「…親父さん、もうそろそろ元気出してくれないと困りますよ。僕だって明日は図書館で仕事なんですから。いつまでふて寝するつもりですか。
ほら、壁見ました? ちゃんとグイードが新作持ってきてくれましたから。…え?
グイードがなんだ? それ彼の前で言っちゃいけないですよ。…グイードなんか怖くないですか、ああそうですか。
…金なんか嫌いだ? それに負けたんでしょうが、もう。…止めてくださいよ、アルチバールド、アルチバールドって。男に振られたみたいですから。…は? ああ、そうですね、ヴィスコンティは変人かもしれませんね。ふー。
なんですって? ああ、もう戦争でも何でもしてください。それで気が済むんなら世界平和なんかなんでしょう。…ったくもう…」
奥の流しで汚れたコーヒーカップをこすりながら、ミゲルがため息をついた時だった。
いきなりがん! と店の表で音がした。不審に思って顔をのぞかせると、誰かが弾丸のような勢いでとび出していく背中が見えた。
あの後ろ姿はグイードだ。何も挨拶もしないで帰らなくてもいいようなものだが。また何かあったのか、とは思ったものの、彼には唇を曲げてまた奥に戻るしか手がない。
それで体を回転させた瞬間、目の端に引っかかる違和感があった。顔だけ戻すと、数日前に架かったばかりであったグイードの絵が壁から引き剥がされ、またそこだけがうら白い素肌をのぞかせていた。
ミゲルはグイードを追いかけようかと思ったが、もう遅いと諦めて首を返した。
ドアの所に、頭から毛布を被った店の主人がどうしたことかと顔を出している。
「そんな格好をしてないで、さっさと諦めて出てきてください」
と、ミゲルは言った。
*
どんな状況下においても、一定水準の仕事を行うのが職業芸術家というものである。
調子がいい時には過剰なほど作品を作り、悪い時には一つもできない、というのでは、生活を支えてゆくことができない。とにかく、手を動かさねばならないのだ。
それでもどうしても描くことができない時がある。白い紙を前に、ただ一本の線すらひっかくことができない晩がある。それはおよそものづくりに携わる人間にとって、恐怖の瞬間だ。
―――――だめだ。
グイードは額を押さえた。
手に着かない。ああ。
筆を油壺に投げ込み、パレットも手から離してしまった。これで仕事ができる道理がない。
座ることもならず、かといってじっとしているのもいたたまれないので、グイードは狭い室内をうろうろと歩き回った。
何度も時計を眺めたりする。まだ八時。寝るには早すぎる。だいたいそんな無駄にする時間などない。作品を、描かねばならないのだから。グイードはそう思い当たって再び仕事道具に手を伸ばしたが、結局五分ほどしてまた同じ、手持ちぶさたに戻った。
キャンパスと向かい合えばそこにはエレナ。嫌な出来事も一緒に思い出され、気分が悪くなる。それから逃げてぼうっとしても、また彼女のことばかり考えている。時間も空間も、彼女の白い肌に覆い尽くされてしまっているのだ。それで絶えず苦しい。
ベッドの上には質素な額縁が放り出されている。歩み寄って手に取った。
アノ絵ヲ見レバ誰ダッテ分カル。
分からなかった。人には分かっても自分には分からなかった。描く者と見る者の目は全く同一ではないので?
