scene 2
昨日とはまるで違った雰囲気の中で、稽古は九時過ぎに終わった。疲れた、と言いながら、ミミなどは高揚がまだ去らぬらしく、誰彼構わず酒を飲みに行こうよと誘っていた。 「あんた娘さんいるでしょうが」 「旦那もいるもーん」 そんな動きにまるで構わず、草臥れたように稽古場から控え室へ去りかけるジャン・バチストを、ジダンが呼び止めた。 「待てよ、ジャン・バチスト。ちょっと俺と話をしようじゃないか」 背の高いジャン・バチストは振り返り、露骨に迷惑そうな顔をした。今日一日、全体の勢いに圧されペースを乱された疲れ分が上乗せされた無愛想だった。 「生憎ですが行くところがありますのでね」 「二百やる。座れ」 ジダンは人目も憚らず演出机の上に黄色い札を放り出し、がん、と音が出るように拳で上からプレスした。 「………」 それでもジャン・バチストは躊躇を見せた。今日は何が起こっても不思議ではない日だと、本能が察知していたのかもしれない。 だが、それでも最後には抗えぬように、示された椅子に座った。札に手を伸ばそうとすると、ジダンはそれをずらして避け、「話を最後まで聞いたらだ」と言った。 何やら汚い言葉が役者の口の中で吐かれたが、演出家は無視した。彼と向かい合わせになるよう、パイプ椅子をもう一脚持ってきて、座る。 その頃には、稽古場は夜らしくがらんとしていた。隅のほうでスタッフが集まってなにやら打ち合わせをしていたが、遠いので互いの存在は気にならなかった。 「さて、では稽古をしよう。台本を見ながら、第五場から六場への繋ぎの台詞を読んでくれ。他の人間のは、俺が読む」 「―――――は?」 ジャン・バチストはおかしな声を出した。 「何か話があるんじゃなかったんですか」 「これが話さ。居残りだ。成績の悪い生徒には補習がある。当然のことだろう?」 ジャン・バチストは怒ると笑いの湧く男だった。馬鹿にしたように、横向きの鼻から息を吐き出す。 「冗談じゃない」 「時間を無駄にするな。俺にだって他に仕事はある」 「じゃあそっちやってりゃいいでしょう。大体なんで僕だけ…」 「君がちゃんとやらないからだろう。分かってるはずだ。 もっとも今日はきちんと定刻に来たようだな。ミラにでも叱られたか」 彼の目に僅かに動きがあり、図星だったことが知れた。だが彼はそのまま、腕を組みながら、横滑りするように笑う。 「心配しないでも、本番には、『ちゃんと』やりますよ」 「いいや、君はやらない」 「やりますって。プロですから。心得てます」 「かもしれん。だがそれは十中八九、俺が望むような意味での『ちゃんと』ではない。 生半可でやっつけても、客は騙せるかもしれないが、君はそれで仕事が楽しいのか」 「――――…」 沈黙が訪れた。机の端で紙幣がへしゃげている。どう考えても演劇を楽しんでいないジャン・バチスト氏は一瞬、次が出なかったようだ。笑みも消えていた。そうすると突然に、彼の顔からは一切の表情がなくなった。 ひょっとすると、これが彼の地平なのかもしれなかった。普段は礼儀と怜悧と社交で取り繕われ、滅多に見ることの出来ない役者の寂れた内部。これが、彼の素なのかもしれない。 そんなあやしい国から、幽霊みたいな声で彼は言った。 「じゃあ、教えてください。 …どうして我々はそこまで厳密に、『ちゃんと』やり遂げねばならないんです」 「約束だからだ」 ジダンは答える。 「その日、その刻限に約束の場所までたどり着かなければ、誰ともめぐり逢えないで終わる」 一瞬の間の後、 「…そうくると思ったぜ…。馬鹿らしい」 ジャン・バチストは暗く嘲笑して目を閉じた。まぶたの下に長い影が走る。 「何?」 「あなたは知らないんだ。じゃあ教えてあげましょう。あそこには誰もいません。 ――――走って走って、汗を絞り青筋を立てて、吐き気を押さえながらそこまで行っても、あそこは荒野だ。誰もいない。約束なんかない」 震えるほど断固とした声だった。ジダンは目を伏せながら、否定する。 「いや、いる」 「いない」 「いるさ」 「錯覚だ」 「ジャン…」 「―――いないと言ってるだろう!!」 苛立って、彼は薄い演出机を叩いた。