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けれどひとりのひと
= Epilogue =





   









 昼間でも夜でも、この辺りはいつも静かだ。今はましてや冬である。暖かい部屋からなにを好きこのんでこの夜半、寒い外出などするだろうか。
 ところが一つの足音が、遠くから響いてくる。ゆっくりと慌てぬ足取りで、運河のほとりを歩いてくる。やがて袋小路の先で、青い人影は立ち止まった。
 まだ旅装束のグイードは、鉄格子に片手をかけ、揺すってみたが、しっかり施錠されていて、がたがた動きはするが、彼を中に入れてはくれない。諦めて、冷たい鉄の肌に額をつけた。
 冷たい。
しかしその冷たさが無性に愛おしく、グイードはしばらくそうしていた。自分が吐き出す白い湯気が、彼の頭の周りを柔らかに取り巻いては、闇に霧散してゆく。
 微かな足音が、グイードの瞼を開かせた。鉄の扉から身体を離す。彼と同じ道をたどって、ここへやってくる人がある。グイードは闇の中、少し目を細めた。



「こんばんは、グイード」
現れたのは、シルヴィアだった。横を向いたグイードの唇から、思わずため息がこぼれた。
「なんだ…」
「なに?」
「いや……」
「エレナかと思った?」
「……」
 「…みんなが店で待ってるわよ。主賓を呼びに来たの」
シルヴィアは彼に近寄ると、横に立って格子の間から教会の中庭をのぞき込んだ。
「ここを中から開けてきたの。大したものね。でも、もうここにはいないんでしょ?」
 フォルリーニの幻の作品と呼ばれていた『少女の立像』はベッカーズ美術館が買い、十一月の末にワシントンに行ってしまった。今、この教会の中庭には別の、…天使の像でも立っているだろう。
 グイードは扉に背中をつけたまま無言だった。
「おめでとう」
食い違った姿勢のまま、シルヴィアが言う。
「…ありがとう」
グイードの返事はむしろ素っ気ない。
「いい絵だったわ」
「…どうも」
「本当に好きだったのね」
沈黙が立ち戻ってきた。寒さが、耳の奥でキーンと音をならす。
 グイードはますます痩せた。そして常ならぬ出来事を体験した者の常として、今までとは雰囲気ががらりと変わって見えるようになった。良くも悪くも落ち着いて、少し老けような感じがする。
 その昔、一晩の恐怖で髪の毛が白髪になってしまった王妃がいたというが、彼は全体に引き締まり、無口で滅多に激さぬ落ち着いた男になった。それは彼の父親が少女を失って以後、自己破壊型の人生を歩んだのとは正反対である。
 「どんな気分?」
「え?」
「同じ人を愛するのって」
「食べたもの吐いたことがあるね」
「うん」
グイードは腕を組んだ。
「あんな気分」
「……」
「親父が彼女を犯すとか自分で二人とも殺すとかすごい夢見るよ。…それから、殺したいほど憎い父の、一番父らしい部分を見事になぞった自分の馬鹿さ加減に、…笑いたいような、泣きたいようなそんな………」
 グイードは、全部言ってしまってから、こんなこと言うのじゃなかったと思った。シルヴィアに舗装もされぬままの本音を話すことなど今まで一度もなかったのに、ついぽろりとやってしまった。
 散々にからかわれるかと思ったが、彼女は黙ったままだった。それで彼も口を結ぶ。
 この冷たい空気と、同化できぬものだろうか。そんな願いが胸をかする。彼女と自分を隔てるこの波打つ脈が今でもいまいましく、疎ましい。本当に少女のことを、愛していたので。
 「歯のない女じゃないと…だめなの?」
ふいに、シルヴィアのそんな言葉が沈黙を破った。
 グイードは首を曲げて彼女を顧みる。
「え?」
「あなたはきっと歯のある女じゃだめなのね」
彼女も顔をグイードの方に向けて、二人は初めて目を合わせた。
 シルヴィアの灰色の瞳が、闇の中で何か形容しがたい光を放っている。グイードに何か訴えようとしているようだった。今まで投げてよこしたことのない感情を。
 だが、やがて彼女はくすりと笑って、自分の方から取りやめてしまった。
「世の中ってほんと面倒ね」
グイードにはなんと答えていいのか分からない。二人の視線はまた別れた。


「行きましょ」
シルヴィアは、くるりときびすを返すとさっさと歩き出した。
「みんな待ちくたびれてるから」
 そう、とグイードは小さく言った。闇の中で見るせいだろう。シルヴィアの肩があまりに細く小さく見えてびっくりしていたのだ。もっとも、最近はびっくりすることがとても多いのだが…。
 五歩ほど遅れて、彼も歩き出した。不自然な隙間に耐えきれず、大股で歩いて、シルヴィアと並ぶ。運河の水面に二人の影が映って、ゆらゆらと揺らめいた。
 紅い葉っぱを踏んだとき、グイードの頭の中に、愛唱する詩が蘇った。



   …われわれはみな落ちる
  見よ この手も落ちる
  ほかのものたちを見るがよい
  落下はすべてのうちにある

  …けれどひとりのひとがあって
  この凋落を限りなくやさしく
  両手のなかに受け止めている…        




 頭のなかで繰り返しながら、詩人とは、世界に溢れるありきたりの出来事一つ一つの中に、真実を発見できる人のことなのだとふと分かり、自分もそうしていこうと思った。
 エレナを失ったことにくよくよするのはもう…、やめよう。
自分はいたる所に彼女を発見できるだろう。朝の光に、石畳の上に、掌の中に、人の眼差しの中に、彼女はいて、自分は絶えず彼女を愛すだろう。そんなとき世界は優しく、そして胸を潤ませる美しさであるに違いない。
 きっと人はそうやって進んで行くのだ。
すべてのことから限りなく自由に、自分さえ飛び越えて、遙か天の彼方へ。
のぼっていく。











「けれどひとりのひと」
Fine.

 
   




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