプが彼の名前を呼ぶ。すると彼は面倒くさそうに先手を取った。 「悪かったよ」 視線をあらぬ方へ投げ、そのままどこかへ行こうとした。 「それでいいんだろ」 見ていた全員の胸筋肉に神経痛が走りそうになる。従来どおりのコミュニケーション不全だ。 が、驚いたことに、それまで鈍重だったヨシプがつ、と体をずらし、左肩の先で彼の右肩を止めたのだ。 「…なんだよ」 その時初めてデミトリは、相手がいつもと違うことに気が付いたようだった。相変わらず無表情で無口だが、眼の中に今までにはなかったような、はっきりとした意志の欠片がある。 ヨシプは、彼にしか聞こえないような小さな声で俺が憎いのか。と聞いた。彼としては、色んな人間に聞いてみたいことだった。 デミトリは答えなかった。しかし胸中で―――― …いいや? と誰かが応じた。 俺が憎いのは俺自身だ。やってられないと思うのは俺自身のことだ。許せないのも俺、我慢できないのも俺、耐えられないのも俺、別れたいのも俺だ。 今だってどうだ。言葉を掛けてきたのはこのうすのろヨシプ。俺には彼に話し掛ける勇気も、彼の言葉に耳をかす勇気もなかった。 俺の自我は今、間違いなくこいつの世話になった。俺を害するのは俺。俺は自分という名前の壁にとり囲まれ、足を引っ張られ腕をもがれ、今にも、窒息しそうだ。 感情が昂ぶって来たのかもしれない。デミトリは体を取り戻すと、息を詰めて見ている他の仲間達の間を縫って、稽古場から出て行った。 それから五分ほどして、稽古場にジャン・バチストが入ってきた。皆が、おおっ? という顔をする。当人は澄ました顔をしていたが、ばつの悪さはその奥に滲み出ていた。 やがてジダンがスタッフといっしょにやってくる頃には、必要な全員が揃っていた。数分前に戻ってきたデミトリ、ミラ、ミミ、アキ、ヨシプ、ジャン・バチスト。 演出席についたジダンは何も言わずに、端から彼らを順に眺めた。 それから「じゃあ始めよう」と挨拶をし、通常通り稽古を開始した。 その日の通し稽古は面白かった。 初めて面白くなった。 場面が進むたびに、アキが大きくなっていった。彼女の中に、彼女の存在自体を刻一刻と刷新する巨大なエネルギーが、突然活動を始めたかのようだった。 彼女は周囲の役者の声を聞いた。彼らの動きに連動した。もはやジダンのことなんか構ってなかった。夢中で演技していた。 デミトリがびっくりしたような顔をして見ている。絡みの少ない彼までが、彼女の勢いに圧されそうになっていた。 ミミが楽しそうに彼女の遊びに首を突っ込んでいく。そのテンションに乗りに行く。やがて全体が、ベテランのジャン・バチストさえも、彼女に引っ張り上げられる。アキに、そんな芸当が出来るなどと誰も予想していなかった。 面白いなあ。 ジダンは頬杖をついてそのさまを見ていた。 どうしてこうなるのか。何度舞台をやっても、理屈はまるで分からない。 舞台の上では当たり前の数式がしばしば狂うのだ。条件さえ揃えば、2+1が10をはじき出すこともある。昨日まで、このチームは総勢6名で3程度の結果しか出しえなかったというのに。 ようやく全体が前進を始めた手応えがあった。スタッフ達の顔つきも違っていた。 他方で、本番までこのテンションを維持できるかどうか、という問題はある。稽古でいい結果が出ると逆にそういうことで不安になるのが演出の悲しい性だが、それでもずっとつまらない稽古が続くよりは全然ましだ。 やがて後半に差しかかると、もう一つの新しい動きがおずおずと浮上してきて、注意を引いた。 ヨシプだ。 アキに比べるとごく僅か。だが、誰もが肌に感じるような微細な変化が、彼の身にも起きている。 役者たちがそれを見る。それを知る。それを受け彼らもまた少しずつ変わっていく。 変化の始めなのでかえってバランスの崩れたところや、詰めるべきところは当然いくつも残っていた。 それでも、最後まで終わって音響スタッフが音楽を止めた時、関わった全員がこれは今までで一番いい通しだったと考えていた。 コメントを待つみんなに対し、ジダンはただ「面白かった」と言った。 「一五分休憩後、三場、五場、一二場をやる。通しを見てたら、少し変えてみたくなったんでな」 |
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