涙が出てきた。エレナの額に唇を触れるが、感じるものは冷たいガラスばかりだ。
グイードは首を落としてむせび泣いた。今日は月曜日で、彼女には会えない。
一時暖に触れたものは、かえって孤独が辛くなる。寒いと思うようになる。けれど独り。思ったところで傍らは空のままだ。
そんな時には、涙の暖かいことにすら人は心をかき乱す。何故涙ばかりが虚しく熱いのかと。
*
【十月二十五日 水曜日】
三十分も前から、エレナを待った。彼女はいつも通りに来た。鉛筆と紙を構えない自分を見て、普段と違う、と分かったようだ。私たちは飴などなめながら、少し話をした。彼女は私を励まそうなぞとせず、同じように静かに調子を合わせてくれた。それがとても、ありがたかった。考えてそうしたのでないにしても。
…私はきっとろくでなしだ。彼女を抱きしめてキスをした。…震えていたので歯が当たった。
きっと地獄に堕ちる。その地獄に彼女も連れていこうとしているのだ。ろくでなしの中の…、いや「人でなし」だ。友人が私に言ったごとく。
だが「人でなし」にも愛がある。私は、エレナを愛している。何ものにも代え難く、愛している。だから、地獄の予感に震えながら、私は彼女を抱きしめて、口づけながら、とても愛していて、あなたが欲しいと言った。
エレナにその本当の意味が通じたのか分からない。通じたと言えば私の希望のつく嘘だということになるし、通じなかったのでは彼女が寂しげに(そんな顔は初めて見た)微笑んでくれたのが説明できないから。
…私は、彼女を部屋に案内 し
(以下 脱落)
*
ねえ 私の優しいお父様
私 あの人が好きなの
素晴らしい 素晴らしい人よ
ポルタ・ロッサへ行きたいわ
愛の指輪を買うために
「…逃げられたァ?」
言った途端に、唇に指をあてて、「しーッ」とやられる。カルロははっとして口を覆うと、おそるおそる右肩越しに店の一番奥のテーブルの様子をうかがう。雷神様がそこに座っているのだ。幸い彼の声は聞こえなかったようである。
「逃げられたの。へええ、そう。…鳥、逃げちゃったの。ほーお」
そんなことを言っていたが、とうとう耐えきれずカルロは、ぐふっと喉を鳴らすと下を向いた。
「ばっかでえ…」
額を押さえてくつくつ笑う。
まあそれはそうなのだが。彼を挟んでミゲルとアルトゥーロは苦笑いした。彼らはカルロほど笑う気になれない。グイードが気の毒で。
「なんだ、それであんなに今日暗いわけ。もう来た途端すごいんだもん。びっくりしちゃったよ、お兄さんは」
カルロはやがて顔を起こしたが、長いまつげが涙で濡れている。堪えねばならない笑いほど堪えきれないものはない。
「かわいそうにねえ。おい、アル。お前慰めてやれよ」
アルトゥーロは舌を出して、黒目を上に寄せた。
「俺、絶交中よ」
「あー、そうか。じゃ、ミゲル行けば?」
バールの長老も、そう軽く振る舞えない。絵をひっぺがしたグイードの心を考えると。
「まあ、今はつつかないほうがいいだろう。カルロも今度女にひどいやり方で振られてみるといいよ」
「まあしかし、グイードには気の毒だけど、…良かったよ。何も起きなくて」
アルトゥーロが低い声で言った。
「お前はどこまでも体制側の意見だなあ」
反体制を好むカルロは、からかうような視線で彼を見る。
「…だって、子供がらみのスキャンダルなんて一番救えないぜ。これで終わりでいいじゃないか。…これ以上は危険だったよ。どちらにとっても」
と、グラスの淵を親指の腹でくるりとなぜる。
「これで終わるのか?」
カルロの問いにはミゲルが答えた。
「なまじ相手が子供だからね、…難しいだろう。関係の修復は」
「そっか、特に大人しい子は一旦逃げ出しちゃうと、もう近寄っても来ないってことよくあるからなー」
「カルロが言うと話が違う気がするぞ」
「なんだよ」
「いや」
