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けれどひとりのひと
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 数日後。
図書館の事務室でパソコンに向かっていると、事務長がコーヒーを両手に持って、廊下の方からやってきた。
「ミゲル、一休みしないかい」
と、応接机に二つとも置く。ミゲルは喜んで、パソコンの前から立ち上がった。カップから立ち上る香ばしい匂いがたまらない。
「おいしいですね」
「いや、全く」
 事務長が首を回すたびに、骨の鳴る音が聞こえる。こりの激しい体質らしい。
「カフェを飲むためなら、プランテーション制のなにが罪悪だかなぁ」
とぼけたことを言うと、今度は腕を回し始める。ドン・キホーテが闘った風車の巨人のようだ。腕は二本だけであるが。
 ふと用件に思い当たり、巨人は腕を下ろした。
「そうだ、君、今度の『月刊書評』に一筆書く気ないかな。四枚くらい」
「え? 何で私なんかが?」
 『月刊書評』は部数こそ少な目だが、かなり高度な専門誌である。名前の通り新刊本の批評が主であるが、後半には学者や作家、関係者のエッセイなども載る。
「いや、連載してる老学者先生、急病で倒れてね。今編集部が大慌てなんだよ」
「仮病じゃなくて?」
「うん、ほんとの病気。市民病院で今、虫の息だって。もっとも遺言は? って聞くとワシはまだ生きとる! と元気になるらしいが」
「…ははは」
「編集部は僕に書けと言ってきたんだが、ご存じの通り忙しくてね。君に、どうかと思って。締め切り五日後なんだけど、紹介していいかな?」
 ミゲルは頭を下げる。
「どうもありがとうございます。お願いします」
「いや、お願いするのはこっちなんだから、そんな格好は止めようよ」
と、事務長が手をばたばた振ると、骨がばきばき鳴る。一体どういう間接をしているのだろう。
 今夜あたり電話が行くよ、と言って、彼はまた出ていった。
ミゲルもまた軽くうなり声を上げている電子機器の前に戻る。データベースに資料を打ち込みながら、どんなことを書こうかと早くも頭の中はいっぱいになる。
 成功が見えなくなっても、とうとう筆だけは離すことができなかった。時々もっと小さな雑誌に変名で書いたりもする。自ら冷笑を浮かべながら。
「…ん?」
 ふと、ミゲルの目が画面の一点に止まった。手が、鍵盤を叩くように素早く動く。
「……」
 それから、彼は鼻の下に指をあてて、しばらく考え込んでいたが、やがて傍らに散らばるいらない紙に何事かメモすると、それを畳んで胸ポケットにしまった。
 そして再び、資料の山と格闘を始める。ちらりと時計を見た。午後二時を少し回ったところだった。





*







【十一月一日 水曜日】

 来るか来ないかそんなことは分からなかった。ただ、会いたかったので行き、待ちたかったので待った。
 いつも二人で座った橋の欄干に、一人で腰を下ろし、彼女と出会った晩のことを思い返していた。
…雨に歌えば、雨に歌えば、すごくいい気分…、私はまた幸せ…。
 彼女の幸せを、私はむちゃくちゃに汚したのかもしれない。自分の身勝手で、あの魂をこの手で犯したのは自分かもしれない。
 そんなことを考えて、待った。
彼女は来ない。
それでも待った。
 一度時計を見たら、十時をとうの昔に過ぎていた。
私は罪の贖いをしているような気分になった。首を垂れて、それでも待った。





