ヴェネツィアの街はよく、迷路のような複雑さをもってその魅力をいっそうのものとしている、と書かれる。人の肩幅ほどの道路を、足下に注意しながら――――犬の落とし物がたくさんあるので―――進んでいくと、崩れかかった古い家々のひしめく間に、子供たちの集う学校や、家族食堂、また電気、日曜工具などの店が控えめに表を構えているのを見るであろう。
そこはこの街で一番肩身も狭く、端っこで足を抱えて眠るもの――――「現在」の住みかである。そこにあるのは、金色にも輝かず、歌も歌わぬ、毎日陽が昇って暮れるだけの、どこでも同じ単調な「生活」である。
昼過ぎ。グイードは、新作ディスクを陳列した清潔なパソコンショップをやり過ごし、ごちゃごちゃと石畳の上にまで美術本のはみ出した薄暗い画材屋へと向かった。
主人は店の前で椅子を出してひなたぼっこをしている。会釈した。
「こんにちは」
「おー、グイード。元気かね」
サンタクローチェのように笑って立ち上がる。椅子を手に、薄暗い店の中に入りながら、たくましい背中が聞いた。
「今日はなんだ?」
「絵の具と…、絵筆」
「ほー、売れたな」
「ええ、何故か最近たくさん売れて」
「ふーん。珍しいこともあるもんだ」
「最近僕、幸運なんです」
グイードの頬に、思わず笑みが浮かんだ。
「そうか、運が向いてるうちに色々やっとくんだな。幸運は長続きせんぞ」
店主はそう言い、レジの所に椅子を押し込むとまたどすんと腰掛けた。古参の椅子はきりりと軋む。
グイードは一人で、狭い店の中を体を横にして奥に向かい、お目当ての画材の前まで到達する。レジの方からは、主人のつけたラジオの音楽が流れ始めた。
絵筆を指に押しあてて、毛の調子をみていると、誰かが表の方で挨拶をするのが聞こえた。
「どうも、こんにちはあ」
聞き覚えのある若い声だ。主人の野太い声がそれに応酬する。
「おー、レンツォ。元気かね、久しぶりだな」
「少し忙しくしてまして」
ロレンツォは、大学で同級生だった男だ。芸術に対する考え方に、いい育ちの人間らしい甘さがあって、あまり仲良くしたわけでもないが、懐かしさに誘われてグイードは顔を向けた。が、画材の山に阻まれて見えないので、別にとあっさり諦めてまた絵筆をいじり出す。が、
「何でも、コンクールで大賞をとったそうじゃないか。ウィーンかどこかので」
指が筆の毛を挟んだまま止まった。
明るく弾んだ声で会話は続く。
「そうなんですよ。それで今度ウィーンで個展を開くことになって。今までその準備に忙しくしてたんです」
「そうか。そりゃ大したもんじゃないか。良かったなあ」
「ありがとうございます。なんか照れるなあ。…これからしばらくウィーンなんです。行く前に、随分お世話になったんでとりあえず挨拶をと思いまして」
「そりゃあどうも、ご丁寧に。…そういやグイードとは同級だったんじゃないのか? 今そっちにいるよ」
「え? 本当ですか。懐かしいなあ」
床を蹴る音が数回したと思ったら、ひょいとかつての級友の顔が谷間からのぞいた。グイードは何故かびくっとして、筆を落としそうになった。
「やあ、グイード! すごく久しぶりだね!」
彼は、相変わらぬその無神経さで、実に晴れやかに声を掛けてくる。
グイードは固い微笑みを彼に返した。そうするな、と願った彼の心に構わず、ロレンツォは腕を広げて近寄ってもくる。仕方ないので軽く抱擁を交わした。
「卒業以来だ。と言っても僕は四年遅れだったがね。どうだ近頃、元気かい」
「ああ、まあ…。何とか元気にやってるよ」
「そりゃあ良かった」
学生時代とは立場が逆転していた。いつも最近調子はどうだと尋ねるのはグイードの役目だったのに、今は親切を掛けるのがロレンツォの方になっている。
「痩せたみたいな感じするぞ。健康には気をつけなくちゃあな」
「はは…。…それより、おめでとう…」
「ありがとう。…あのコンクール、君は出さなかったのか?」
「え? ああ…」
グイードは首を横に振った。
「ちょっと、予定に合わなくてね」
「そうか、君のとかち合うんじゃないかと内心冷や冷やしてたんだぜ。君の作品に勝てるわけないものな」
「……」
我慢はしたが、胸が震えた。ぐっと両手を握りしめる。
「じゃあまあ、健康に気をつけてがんばってくれ。それじゃ」
ロレンツォは最後まで快活に、彼の前からいなくなった。後には、世界中の夜から集めたような沈黙が残る。
ようやく一人になると、グイードはしばらく、唇を噛みしめ、床を見つめていた。怒りのあまり、顔が真っ青だった。
…どうしてだ…!