グイードはカウンターの方にも来ず、奥で一人どんよりと濃い霧を漂わせている。はつらつとしたここ数日の元気が嘘のようだ。今もなにかぼんやりしていて、もしかすると、仲間たちが声を落とさなくとも、聞こえてなどいないのかもしれない。
「グイードの恋も終わりか」
カルロもやや湿っぽい声でぼそりとこぼす。ミゲルのため息が重なった。
「ま、仕方ないだろな。どれだけ運命の出会いでも」
「アーメン」
三百六十五日バールにいれば、こんな日も当然ある。みんなももう慣れていた。落ち込んだ雰囲気なら落ち込んだ雰囲気のまま、それなりに平穏に過ぎるものだ。またいつか新しい喜びも来る。
騒ぎが起きたのは、それから三十分位したときだった。シルヴィアがやってきたのだ。彼女はしたたかに、酔っ払ていた。
「やっほー! みんな元気?」
入ってくるなり、たがが外れたような大声で、静かな夜を過ごしていた仲間たちをぎょっとさせる。
彼女は少しふらつく足でカウンターの方にやってきた。コートも脱がないで、
「ヴェッキア・ロマーニャ!」
と、主人に言ったかと思うと、突如そこに突っ伏してしまう。額をテーブルにぶつけて、ごん、と随分痛そうな音がした。
「おいおい。どこでそんなに飲んだんだ」
主人はまるで自分が怪我したみたいに顔をしかめる。
アルトゥーロが彼女の後ろに回って、コートを脱がせてやった。シルヴィアは酒が好きだが、こんなに酔うのは珍しい。
「いやさあ」
また唐突に顔を上げると、場違いにご機嫌な声を出した。
「サンマルコ近くでえ、アメリカ人のナイスガイに誘われちゃってね。どおっ、シニョリーナって、あっはは。今の今まで一緒に飲んでたのお! 君とどうしてもっと早く会わなかったんだろうだって! 会うわけないじゃない。間に大西洋があんのよってねー。あはは」
差し出されたグラスをつかむとぐいっとあおる。むっとしたような目を主人に向けた。
「水じゃない!」
主人はカウンターの向こうで涼しい顔だ。
「分かるならまだ平気だな。が、今はやめとけ」
シルヴィアは不満げに眉を上げたが、強いことは言わなかった。カルロが、少し身をかがめてミゲルの後ろから声を掛ける。
「シルヴィア、それで済んだから良かったようなもんだが、観光客なんか相手にするもんじゃないよ。連中はディズニーランドでミッキーと握手するのと同じつもりなんだから、なんだろうが行きずりの、くだらん恋愛に終わるぞ」
「そんなこと分かってますー」
「あと、今日は葬式出してるやつもいるんだから…静かにしたほうがいいって」
「あらあ!」
と、顎で何かをはじき飛ばそうとするかのように、素早く首を回して奥のグイードの方を向いた。彼は、先刻彼女が飛び込んできた時から、憮然とし顔も上げないでいる。
肩をつかもうとしたアルトゥーロの手は間髪遅れて宙に虚しく、シルヴィアは体重を感じさせない軽やかさで店を横切ると、グイードの隣に腰を下ろした。
「とうとう振られちゃったのー!?
どうせ色気でも出して、早まったことしたんでしょう! ばっかねえ、ものには順序ってものがあるのよ」
「神様…」
と、こっちで呟いたのはカルロだ。
グイードは、怒りをまみに込めて彼女をにらみつけた。いつもの爆発する火花ではなく、深い恨みを根本に持つ、青い静かな完全燃焼の怒りである。
「どっか行けよ」
渇いた喉の空洞に、声が跳ね返って、口から出る頃には憎悪の炎になっている。彼はほとんど竜だ。
「お前の顔なんか見たくもない」
そんな汚い台詞を言い捨てると、目を下に落とし、押し黙る。
シルヴィアの魅力的な目元に、意地の悪い光が差し込んだ。馬鹿笑いはやんで、いつも通り不敵な口調に戻る。
「おもしろ―い。いつもは聖人君子然としたツラが、私を見るときにだけ嫌悪でぐちゃぐちゃに歪むのね」
グイードの眉がぴくりと反応する。