*








 寒い晩だった。不意打ちを食らわせる冬の冷気に背中を押され、アルトゥーロは『ラピダ』の中に駆け込むように入ってくる。
「ふわー、今晩は親父さん」
挨拶の息がまだ白い。
「よ、寒そうだなあ」
「寒いよー。ウィンターコート出さなくちゃ。十月でこれだもん、たまらないね」
主人は、小首を傾げてカレンダーを見る。
「あれ? 今日何日だっけ?」
「二十八日、でしょ」
「ほんとだ。いっかんなあ年とると、一週間が早くて」
「あはは。ホットウィスキー・トゥディちょうだい」
「五千ね」
 勘定を済ませて釣りを財布にしまっていると、先に来ていたカルロが横にやってきた。
「やあカルロ。…どうかした?」
と聞いたのは、彼が珍しくひどく深刻な顔をしていたからだ。職場で別れた時はいつも通り明るい感じだったが。来たばかりなのかコートも脱がずにいる。
「ちょっと、…来い」
「ウィスキー…」
「いいから来い」
と、テーブルの方に連行される。泣きながら従うと、そちらにはミゲルとシルヴィアがそろっていた。二人とも何か怖い顔をして黙り込んでいる。
「なに、どうしたの? 今夜は」
 その鼻先に、ミゲルが四、五枚の紙を差しだした。アルトゥーロが思わず受け取ると「読んでみてくれ」と、言う。状況が飲み込めなかったが、とりあえず言われたままに、目をあてる。残りの全員が息を詰めて待っているのが感じられるので、気が急いた。
 やがて静寂のうちに一枚、二枚と紙をめくるうち、アルトゥーロの顔に青みが差してきた。最後まで読み終わると、死神に寒い頬をなでられる驚愕の面持ちで、仲間たちを見た。
 声が漏れた。
「これ……、一体どういう…」
誰も答えなかった。答える言葉がなかったのだ。ただ、不吉な予感だけがみんなの胸をじっとりと重たくさせる。
「グイードは?」
 誰かが言う。言った途端に答えが分かった。今日は十月二十八日、…水曜日である!
「カッレ・ボンディ…!」
四人の声が重なった。それからカルロとアルトゥーロは顔を見合わせると、示し合わせたように二人で駆け出した。
 それを見送った主人があっけにとられて、
「アル。どこ行くんだ、来たばかりで…」
と、出来上がったカクテルの前で呟いた。
「ただのウィスキー・トゥディになっちまうぞ」






 「来たね」
グイードは、声も心も複雑な喜びに震わせながら、目の前に立つ少女に言った。
「…もう、会ってくれないかと、思った」
 エレナは無表情のままだ。二人ともそこに突っ立ったまま、歩み寄ることも離れることもできないでいる。
「あのね」
長い沈黙の後、エレナが口を開いた。
「ばいばいなの」
 その言葉の意味するところは明瞭であって、理解するのに時間が必要なわけはなかった。しかしグイードがしばらく動けなくなったのは、腹に思い衝撃を食らったからだ。
 顔が青ざめるのが分かった。
「どうして…」
「…シスターが、もう会っちゃダメって」
 グイードは彼女が進んで自分から離れたいと思っているのではないのだと分かって、少しだけ安心した。
 けれど、悪い状況には違いない。両手をぐっと握りしめる。
「僕は、…君と別れるなんて嫌だ。…とても耐えられない」
 …めまいがした。
ぜんたい自分は正気だろうか。十二の子供相手に、何という言葉を使っているのだ。欲望はまだなんとでも説明できる。しかしこの自分の行為は一体何なのだ。
 だが戸惑いはあっても嘘偽りだけはない。眉が歪むほどに胸が熱いのは、恥のためではないのだ。
「…君は、君はいいの? …これでもうお終いで…」
 エレナは、非常にゆっくりと地面を見た。そのしょんぼりしたような姿に、グイードは涙が出そうになった。先の拒絶はともかく、エレナは自分を愛してくれている。そう確信したのだ。







 いくつ橋を渡ったかもう覚えていない。夜のヴェネツィアは本物の迷路だ。焦っているときには、地元の人間でも道を失う。それでもボンディ小路に着いた。…まるで、この狂おしい夜全体が、見えない何かに引きずられているみたいだった。
 建物の角から、橋のたもとに一人で立つグイードの背中が目に入った。飛びだそうとするカルロを、アルトゥーロの手がさっと制する。自分を見返す彼に言った。
「…見ろよ…」
口を手で覆う。
「あ、あいつ…」
息を弾ませて、体は汗だらけなのに、全身にぞーっと鳥肌が立った。

 …誰と話してるんだ?