…何故自分でなくあいつなんだ。
少しも努力せず、甘えばかりこぼして、年に五作も描かなかったあいつが…。芸術を介さず、本も読まず、不真面目で、不勉強で、無知で、そのくせ厚顔で……――僕の方が数倍すごいはずなのに…!
床が、揺れているような気がする。力を込めて踏ん張っていないと、倒れてしまいそうだ。
情けない。しっかりしろ! と、低い声で唱える。
力を振り絞ってきっと顔を上げると、背筋を正し、だがさすがに小さな歩幅で、レジへ歩み始めた。
うつらうつらする主人の隣で、ラジオは人生相談をやっていた。
*
紙に走る、鉛筆のある時にはきつく、ある時には柔らかい線。緩やかにカーブを描いて、地面に行きつく――少女の背中である。しなだれかかる光を含んだ髪が、膝の上に一流れ、たおやかに揺れている。
少女は膝を抱え丸くなっている。長い寝間着の裾が途切れるところからは、白い、めまいが起きそうなほど細い足首。闇の中に光るのが分かる。その輝きが空間をねじっている。
柔らかい唇からは今にも白い歯がこぼれそうだ。まどろむ夢の瞳からは、夜の霧の匂いが喉元まで滑り込んでくる。…ひやりと白い風が、喉の粘膜をなぜてゆくのが分かる。身震いがおきそうだ。
「これが…エレナぁ?」
まず煮え切らない声を出したのは、カルロだった。
「…らしいねえ」
ミゲルが紫煙と共にそう吐き出す。やはり何か歯切れが悪い。
「いい出来じゃない」
最後にそう言い切ったシルヴィアを、二人は同時に横目で見た。
今朝『ラピダ』の壁にグイードの絵が架かった。額縁の配置はリズムを取り戻したが、新しい絵は周囲から浮いてしまっているように見える。
まだ見慣れてないからという説明もできるだろうが、絵の放つ輝きの為というのがおそらく適当である。ただその光を善いものと判じていいものかどうか、男二人は迷っていた。
「私は、今までの中で一番いい出来だと思うわよ」
カルロがいささか皮肉めいた調子で言う。
「君でもグイードのことを評価することがあるんだなあ」
「私はいいものはいい、悪いものは悪いとちゃんと本当を言うわ。相手が誰でもよ」
と、働く女は腕を胸の前で組む。
「いいじゃない。今までのきれいなだけの作品とは違うわ」
「そりゃわかるよ。脱皮したなという感じはするし、インパクトも感じますよ。…でも、なんかなあ…、なんつったらいいか…、うーん」
カルロは表現に苦慮して出だしの勢いを失った。救いを求めるように、同じ違和感を抱いているらしいミゲルの方に目をやる。
彼の視線を受け取ったミゲルは、眉を八の字にして微笑むと、
「女の人には分からないかな」と言った。
「なに? ポルノ的だってこと?」
カルロは思わず口に手をやる。
「わお」
「なにがわおよ。女でも分かります、そういうことは。…これ、悪くしたら倒錯紙のイラストみたいだもんね。周りから浮くわけよ」
唇を曲げて言うと、改めて愉快げに絵を眺めた。しばらくして、
「面白いわよねー。本当に絵って…、大したものだと思うわ」
と、幾分真面目な口調でそうもらす。
ミゲルが一瞬、シルヴィアの横顔を夕日を見るときのように目を細めて見つめた。
彼女がそれに気がついて彼の方に鼻先を向けると、同時にミゲルは面を伏せる。シルヴィアもまたすぐに視線を戻した。付け足すように呟く。
「あいつがやってきたらべた褒めしようと思ったのに、残念だわ」
水曜日なので、作者のグイードは今夜『ラピダ』にやってこない。
*
【十月十八日 水曜日】
一枚描いたところで、虚しさに、手が止まってしまった。動かそうとしても、どうしてもそうできなくなる。
エレナは敏感に私の様子を察知して、どうしたのかと尋ねてきた。再三聞くので心の中にたまった不安を易しい言葉で話したら、彼女は私をひざまずかせ、恐らくシスターがやるのを真似て、私におまじないをしてくれた。
額に手を当てて、何事か、…多分でたらめな言葉を唱える。それからにっこり微笑むと、「これでもう大丈夫!」と保証してくれた。