…だから彼女が嫌いなのだ。人を憎んだり差別したりしたくないのに、彼女はその偽善を暴こうとする。女臭い赤い唇と、しなやかな指と、刺すような眼差しで。
「あんたって、ほんと馬鹿よね。きれいな夢ばかり見て…」
刹那、爪をぬったシルヴィアの手が、すっと白い線を描いた。思わず体を引くグイードの肩をつかむと、椅子から伸び上がるようにして素早く彼の唇にキスをした。
勢いづいていたので、がちっと前歯がぶつかる音がカウンターまで聞こえ、世界中の空気を凍り付かせる。
グイードの右腕が、力任せに彼女を叩き返そうと動くのと同時に、シルヴィアは飛び退いた。彼の腕はうなりを上げて空振りする。少し遅れて椅子が倒れた。
「あは、ははは!」
シルヴィアの嘲笑が、彼の両頬を打った。表現できないほどの怒りと、屈辱と、凶暴な血の感情が、脆弱な皮膚を破ろうとむちゃくちゃに暴れて、グイードを粉々にする。
「この野郎…!!」
彼女は笑いながらカウンターのアルトゥーロの肩にしなだれかかる。
「シルヴィア!」
仲間の戸惑いにも関わらず、彼女は何がそんなに面白いのか、げらげら笑っている。
「シルヴィア、やりすぎだよ!」
「うふふふふ」
目尻が溶けるような笑い方だ。
彼女を殺しかねない勢いのグイードを、カルロが体で止める。そこで受けきれず二三歩後退した。
「…この、恥知らず!!」
身体を震わせて怒鳴る。今まで彼がこんなに全身全霊で怒るのを、誰も見たことがない。恐らくグイードだって初めてだ。
「グイード、酔ってるんだよ」
カルロはなだめたが、彼の耳には入らなかったし、言った本人にも聞こえてなかった。
続けて、手に余る怒りのためだろうか、グイードのわななく唇は、少し見当違いなことを叫んだ。
「…歯をぶつける女なんか大嫌いだ!!」
カルロの体が、つっかい棒を失って少し前に出る。扉が閉まるより先に、走り込んだグイードの背中は見えなくなった。かなり遅れて、ガラスのドアはゆっくりと元の位置に戻る。それまで店の中はしいんとしていた。
「あーあ」
カルロのため息が一番先だった。両手を広げて、体を反転させる。
「怒らせちまったよ」
半ば諦めたように言いながら、自分の席へと戻る。
「おーい、大丈夫か? シルヴィア!」
アルトゥーロは首から下にだらりとぶら下がる彼女の体を揺すぶったが、うんともすんとも反応がない。
「寝てるよこの人―。立ったままで」
半泣き顔でアルトゥーロは言った。体勢が体勢なので、辛いのだ。
「奥の部屋に寝かしとけよ。お前鍵持ってるだろう」
と、主人がミゲルに顎をしゃくった。彼は頷いてカップを置くと、二人に歩み寄ってぐったりしたシルヴィアの体をもらい受けた。
「ったくもう」
と、兄のため息をつく。
それから奥の階段へと、慣れた足取りで向かった。
残された二人と店主は、一通りやれやれとか、まったくとか言った後は、腹に一物抱えながら黙っていた。けれど共通の思いは、カルロがついに、
「それにしても…」
と言いだしたときに、他の二人が同時に吹き出すという形で顕れた。全員が同じことを考えていたわけだ。
一体グイードはどんな稚拙なキスをエレナとしたんでしょうねえ、とラテンの男たちは顔を見合わせて、遠慮をしながらしかしやっぱり、失笑をもらしたのだった。
*
【十月二十六日 木曜日】
ぼんやりしていた。一日中、呆然としていたと言っていい。恋は幸福なもののはずだ。それなのに、私は今幸福でない。
エレナを所有できたのは一瞬のことだった。もう彼女は傍らにいない。行ってしまった。手の届かないところに。もしかすると永久にかもしれない。
彼女はもう戻ってこないかもしれない。
…恋とはもしかすると、自分の足を切り取って、血の滴る肉をさあ食えと、愛する人に差し出すことなのかもしれない。そしてそれからお前の肉をよこせと小指に噛みつく、そんな相手を苛み、苛まれる行為なのかもしれない。