 グイードはゆっくりと、エレナに歩み寄った。ここで彼女を抱きしめれば、多分また来週も来てくれる。そんなわけもない予感があった。
 白い肩がしかし、一瞬の食い違いですっと彼の手を逃れた。
グイードははっとする。
 エレナは二、三歩後ずさると、次の瞬間、目に鮮やかに白を翻した。
「エレナ!」
 グイードは、彼女の後を追って、走り出した。先週の水曜日も、こうやって彼女は走り去ってしまったのだ。今日ここで彼女を逃したら、もう本当にこれっきりになってしまう!
 グイードがいきなり駆け出したので、壁から二人も飛び出して、後に続く。
「まさか、…連れて行かれるんじゃないだろうな」
「…グ、グイード! 待てェ!」
カルロが引きつった声で叫んだが、彼に届いた様子はない。何かに憑かれたように、必死で走ってゆく。
 複数の足音が夜の石畳にこだました。グイードは闇の中に白く光る、彼女の背中を見失うまいと、死にものぐるいで走った。時々足首が痛み、骨が軋んだが感じなかった。遠く灯台の光を見失わぬように、風雨にマストが折れたとてなんだろう。
 ――――だめだ。行かないでくれ!
一緒に何もかもが逃げてしまう。僕を置いていってしまう。僕はまた独りになって、惨めに落ちぶれるだろう。
 …愛も、栄光も、未来も、喜びも、みんな君が運んできてくれるはずなんだ。逃げないでくれ。
僕を置いていってしまわないでくれ! お願いだ、僕を見捨てないでくれ!
熱い涙が頬を伝った。また懸命に走る。
 ふいに、エレナの姿が強い横風でも受けて、火が消えるみたいにふっと見えなくなった。角を曲がったらしい。
 慌てて走り込むと、開いた鉄の扉が風に微かに揺れていた。さらに行こうとしたその時、グイードの背中にどんと突き当たるものがあった。完全に不意打ちで、足も疲労で踏ん張ることができず、彼はそのまま地面に転がる。
「うわっ!」
 自分と一緒に地面にへたっているのは、見ればよく知る友人ではないか。
「何をしてるんだ!」と、わけもわからないままに怒鳴りつける。
「グ、グイード。…もう追いかけるな。…だめだ!」
カルロが激しく喘ぎながらやっと言った。
「うるさい!」
 グイードは立ち上がった。二人も死にものぐるいで追いすがる。なにせ手を離したら「連れて行かれる」と思っているのだ。
「待て! 待て、グイード!」
 男二人を引きずる力が、ひ弱なグイードにあるわけがないが、確かに彼は非常な力で前進した。
 門の向こうは菜園か、小さな庭という感じだった。植物が繁り、道の傍らには畑がある。踏み込むと砂利が靴の下でぎりりと鳴った。
 人気がない。ことりとも音が鳴らぬ。白い光は消えてしまった。
―――――――ああ…、行ってしまった。
 全身の力が抜けたが、次の瞬間、庭の中央の台の上にエレナの姿を認めて、彼は安堵に微笑んだ。力を取り戻して茂みの中へ進みかける。
 …が、そこまでだった。
ぴたりと足が止まる。グイードは少女を見上げて、愕然とした。
 彼女は彼を優しく見下ろし、笑っていた。幸福そうに、満面の笑みで。
 だがそれは人間でなかった。
白い大理石の―――――――彫刻だった。






 夜の静寂が、喉元にひやりと冷たい指を伸ばし、頸動脈を締め付ける。それで血管が死の恐怖にのたうちまわっている。
 目の前には白い少女の姿。頭の中も真っ白だ。本当に、真っ白だ。一言もひねり出せない。
「誰ですか! そこにいるのは」
鋭い女の声がしたかと思うと、奥の建物の方でちらちらと明かりが動くのが見えた。
 「やばい!」
誰かがグイードの背中で言う。
「出て行きなさい、ここは教会ですよ! 全く罰当たりな! 恥を知りなさい!」
 そんな声が鼓膜を打っても、グイードはまだ呆然として、石のように固くなったままだ。
「おい! 出るぞ、グイード!」
 肩に置かれた手が、自分を後ろに引っ張る。だが体が全く動じないので、手の方が外れてしまった。
「馬鹿この…!」
 今度は腕が伸びて、脇の下からグイードの細い体を斜めに固めた。ずるずるっと、引きずられるように、彼は少し後退した。
 一人の男がいきなり視界に飛び込んできたと思う刹那、頬に痛みが走った。くるくるっと目が回って、再び焦点が定まると、目の前の男はアルトゥーロだった。
「帰るぞグイード!」
 両方の瞳でしっかり自分をのぞき込みながら言う。グイードはただ、何が起こったのか分からない、というふうに彼を見ていた。
 夜の小道を強張る足で引き返しながら、カルロは混乱した頭の隅で考えていた。
…なるほどあれでは、歯はないよな。と。
 自分でも何がなるほどなのか、さっぱり分からなかったが。










 
   



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