彼女の笑顔を見ていると、そんな遊びじみたことすら御利益があるような気がしてきて、どうもありがとうとお礼を言った。
けれど、それからはもうスケッチは止めて、二人で欄干に腰掛け長い話をした。彼女の普段の生活や、好きなもの、嫌いなもの、そんな他愛のないことを。
エレナは、何も恨まず、愚痴も言わず、ただ全てを真正面に受け止め、美しく生きている。将来なんになりたいのかと聞いたら、お嫁さんになりたいと言った。…だが、きっと彼女には無理だろう。どうして神はこのような純粋無垢の哀れな魂に、あえて実現できない夢を抱かせたりするのだろう。そして難なく「お嫁さん」になれる世の女たちは、こんな夢を持ちはしない。
…いや、持ち得ない者だけが夢を見るのだ。持ち得ないからこそ夢見るのだ。それが、人生の辛さでもある。
私がエレナに惹かれるのも、同じ理由からなのだろうか。人々が、自分がもうとっくの昔に喪失した素直で透きとおる魂を、彼女が持っているから…?
私は最近、自分の心が分からない。そしてなにか、深く考えるのが怖い気もするのだ。何故だろう。私は何を恐れているのだろう。…今までは、自分の心を畏怖したりすることなどなかった。私の魂は私のコントロールの下にあって、勝手に暴れ出したりすることなどなかったのだが。
…コンクール応募作は、下描きが完成した。後は、描いてゆくばかりだ。時間があまりないが、じっくりと力を注ぎ込みたいものだ。
*
日曜日の朝、アルトゥーロは客人と一緒に、リアルト橋近くのカフェで、大運河を縦横に行き交う艇を眺めながらお茶をしていた。中国系米国人の映画監督マイケル・ウーと、英語とイタリア語ごちゃ混ぜで、何故かちゃんとコミュニケーションが取れている。
「今度キアーラと、ここで映画一本撮ろうという話になってるんだ」
キアーラは、アルトゥーロの母親の名前である。アメリカに市民権を獲得していて、ほとんどイタリアには帰ってこない。
「ここじゃなくても、北部の街にいいところはたくさんありますよ。ベッルーノとかフェルトレとか」
「キアーラにもそう言われたよ。何も好きこのんでヴェニスで…って」
と、ウー監督は両手を三角に合わせた。
「でもやっぱりここは素晴らしい街だという気がするな。キキは、ここで生まれたんだろうにあまり愛着がないのかな」
母親の声すら忘れているのだ。アルトゥーロは首を傾げるしかない。
「さあ…。イタリアは他にどこを回ったんですか?」
「あ、まだトリエステしか知らない。これからあちこち行くつもりだから」
彼はボスニアとスロヴェニアを回り、東からイタリアに入って旅行を続けている。
急に彼は何か思い出したらしく、身を乗り出した。
「そうだそうだ。トリエステの町中を歩いてたらね、面白いことがあったんだよ」
アルトゥーロは目線を合わせて先を促した。
「バールで昼御飯を食べてたら、いきなり後ろから大きな声で、ミケーレ! って呼ばれてね。僕の名前伊語読みでミケーレじゃないか、だから一体こんなところで誰が、と思ってびっくりして振り向いたんだよ。
そしたら見知らぬおばさん…か、おばあさんが、目の前に立っててね、ものすごく真剣な目でこっち見てるんだよ。ますます驚いて、ちょっと動けなかった」
彼はカフェで喉を潤してからまた続ける。
「でも、そのおばさん、いきなり失望したような顔すると、ぷいといなくなっちゃって、また隣の客に向かって、ミケーレ! またぷい。ミケーレ! って延々やってるんだよ。
さすがに唖然としてたら、店の人が、すみませんねお客さん、あれは…なんて言ったかなイタリア語で、チョットオカシイ女だから、って言われてね、それで思い出したよ。トリエステでは、精神病院の患者を普通に街で生活させる方針をとっているんだったなって」
「ああ、そうしたほうが患者にもいいそうですね」
アルトゥーロはサングラスを少し押し上げる。