恋情で、エレナを幸せにすることはできないのだろうか……。
*
次の日の夕方、まだラッシュが来る前のやや静かな時刻に、アルトゥーロは『ラピダ』に顔を出した。仕事が早く終わったので、幸せな気分だ。
「やあ」
肩からバッグを下ろしながら、自然とこぼれる笑顔で挨拶した。
「いらっしゃい、今日は早いね」
「はは、ちょっとね」
と、脱いだコートを壁に吊しながら、
「ミゲルはいる?」と聞く。
「ああ、また本か? 部屋だろう」
「じゃあちょっとお邪魔しよう」
アルトゥーロは階段へ向かう。ミゲルの豊富な蔵書を借りるために、なんども部屋に入ったことはある。半分以上が本棚で埋まった魅力的な小空間だ。
この街の歴史は古く、建物の外観はぼろぼろであることが多いが、内側はびっくりするぐらい清潔で丈夫である。ちり一つない階段を上がり、突き当たりの見慣れた扉の前に立つ。小さな窓から夕日が、床に十時の模様を落としていた。
いつものように気軽にノックしようとした手はところが、中途、ぴたりと中空で止まった。
「…君はいつまで、俺に構うつもりだ?」
扉の向こうからそんな彼の声に続いて聞こえたのは、女性の――正確に記せばシルヴィアの、声だった。アルトゥーロはそのまま中に入るタイミングを失って、何となく扉の前に立ったままになってしまう。
「…そういう言い方は、結構ひどいと思うわ」
固いものがぶつかる音がした。カップか何かだろう。
「君は若い。先にどんどん進むべきだ。こんな中年のことは放っていきたまえ」
少し沈黙があった。
「…あなた自分でいくつのつもりかは知らないけど、まだ三十五よ。達観する年じゃないわ」
ミゲルは笑ったらしかった。
「心は百億歳だ、もう」
その返事はさらりと言われたが、人を恐怖させる深い絶望が背後ににじんでいた。アルトゥーロも、多分シルヴィアと同じように、どきりとする。人の喉から、漏れてはならないような言葉だ。
「…一方的に文学に惚れ込み、やがて全くの凡才であることを思い知り、それを認めたくなくて惨めなまでに努力をした。
それが失敗に終わってからも、酒で自らをごまかし、舌で人をだまし続けてきた。けれど誰より自分自身が知っている、俺には才能がないのだ、ただのクズなのだと。
神に向かって媚び哀願しようが、唾を吐き掛け恨み言を並べようが、そんなことはミューズの知ったことじゃない。絶望して酒に溺れ煙草を飲みクサをやり―――――、自殺までやった。
二十九の時だ」
アルトゥーロの目が歪んだ。見飽きたと思っていた扉を前にして、まったく違う部屋の前に立っているような気がする。いや、ドアはやはりいつもと同じだ。
ただ、中の…。
「病院のベッドの上で神を呪ったよ。
…何故、死ななかったのか。生きる、ああそれも悪くはない。…しかし―――、何のために」
ミゲルは少し言葉を切った。
「…俺の母は狂人だから、俺もそうかもしれない。…君に出会わなければ、俺は死ぬまでナイフを離さなかったろう。今はもう死のことは考えない。そのことは、本当に感謝してるよ」
中でことりと靴音が鳴った。それでアルトゥーロは、口元を右手で押さえている自分に気付く。
「だが、俺はもう終わってしまった人間だ。
…もうかかずりあうな、少なくとも俺に義理立てすることはない。前に進みたまえ」
シルヴィアから、長い間返事がなかった。泣かないために、時間を掛けて努力しているのが分かった。やがて低い声が漏れた。
「進んだ先に、何があるというのよ」
「人がいるよ。…君に歯があると言って怒る男が」
「………なに? それ」
「…彼には君が必要だし、君は彼の才能に惹かれ…」
ぱん! と渇いた音がして、ミゲルの言葉は途中で止まった。扉のこちらの肩も、びくっと震える。