細いサインペンが飛び上がり、弾みでコロコロコロ…、と転がって、ジダンの腕で止まった。 その手をひょいと持ち上げ、何事かと見ているスタッフ達になんでもないと振って見せる。 ジャン・バチストはそっぽを向きながらも、決まりの悪い顔をしていた。挑発に乗って見せてしまった本心を、今頃隠そうというのだろう。ユーロ札はジダンの傍で、相変わらず潰れていた。 「そうだな。いないことも多い」 サインペンをクリアフォルダの中へ放り込みながら、ジダンは認めた。三六歳の役者は恨めしそうな目でちらと彼を睨む。 「だがいることもある。君がいないことを知ってるなら、俺はいることを知ってる。 勝率はどれくらいだろうな。かなり分の悪い勝負かもしれない。そうだな、俺もそれらしきものを感じたのはもう五年も前だから――――、君が厭になる気持ちも分かる。 だが、つくづく懲りたような奴は役者をやめるもんだ。たくさんいるだろう。こんなやくざな家業はやってられないと言って転職する奴が。 だがジャン・バチスト。君はまだ舞台に立っている。何故だ?」 「…他に出来ることがないからですよ」 「かもな。だが俺はこう思う。君は賭博が好きだ。根っからの賭け好きだ。 だから本当は、板敷きの床と暑苦しいライトのあいだにつかの間出現する賭場の、この勝負が、嫌いではないのだ」 「何を…」 「ただこの勝負に必要な犠牲があまりに大きく、負けたときの失望感があまりに強いから、君は怖気づいて賭けから下りた。戦うのはもうやめ。賭けるのももうやめ。草臥れた、やっていられない。その心情は分かる。 だが君は止めたというくせに、まだテーブルの周りをウロウロしてるじゃないか」 針と餌を探す魚みたいに。別の場所で手慰みに薄い賭け事をしながら、緩やかに破滅の手が及ぶのを恋々と待ちながら。 「――――違う」 ジャン・バチストはまた否定した。だが勢いはなかった。 「そうか? まあ君が何と言おうと構わないさ。 俺はこの舞台の責任者だ。キャストに魚類が紛れ込んでるのは困る。 それに本番が始まれば俺はもう手出しが出来ないんでな。舞台上では観客の前で逃げるなり隠れるなり、好きにすればいい。 だが稽古中は、振りだけでも、約束の場所を目指してもらう。ただ待っているのは許さない。せめてそこへ向かってるという『演技』をしてみせろ。 そして見事、俺を騙くらかせ。そしたらもう百、金をやる」 指が金を手繰って、机の上の黄色にもう一枚、今度は緑色を重ねる。 「――――役者らしいやくざな仕事じゃないか?」 それからジダンは台本を彼に差出し、一五ページを開け、と命令した。 ジャン・バチストは青白い顔で彼を見、それから机の上の、折れ曲がった紙幣を見た。だがそんなものでは済まない葛藤が彼の中でガタガタ音をたてて揺れていた。普段の軽く澄ました、人を馬鹿にしたような余裕の態度は、とっくに地獄へ消え失せている。 ジダンは冊子を支えたまま、もう一押しした。 「こんな生煮えな態度がいつまでも通じると思うのか。じき誰からも見放されるぞ。今は物珍しくても、君の有能さに匹敵する俳優は、後ろからうじゃうじゃ出てくる。連中は金をせびらない。 それともこのまま待つのか。破滅と虚無が君の望みか。 なら舞台を下りろ。今すぐ。一週間で代役がいないものじゃない。俺は構わない。 だがもし舞台に残るのなら、『ちゃんと』するんだ。 ――――根性を見せろ、ジャン・バチスト」 次の瞬間、ジャン・バチストの手が、胸を焦がす恐怖と葛藤をぶつけるかのように、冊子をひったくった。 夢中になるのは恐ろしいことだ。特に、三〇も半ばを過ぎると。 二人は長い時間稽古した。ジャン・バチストは勿論、ジダン自身へとへとになりながらも、中年特有の粘着質で執拗に彼を追い回した。 やっと、納得のいく声を僅かに彼の喉から引きずり出し、息をついたときには、もう日付が変わるところだった。 |
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第19章 つづく |
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