「らしいね。それにしてもあの人は、一体誰を捜してるんだろうと思って、色々考えてしまったよ」
「ミケーレ」
「いや、そりゃそうだけど。そのミケーレ君とやらは、例えば昔の恋人とか、別れた夫とか、それとも離散している息子かな、とかね。何か、一途な感じがして気になるじゃないか」
小さな顎に手を添えて、ウー監督は感慨深げに目を本当に線にする。
「あなたが好きそうな話ですねえ」
と、仮面職人は笑いながら手を頭の後ろに組んで、体を後ろに倒した。
その弾みで、後ろを通りかかった人の体に、手が当たる。アルトゥーロはすぐに肩を起こして謝った。
失礼、いいえ、と見合った相手は、グイードだった。
「お。やあ、アルトゥーロ」
彼はぱっと笑顔になった。アルトゥーロの方は、微かに笑ってそれに応える。
「…やあ。昼休みかい」
「そうなんだ。そこいいかな」
と、若い画家は二人のテーブルの空いた椅子を示す。
どうぞ、と二人とも頷いたので、グイードは商売道具を足下に下ろし、席に着いた。やってきたウェイターに、カフェを頼む。
その後で、アルトゥーロは彼をウーに紹介した。
「初めまして」
と、ウーが差し出した手を、グイードが軽く握る。
「こちらこそ。絵描きをやってます、売れませんが。あはは」
「いやいや、まだお若いし元気なんですからそんなに焦ることはないでしょう」
ウー監督は若く見えるが四十過ぎだ。年長者の立場でとりあえずフォローする。
「そうですね。僕も最近焦るのは止めようと考えてるんです。今、調子よくて」
挟まれた格好のアルトゥーロは、それまで黙って二人の会話を聞いていたが、その時つとグイードの横顔に目をやった。指が落ち着かなくカップをいじり始める。
彼らが一通り話すことを話してしまった後、一瞬生じた間を捕らえて、彼はグイードに話があると切り出した。
「だったら僕は、少し新聞でもめくって、忘我ノ境地、に去っていようか?」
ウーが気を利かせて、そう言った。正直アルトゥーロには彼の言葉の意味がよく分からなかったのだが、その好意に甘え、少し椅子をずらすと、隣のグイードと向き合った。映画監督は新聞を大きく広げて、律儀にあさっての方を向く。
「何だい?」
画家は今日上機嫌だ。足を組み替えて、アルトゥーロの方に体を傾ける。
「エレナのことなんだけど…」
と、彼の友人は少しためらった後口火を切った。
「君、今でも毎週水曜日にエレナに会っているのかい?」
グイードは眼鏡の下の目を少し大きくする。それから笑い出した。
「そりゃあ、もちろん会ってるよ。モデルだもの。何、そんな話か。なんか深刻なことかと思った」
さらに笑ったが、アルトゥーロは呼応しない。やはり真面目な面持ちのままだ。グイードも陽気さをそがれて、先に面倒なことが待っているというアルトゥーロの予感が彼にも伝染する。
「君のためを思ってるんだ。これから言うことを誤解しないで聞いてくれ」
アルトゥーロは一息ついて、覚悟を決めてから、再び口を開いた。
「…エレナとはもう会わないほうがいい」
静かになった。空気も、グイードの顔もだ。
アルトゥーロの言葉が脳に染みわたるに連れて、心の中にいくつもの感情が水蒸気のようにぼこぼこと湧いてきた。ところが、一番初めには、彼の心情から一番遠い表現――――笑いが、こぼれた。
「…なんだって?」
「僕の言うことが分からんか?」
「分かるも、分からないも…」
「分からないはずがない」
断固とした口調で、アルトゥーロは押し込んだ。
泡が弾けた。グイードの表情にかみなり雲が差し込み始める。それでもなお冷静に話をしようと努めて、彼は椅子に座り直した。
「なんだってそんな言い方を…。…君は、誰に頼まれてこんなことを言い出したんだ?」
アルトゥーロは首を一度だけ横に動かした。
「誰にも頼まれてないよ。
…グイード、分かるだろ。幼児がらみのスキャンダルは今の世の中では最悪のネタだ。
少し知恵の遅れた、十歳やそこらの女の子に手を出したなんて噂が立ったら、一生画壇で日の目なんか拝めなくなることくらい分かるだろう?」