「…私のことが嫌になったんならそう言えばいいじゃないの!」
出てくる、と思ったアルトゥーロは慌てて廊下の先へ退いたが、そこまでで、部屋から飛び出してきたシルヴィアは、すぐに彼の存在に気がついて足を止めた。二人はそのまま見合う。
アルトゥーロは、彼女が泣くところを初めて見たせいもあり、気まずくてなんと言ったらいいか分からない。シルヴィアは一瞬のためらいの後、また足早に廊下を蹴り始める。アルトゥーロとすれ違う時、「いい趣味ね、出歯亀?」と小さく言った。
彼は彼女の後ろから一緒に下へ戻った。今ミゲルの部屋に入るのは、だめだと、そんな気がしたからだ。
二人でテーブルに着いたときには、シルヴィアはもう涙など散らしてしまっていた。いつものりりしい表情で、ただ無言だった。
「ごめんよ」
アルトゥーロは、これしか方法を思いつかず、謝った。すると、シルヴィアは意外なほどたやすく、しかし寂しげに微笑んで、もういいわと言う。
それから、
「あー、あたしったら、本当に懲りないわね」
と、紅茶のカップの隣に肘をつき、苦笑した。
「ダメな男ばかり好きになるのよ。…それとも、あたしがダメにしてるのかしら」
「僕に」
アルトゥーロは指を組み合わせる。
「何かできることある?」
シルヴィアはしばらく彼の目を見つめていたが、
「じゃあ」と、口を開いた。
「質問に答えて。ノ、かスィで」
微笑みを浮かべながら、しかしごく真面目に、彼女はアルトゥーロに相対した。
「あたし今のままでいいわよね」
彼の黒い瞳が揺れた。いつも美しくたくましいシルヴィアから、自分は自分でいいのかなどと聞こうとは思わなかったので。
「お人形さんのように、愛嬌を振りまかなくてもいいわね? …嫌なことは嫌と言っても、…かわいらしく泣いてみたり、すねてみたりしなくていいわね?
…女である前に、人間として存在していいわよね」
アルトゥーロは息を吸い込んだ。それからしばらく、考えていた。
「…僕達の存在自体が、君を苦しめてる?」
やがて漏れた問いには、彼の戸惑いがあった。自分はそんなにいつも知らず、彼女を苛んでいるのだろうかと。
「時々ね」
シルヴィアは視線をぼんやりと、カップの中の紅い海に注いだ。
「口当たりのいい砂糖菓子のようになれと暗黙のうちに言われたり、…頭の中で素っ裸にされているのが分かるようなときには、…女に生まれてこなければ良かったと思うわね。あはは。それで男が望む女になんかならない、と決意を新たにするわけよ。
…でも、そんなことを考えているから私はいつまでも幸せになれないのかもしれないって思うこともあるのよ。望まれる姿になる方が簡単なのかなって。なんとなく分かるでしょ?
…難しいわよね、人生って」
アルトゥーロは、何かに気が付いて、眉を歪めた。
人が暖をとるために焚く妄想という名の炎がある。それなしに人は生きていけないけれど、誰かの幸福のために火にくべられている人間がどこかに、見えなくてもいるのだ。そんなことが、ふと分かった。
しばらく沈黙があった。じきに、シルヴィアが再び口を開く。
「…でもね、アル。私、愚痴嫌いなのよ」
白い歯を見せ、彼女は穏やかに微笑んだ。そのまぶしさに、飛び越えようのない溝を抱えたまま、アルトゥーロも苦い微笑みを浮かべる。
きっと二人が同じ地平に立つ日は来ない。それでも互いに微笑み合って、少なくとも友達でいられる。二人の笑顔には、そんな苦みの末の希望があった。
しばらく後、ミゲルが下りてきて、アルトゥーロに普段と変わらぬ気持ちの良い挨拶をした。彼はいつもタートルネックの服を着て、首を人の目から守っている。きっとそこには誰もが同じように内側に抱えている不可視の、薄いかさぶたで覆われた、傷跡があるのだ。
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