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けれどひとりのひと
= 6 =





   








 気がつくと、『ラピダ』の中だった。煙草の煙に音楽が流れ、狭い店内にはいつもの仲間たちだ。自分を取り巻き、見下ろしている。白昼夢からはっと覚めたような気分だった。
 グイードは一人でテーブルに座っていた。いつ頼んだのか、半分ほど酒の入ったコップが、目の前に鈍く光っている。
 彼は、のろのろと視線を上げると、仲間たちを見た。彼らは不自然なまでに何も言わず、全員こちらを向いているくせに、目が合いそうになるとつと逸らしてしまう。
 だが、ふいにシルヴィアが近寄ってくると、彼の目の前に紙切れを突きつけた。問いかける眼差しを彼女に送ると、
「あなたのお父さんの日記よ。ミゲルが図書館所有の資料をコピーしてきたの」
「シルヴィア…」
横からカルロが思わしげな視線を投げたが、彼女は構わず続けた。
「今見るか、後で見るかよ」
 真剣な口調の彼女の手から、グイードは紙を受け取った。顎が落ちて、彼の視線は中の文章へと注がれる。
 かなり長い間静かだった。ため息がこぼれそうになった頃、突然グイードの両手から紙が床に落ちた。痙攣する手で、真っ青になった額を押さえる。歯の根がかみ合わずガチガチ鳴った。
「そんな」
何かに抗議するような声でグイードは言った。首を振る。
「そんな」
もう一度言ったら、涙が出た。
 視界が細まり、一緒に現実が歪んだ。瞬間、堰を切ったかのように頭の中でエレナがスパークした。
 ――――ぼ――ぼぼ、くがあったのはか、のじょではなくくかのじょがあ、ったのはぼくで、はなくぼくはかのじょををあいしあいさずかのじょはぼくにほほえみほほえ、まずかの――じょは―――
 床がぐうんとうなりを立てて持ち上がった。
「グイード!」
 シルヴィアが叫ぶ。
彼は両手で口を押さえ、体を前に思い切り折り曲げた。押し殺した呻きが漏れる。
「洗面所だ!」
 ミゲルが一番初めに動いた。今にも胃の中味を吐き出しそうな彼の体を、三人がかりで奥の洗面所まで運び込んだ。


 グイードは吐いた。何もかもを吐いた。
食ったものを吐き、消化液を吐き、血を吐き、顔を、魂を、世界を白い陶器のうつわの中に、際限なくどこまでも吐いた。自分が何者か分からなくなるまで。
 ようやくそれが収まると、彼はふらつく足で立ち上がろうとした。差し出された仲間たちの手を押しのけながら、出口の方へ向かおうとする。
その瞬間、崩れるように床に倒れ込み、彼は意識を失った。






*





 それから三十分ほどたった頃、ふと顔を上げると、そこに中年のシスターが一人、立っていた。私と目が合うと、厳しい表情で、「エレナは来ません」と言った。
 私は立ち上がり、説明を求めた。だが彼女は説明と言うよりは非難ばかりを聞かせてくれた。
「あなたは名を知られた画家だそうじゃありませんか。恥ずかしくないのですか!
 あんなかわいそうな子供に対して、…おお、何という卑劣な行為を! 二度と私どものエレナに近づかないでください!」
 シスターは逆上して私の頬を打った。二度も三度も打った。私が涙を流してもう一度聞くと、彼女も泣きながら教えてくれた。
 エレナは懺悔したのだ。もう私に会わないようにと言われ、そうしますと涙を流して言ったのだという。四肢をわななかせて今も泣いているのだという。
 シスターは立ち去った。
私も魂を抜かれた気分で、家まで帰った。
 彼女には、もう会えまい。二度と会えまい。
無理会えば彼女は傷つくだろう。私が彼女を思い彼女が私を思っていたとしても、エレナは神様に約束をしたのだから。
 …心に、大きな穴が空いてしまった。それを埋めることは一生できないだろう。
 私の人生は終わった。…後は余計だ。虚しいだけの抜け殻だ。日記を付けるのも、今日限りだろう。今でさえ、空虚な言葉を語るのは血を吐くように辛い。
 …この日記は墓標だ。…私はもう、彼女の呼んでくれた名の男、グイードとして生きていくことはない。グイードとしての、これが最後の言葉だ。
 ただエレナがまだ世界のどこかにいて、いつか再び会えるかもしれぬということだけが、私の救いである…