グイードの頬にかっと朱がさした。眉が歪んで、目の形を三角にする。
「君は…ッ! 何を言ってるのか、君こそ分かってるのか?」
怒りのあまり、声が大きくなった。
「君が、そんな無礼な勘ぐりを入れてくるなんて思わなかったよ。…全く言うに事欠いて何てでたらめを!」
最後には悲鳴のような声が出た。向こうのウーの新聞が、びしりと音を立てて短く波打つ。周りの視線が集まったのが背中に分かった。
アルトゥーロは彼の激情がおさまるまで黙って待っている。ふうっと息を吐いて、グイードは肘をついた。熱い額を掌で押さえる。
「僕は、…手ひどく裏切られた気分だ」
アルトゥーロは、悲しげに顎を下げ、サングラスを外した。
「君の信頼を、今も昔も…裏切ろうと思ったことはないよ」
その姿勢のまま、グイードは友の顔を見る。
「じゃあ何でこんな人を侮辱するようなことを…」
「君がそんなに怒るのは、本当は自覚しているからだよ」
「なんだって?」
「あの絵を見れば、誰だって分かる。…君がエレナを女として愛してるんだと」
きっぱりと言って、アルトゥーロは顔を上げた。呆然として、色濃い狼狽の漂う、グイードの顔を見る。
彼は怒らねばならぬと分かっていた。だが拳を振り上げようとする同時その裏側で、急速に怒気がしぼんでいくのが分かる。代わりに弱い、甘いものが銀のメスの冷たさで胸を優しく切り開いてくる。
際限なくどこまでも、額が冷たくなっていくような気がした。
「馬鹿な…」
それでも薄く開いた唇から、だがかすれた力のない声を出した。
「言いがかりだ…!」
アルトゥーロは首を振った。
「いいや、そうじゃない。ならば君はどうして彼女から施設の場所を聞き出し、そこに昼間、堂々と会いに行かない? モデルならそっちのほうがいいに決まってるのに」
言葉に詰まるグイードを真っ向から見据えながら、今や力強く彼は続ける。
「君は分かってるんだよ、心のどこかで。自分が背徳的なことをやっていて、人に知られてはいけないんだと」
…グイードは、自分でもおかしいくらい頭の中が真っ白になって、一言の反撃も思い浮かばなかった。夜中にいきなり掛け布団をひっぺがされたような気分だ。無力な自分の姿をさらすのは惨めである。
右肩に友の手を感じた。周りは馬鹿に静かだ。アルトゥーロの言葉だけが聞こえる。
「グイード、どちらのためにもならない。とにかく夜中会うのだけはもう止めるんだ。誰に見られるか分からない」
半ば呆然としながら、舌の上で繰り返す。
…会うのを止める。エレナと。もう二度と?
次の瞬間、魂の全てが子供じみた拒絶によじれた。
―――――嫌だ!! 嫌だ! 嫌だ!
…耐えられない。
グイードはただ首を振った。アルトゥーロが何が言いたいか理解した。彼の私なく、思慮深い親切も無論分かる。
だが彼が示唆した、すっぱり関係を絶って後戻りしろという解決策は、それは理解はできても、納得はできない―――。
そして徐々に、その目に頑なな決意の光が現れ始めた。防戦から反撃に転じる決意だ。結果としてそれは、開き直りという形になった。
ゆっくりとした動作でアルトゥーロを見返すと、調子の変わった声で言った。
「…それなら噂が立ってもいい」
アルトゥーロの眉が、潮の変化を見て取って、初めて歪んだ。
「…なに?」
「誰が騒ぎ立ててもいい。…僕は闘う」
「グイード!」
信じられないものを見る目で、この仮面職人は友人を見た。
「エレナを手放すくらいなら…」
アルトゥーロは最後まで聞かなかった。
「グイード、君はロミオのつもりでいるのかもしれないが……」
彼の肩に置いた手に、頭を付ける。目を閉じて、しばらくアルトゥーロは懸命に言葉を探していた。やがて面を上げた。
「君はロミオのつもりでいるのかもしれないが、エレナはジュリエットになることをちゃんと承諾しているのか? 君が勝手に彼女を理想の恋人に仕立て上げているだけじゃないのか?