一九五二年 
グイード・アルチバルド・M・フォルリーニ










一九五五年四月三日 
施設から知らせが来た。
エレナが死んだ。
本当の、おしまいの日だ。






*








 母が、私を呼んでいるという。町中をさまよう幽霊になって、私のことを呼んでいるという。
 私の母は狂人である。トリエステで生まれ育ち、そこで結婚して私を産んだ。もともと動揺しやすい性格だったが、病気と言えるほどに言動がおかしくなってきたのは、私が思春期を迎えた頃、父が事故で亡くなってからだった。
 母は三週間入院し、すっかり別の人間になって戻ってきた。私のことを嫌いと言って、避けるようになった。私が側に行こうとすると慌てて逃げる。
 一度腹を立ててぎゅっと両手をつかんだら、大きな声で殺されると泣き叫び、近所から人を集めることになった。
 それからは入退院を繰り返し、急速に現実の世界から遠のいていった。一緒に私からも遠のいた。
 母が家にいた最後の日のことを書こう。六月のよく晴れた日曜日だった。私は庭に寝転がり、うたた寝をしていた。突然腹に鋭い痛みを覚えて、芝生から跳ね起きるとぎゃあと言いながら母が逃げていった。私の体の上には、バラバラにくだけた木の破片が散らばっていた。
 母は家の裏手に転がっていた木材を振り上げて、私を殺そうとしたのだった。私がほとんど無傷で助かったのはその木がもう腐っていたからだ。十六歳の時だった。
 それから離ればなれに十年以上も暮らし、今頃になって、母が私を呼んでいるという。
もうトリエステにいない私を呼んでいるという。 
 私はその話を、友人から偶然聞いた。友人の知り合いにトリエステを旅した人があって、彼自身老婆に声を掛けられたという。
母の声はそんな経路で私に届いた。
 …母が私を呼んでいる。多分殺すために。
…私は、殺されに帰ろうと本気で思った。そのために産まれてきたのならそれでもいいから、殺されに行こうと思った。心から母の愛を乞いながら、私は自分が何者であるか分かった。
私は自分を産んだ者の手によって、葬られるはずの人間である。
 母の声が私に届く。私の涙が彼女に届く。
そうやって私たちは崖の向こうとこちらで愛し合う。二人を隔てる深い谷こそ、私たち親子の前に横たわる真実である。


 過去から思いがけない便りが届いて、心かき乱される夜がある。どれほど苦しく思ってもその手紙を破り捨ててしまってはいけない。そこには宇宙の闇のごとく、凝縮された真実が、懐かしい人の吐息と共に込められているからだ。
 母からの声が私に届いた。殺してやるとそう聞こえた。それが私の真実である。
 そしてもしもこの文章が、少しでも人々の心を動かすことができたならば、それは母の声が私に力をくれたのだ。トリエステのうら寒い街角を徘徊しながら叫ばれ続ける、「ミケーレ!」という声が、読者のもとにも、届いたということである。


(執筆ミケーレ・ロッシ)





*








『グイード・B・フォルリーニ殿

 貴下の応募作『エレナの肖像』は、今期ミラノ芸術協会トリエンナーレにおいて優秀と認められ、当協会は貴下に、審査員特別賞を授与することを決定致しました。
 ついては授賞式にご参加をいただきたく、取り急ぎここにお知らせいたします。
また、審査員一同より心からのお祝いを申し上げます。……』










 
   



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