それは愛じゃないぞ、グイード。物言えぬ魂を妄想の道具に使っていい気になっているだけだ。 …エレナは若干とは言え、間違いなく知恵遅れなんだろう? …本当に、全然、卑劣な行為だと思わないのか?」
「彼女は僕を好きだ」
「…どうして分かる」
「心の問題だ」
「グイード!」
今度はアルトゥーロが大きな声を出す。グイードは、もはや彼の言葉に真正面から取り合おうしようとしない。自らの王国にさっさと高飛びしてしまった。
「君がそんなに自分勝手だとは思わなかった。
…本当の人でなしになるつもりか!?」
「それは君の見方だ。他人がなんと言おうが僕は、僕等二人が幸せならそれでいい。…それでいいはずだ。君にも、誰にだって、とやかく言われる筋合いはないんだ。俺の人生なんだから。そうだろう!」
グイードは一口残っていたカフェを飲み干すと、話を一方的に打ち切って立ち上がった。画材をひっつかみ、もう何を言われても別れるつもりだったが、
「君は、あんなに嫌いな親父と悪いところだけ同じような男になるつもりか!」
と言うアルトゥーロの声を、聞き逃すことが、どうしてもできなかった。
足が止まって、世界が赤くなった。
「なに…?」
恐ろしい形相で振り返る。椅子に座っているアルトゥーロを、上からにらみつけた。
「どういう意味だ、それは」
「君は全然画家として彼の所まで行ってない。それなのに悪いところだけは忠実に真似をする気なのかと言ってるんだ」
それは言ってはならない最後の言葉だった。酒場で彼の極端で思い上がった話を聞く時、同じような思いは必ず仲間たちの胸に生じる。だが口には出さない。
父親との比較――――あまつさえ女性の―――、それは点火ボタンだからだ。
「なんだと!?」
グイードの爆発にも、アルトゥーロの声は勢いを失わない。
「君は意気地なしの子供だ! 得意げに人を軽蔑しているくせに、人前で、女の前で恥をかくのは嫌なんだ。それでなんにでもにこやかに頷いてくれる、エレナみたいな少女を相手にして、自己満足にふけっているだけだ!」
グイードは四歩で来た道を憤然と二歩でとって返し、テーブルを力任せに一回殴りつけた。すごい音がして、ウー監督のみならず、コーヒーカップも周りの客もびくっと飛び上がる。
「君とは絶交だ!!」
大声で言い捨てるや、グイードは今度こそ背を向けた。そのままずんずん背中が遠ざかり、やがて行き交う人の波に飲み込まれて見えなくなった。
しばらくした後、アルトゥーロは胸にたまった様々な思いのこもったため息を、ほっと吐き出した。頭に添えた右手の関節がだるい。
「……」
「とめなくていいのかね」
ウー監督が、新聞の端から顔をのぞかせる。
「別の世界にいたんでは?」
「耳だけ忘れてしまってね」
アルトゥーロは苦笑しながら、倒れたペーパースタンドを直す。
「仲直りできそう?」
「彼から絶交を言い渡されたのは、これで三度目です」
「だとしても今回は長引くかもしれんよ」
「何でですか」
「女がらみだもの」
「なるほど」
ウーはばりばりと新聞を畳む。
「彼、少しゲルマン系?」
「ええ。母親が確かオーストリア人で」
「ふうん」
しばらく考えていたが、
「もしかしてフォルリーニって、あの…」
アルトゥーロは小刻みに頷いた。
「ああ、やっぱりそうか。…どこかで会ったような、懐かしさがあると思った」
それから、グイードの父親の話になった。
ウーはそんなに親しくつきあっていたわけではないが、誰にでも人なつこく交際の広い人間だったという。
「確かに、女性関係は派手だったな。でも、それは好かれたってことでもあるだろう。
だいたいどんなにメディアがうるさくても、彼が出てって、いやあごめんねお騒がせしてスクージスクージ、って言ってしまえば結局収まったものね。
人徳だよ」
アルトゥーロはぼそっと言う。
「いいなあ」
「いいよな」
ウーもぼそっと言った。
「それでもどこか、不幸せそうな人だったよ。…なにかの拍子に、迷子の子供みたいな目をすることがあってね。僕は、あの闇が晴れぬままに彼が死んだのだと思うと、何か気の毒でいたたまれないんだよ」
心優しい監督は、そう言ってまた目を線にする。
「…グイードは、彼に似てますか」
「そうさな、目元がそっくりだ。彼は眼鏡を掛けてなかったが」
「……」
リアルト橋を渡り終わった団体の観光客が、どっとカフェの前にやってきた。それで立とうか、ということになる。アルトゥーロは精算する時、すこし多めにチップを渡した。
二人は人混みを避け、裏路地を使いながら、市場のある方に連れ立って歩き始めた。
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